ウクライナ政府がザルジニー司令官の解任をワシントンに通告したという記事がワシントン・ポストに掲載されたが、ウクライナの場合、一度解任された人物がそのまま居続けたり、しれっと復帰したりする例があるので、事実が確認されない限り判断できないとなる。

※ ブダノフやレズニコフの例があるが、前者は解任されても平然と職場に居続け、後者はおそらく冤罪だが、様々な場所に顔を出しており、いつ復帰してもおかしくない様子である。

※ そもそも上長のゼレンスキー自身が部下の選任解任をそれほど重大な問題として考えているのかという疑いもある。

 ロシアはクビャンスク、バフムト、アウディウカの3方面で攻勢を掛けているとされ、アウディウカでは鉱業都市の周辺、ベルボベ以東、ベセレ以北の飛行場を巡り一進一退の戦闘が続いている。占領したはずのマリンカでも戦闘が行われており、ヘルソン河畔のクリンキでは、ロシアはドニプロ軍を新設して対抗しているものの、戦果は芳しくないようである。

 イスラエル情勢に目を奪われ、ウクライナに対する関心は低調な傾向があるが、その間もウクライナ軍は顕著な戦果を挙げている。先月14日にはロシアの早期警戒管制機メインステイとIl22空中指揮機が撃墜され、2日にはウクライナ軍の水上ドローンがミサイル艦イワノベツを撃沈している。ミサイル艦撃沈の映像は新兵器に対し従来型の小型戦闘艦では為す術がないことを示しており、ロシア黒海艦隊の大半がこの種小型艦であることから、黒海の制海権はウクライナ優位である。

※ 早期警戒管制機は航空戦ではチェス盤上のキングで、普通はそうそう簡単には撃ち落とせない機体である。遠方から強力な電波妨害を仕掛けられるほか、接近までにダース単位の戦闘機やミサイルの洗礼を受け、こと西側の常識で同種の機体であるE-3セントリーやEA-6プラウラーに戦闘機や対空ミサイルが迫る事態は考えられないことである。が、ロシアの兵法は違うのかも知れない。

 戦闘が膠着していることから、西側には和平交渉と停戦を求める向きがあるが、プーチン政権が続く限り望み薄と見える。彼は幻想の世界に生きており、条約を反故にすることに何の良心の呵責も感じないことから、対話で成果を挙げることはほとんど不可能だろう。仮に停戦が実現したとしても、それはロシアに戦力回復の機会を与えるにすぎない。

 一説によると、ウクライナの現政権に対する彼のヒステリックな反応はKGB工作員時代に着の身着のまま東ドイツを落ち延びたソ連崩壊のトラウマがあるとされる。民衆運動やデモは彼に若年時代の忌まわしい記憶を想起させるものであり、そのことが西側の我々には理解不能な民衆に対する過度の警戒心と猜疑心のそもそもの元凶となっているとされる。

※ 同じようなトラウマは政権時代の安倍首相にも見ることができる。2016年に国会前で行われた安保法反対デモは首相をパニックに陥れたとされる。このデモ自体、彼の祖父が経験したものに比べればかなり「ぬるい」ものだったが、この民衆への警戒心がどういう理論的基礎の上に成り立つのかは興味深いものがある。

 戦況は手詰まりのように見えるが、実は西側はプーチン戦争の大義を失わせるカードを一枚持っている。故キッシンジャーが提案していたウクライナのNATO加盟で、2014年以来、交戦国の加入は認めないというNATO憲章の規定を利用してウクライナで戦争状態を維持することに留意してきたプーチンには、加盟は戦争そのものの大義を揺るがせる大きなダメージとなる。そして将来はともかく、現在のロシアにウクライナ以外の国に攻め入る力はない。

 

(補記)

 今世紀に入ってからの世界の問題政治家にはプーチンや安倍晋三のほか、トルコのエルドアンにイスラエルのネタニヤフ、ハンガリーのオルバン、あと習近平がいるが、ゼレンスキーの場合は彼らのうちの誰よりも分かりやすい政治家である。彼は元芸人で、自身が制作主演したドラマ「国民の僕」は政治家ゼレンスキーの思想信条を表した、まさに政治宣言といえる内容である。世界中どこを見回してもこういう映像のある政治家はいない。その欠点も含め、番組は大統領の人物像を分かりやすく活写している。

 

※ ゼレンスキーと正反対といえるのがプーチンと前ドイツ首相のメルケルで、プーチンは選挙運動さえせず、メルケルに至っては私生活も謎のベールに包まれていた。どちらも旧ソ連圏出身の政治家で体制内エリートであったことは共通している。そのため、メルケルにはプーチンも一定の敬意を持って接しており、また彼女もプーチンとの会談の際にはロシア語を用いてこのロシアの独裁者を手懐けようとしていた。

 

※ メルケル自身の言葉では、旧共産圏時代の経験については、経験していない者には分からないとしている。「私たちはあなた方(アメリカなど自由主義諸国)を理解できる。でも、あなた方が私たちを理解できることは決してないでしょうね」とはアメリカの外交官と会談したメルケルの言葉である。

 

 2年も時間があったのだから、世界中の分析家はこの番組を視聴して政治家ゼレンスキーを検討する機会は十二分にあった。私も視聴したが、視聴した感想は諸々の問題には彼がすでに検討済みなものが少なくなく、膠着状態とされる現在の状況も含めて、彼は状況に対処するオプションをまだ十分に持っているというものである。

 

 それはマイダン革命の時代と現代とは、彼の状況も地位も異なるので、彼としても初めて遭遇する問題は山ほどあったに違いない。が、私の見方ではほとんどの問題が彼には2015年の作品でシミュレーション済みのようにも見えるのである。彼が状況を支配していることについては、反撃が失敗し、戦勢不利が叫ばれてもなお、彼が国外に逃亡せず、ロシアとの妥協を拒んでいることがある。不本意に停戦を強いられたとしても、その時どうするのかはすでに答えが描かれている。

 

 現実が戯曲のように行くかは定かではない。が、ドラマを視聴した人間、多くのウクライナ国民を含む、については、大統領が次に何をやるのかは動機のレベルで理解できることあり、説得も他の政治家よりも遥かに平易なことがある。そしてこれが彼の最大の強みである。

 

 2024年は年初から騒々しい年で、まだ1月しか経っていないのに能登の地震に羽田の事故、自民党の裏金問題に「セクシー田中さん」と不穏な話題に事欠かないものになっている。どれもネットでは炎上し、各々がさも正論のようなことを宣っているのだが、その切り口について考えてみたい。

※ 松本人志の件もあったが、デビュー以来一度も見ていないので、これはどうでもいい。そもそも私は「たけし漫才」が嫌いである。

 以前読んだ本の記述だが、問題を「収束(convergence)」と「発散(divergence)」に区別するというものがある。収束問題の典型は数学の公式で、誰が解題しても同じ数式なら同じ答えが得られる。そもそも言葉自体数学用語だが、人文化学の分野では、収束問題は再建プロジェクトや工程表といったものがそれに該る。以前の民主党が大好きだったものである。

 「発散(divergence)」については少々分かりにくく、例えば裁判の利益衡量論とか、イスラエルとハマスの紛争など回答が一義的に得られないものを言う。スマホでゲームなどすると良く分かるが、人に安心感を与えるのはconvergenceの方である。ビジネスマンが帰りの電車でラノベ小説を読んだり、ゲームに熱中したりできるのは、それらが同じ頭を使うにしても答えのあるものだからである。

 「収束(convergence)」にはもう一つメリットがあり、一定の論理で何か整った回答を示されると頭が良いように見えることがある。「選択と集中」という言葉があるが、実際にも経営資源でライバル社を凌駕すれば市場で勝つチャンスは大きいだろう。

 が、「選択と集中」には欠けている言葉がある。「選択」の過程で切り捨てられたプロジェクトとか、発展途上の有益な人材とか、残しておけば別の機会に用いることのできるものが全て失われてしまうことを表現する言葉は切り捨てられている。仮に競争に勝ったとしても、その市場自体が縮小したり時代遅れになったら、やはり将来はないのではないか。

 能登の地震についてみれば、救援作業はうまく行っていないようである。それは様々な要因があるが、致命的なのは政治がconvergence志向で、divergenceではないことである。避難所を用意したり、物資を搬入したりと言った作業は行われているだろう。しないと困るものであるし、各々には担当の職員や業者がいる。

 本当の政治の役割はこういったプロジェクトを提示して問題は解決したとするものではなく、今も被災地に残る被災者たちとの調整作業、現状に対する日々の対応が本当の仕事である。これには答えがない。これらは携わる者に無限の精力を要求するもので、きれいな形では決して終わらない。

 問題を「収束(convergence)」と「発散(divergence)」に分別した場合、人間が叡智を費やすべきはdivergenceの方だと分かる。能登の場合は用意してもいくら経っても埋まらない避難所などはconvergenceの失敗の例である。「二次避難」という言葉に飛びつき、住民のニーズを切り捨てたことで、彼らは「仕事をしているふり」に自己耽溺したのである。ほか、民間ボランティアを登録して管理しようという試みがあるが、避難所以上に不協和音があるのは見れば分かるだろう。
 

 この見方では、リーダーの仕事とは、プロジェクトを「選択」することではなく、プロジェクト相互間を「調整」することである。


 「セクシー田中さん」問題については、真相は分からないが、いわゆる作家サイドの言い分が喧しい。中には乱暴なものもあるが、では、彼らや故人の言い分を100%聞き入れたところで解決になるか、出版業界もテレビ業界も構造不況業種と言われて久しい業界である。作者に絶対的な優先を認めたところで、業界それ自体が縮小してしまってはどうしようもない。

※ この「セクシー」の議論でため息が出るのは、作家たちにしろ日テレや小学館にしろ、気ままな言い分を宣うばかりで、誰か一人でも本当に困難な調整作業に臨もうという意思を微塵も感じないことである。

 とはいうものの、話していても説明しにくいので、自動車の購入を例に挙げてみたい。

1.A車は小型のハッチバックで軽い車体に最新の空力フォルムを纏い、大人4人が過不足なく乗ることができ、燃費も維持費も低廉な車である。が、装備は最低限で、小さいことから友人には軽自動車と間違われることもある。

2.B車は大型のSUVで豪華装備がフル装備で装備されており、知名度も高く、車体も頑丈でデザインにも優れた車である。大きく重い車体だがハイブリッド機構を装備しており、見た目ほど燃費は悪くない。

 具体的にどの車とは意識していないが、どちらを選ぶかはお好み次第である。ABどちらでも良いと思うし、趣味の範疇だが、ここで視点を振り向けるべきはどちらの車が良いかではなく、どの車がオーナーを幸せにするかである。私の見方ではA車がdivergence、B車がconvergenceである。燃費が良く維持費の安い車はそれだけオーナーに多くの経験をさせることができ、それによって拡がった視野に価値を見出すからである。ここでは個々の車が問題なのではなく、車を含めた人生全体を考えるべきなのである。

 

※ ガソリン代や維持費に余裕があるならB車でも十分幸せになれることは言うまでもない。

 

 

 

 河野が「ひどい話やねん」とご立腹なので話を聞いてみたら、何でも「セクシー田中さん」という漫画の作者がテレビ局との軋轢で自殺した話らしい。そこで作品も番組も知らない私がしたコメントが(作者に対して)「酷い」という話だが、確か私はこんなことを言ったような気がする。

1.テレビ番組で(作者の手を離れた)作品が改変されるのは当たり前。
2.作者に番組制作者に口出しする権利はない。
3.ツイッターの発言すら不適当、契約で禁止すべき。
4.そもそも人間として未成熟。

 と、言いはしたものの、後で調べると作者は50歳の漫画家で、過去に映像作品もあり、受賞歴もあるベテランで、上のような事情を知らないとは思えないことから、さらに首を傾げることになった。私に言わせれば、放送された作品と原作が違うのは「当たり前」である。分からないはずはあるまいに。

 おそらく理由は言われているようなものではないのだろう。金銭的なものなどもっと深刻なものが背後にあると思うが、この業界では口約束が横行し、原作者の権利が守られない傾向があることは知っていた。

 イギリスでは市民的自由とは「法で禁止されていない限り何事もなすことができる権利」と把握され、コモン・ローもその歴史的所産の上に解釈が成立するが(なので大陸法系の我が国では非常に理解しにくい。イギリスが成文憲法が無いにも関わらず、人権解釈につき進歩的で精密な運用をしていることなど一証左である)、我が国の場合は当事者の力関係による恣意的な指図が横行し、裁判に時間と金が掛かりすぎることから是正も難しいことがある。

※ だからSNSでの作者のコメントをテレビ局が削除させたことは明確に「誤り」と断言できる。それをしたければ契約で明定し、補償を積む必要があった。言論の自由がいかに高次な権利であることは、おバカなスタッフでも社会部に聞けば分かるだろう。

※ 「裁判所は少数者の権利の最後の砦」という言葉はこういう国でこそ意味を持つ。我が国はネット裁判でどうしようもない。

 とはいうものの、著作者人格権に基づき放送禁止の仮処分は打つことができたはずだから、そこで交渉の余地はあり、要望を明文化して鉾を収める措置は可能だっただろう。

 しかしながら、私は番組を視聴しているだけだが、以前と違い、最近の映像作品の場合は原作者も息が詰まるだろうと思えることはある。以前の作品の場合は脚色はテレビ局が自由にできたものの、主題歌の歌詞など一部に「作者の聖域」と呼ばれるものがあり、作者の意思が絶対的に尊重されるフィールドがあった。例えばデビルマンの歌詞(作詞・永井豪)など。

 裏切り者の~♪ 名を受けて~♪
 すべてを捨てて戦う男~♪
 デビルビームは熱光線、デビルイヤーは「地獄耳」
 あ~く~ま~(悪魔)の力~♪ 身に~つ~けた~♪
 正義のヒーロー、デビルマン、デビルマーン~♪

 こんな矛盾だらけの歌詞を日テレの一社員が上司に提出したら、突っ返されるか相手にされないに違いないが、作者だったら許される。が、今の作品はそうではない。映像と同時に主題歌のプロデュースも収益化のプロセスに組み込まれており、作者が歌詞を書いて憂さ晴らしなどということはできなくなっている。初代ガンダム(富野喜幸)あたりが最後の作品だろう。車田正美はまともすぎてちょっとつまらない。

 主題歌のほかはやはり作品のキモ、テイストを決める部分についてはお伺いを立てるというしきたりはあったようである。作品に取って作者は万能神ゼウスのようなものであり、彼ないし彼女しか語れない内容は必ずある。が、この場合も「神」なので、ご託宣はあいまい抽象的なもので足り、細かすぎるものは困ることはある。

 脚本家の層が厚くなり、質も向上したことで神頼みの場面が少なくなったことはある。また日本の場合、脚本家は少数精鋭主義でスター脚本家に見向きもされないと作者も手も足も出ないことはある。ハリウッドだったら同じ話に複数の脚本を提出させ、気に入らないものは弾けば良いが、執筆料のケタが違う。脚本家の方の言い分も見ると、今回はいろいろと不幸な巡り合わせがあったようである。

※ 一作品につき二人以上の脚本家を付けるというのも有効な解決策である。A脚本とB脚本とを用意し、作者も含む制作会議で合議して採用すれば、作者の満足も高くなり、脚本家のモチベーションも上がることから、考慮すべき方法である。

 

※ そもそも我が国は何もしない人間の取り分が多すぎ、搾取が横行して額に汗した人間の取り分が少なすぎることはある。脚本の複線化など、要らない人間の取り分を減らせばすぐに捻出できるだろう。

 番組化というのは単に戯曲の映像化にとどまらない複合的なプロジェクトのため、物によっては主役や主役メカが制作以前に決まっていることがある。伝説巨神イデオンとか機甲艦隊ダイラガーなどがその例だ。これらはメカの方が先に完成しており、スタッフにはデザインの余地さえなかった。そしてこういうものには、いわゆる「作家」は手を出さない。専ら脚本家が創造性を働かせて作品づくりをすることになる。

※ ダイラガーは玩具会社ポビーの役員、村上克司のデザインだが、放映時にロボにやられるバトルマシンは出渕裕(日本アニメーション学院)のデザインで、デザインの傾向は全く違うが、脚本家の藤川桂介が強引に作品を成立させたことがある。イデオンも最初にロボが出来ており、その奇天烈さから監督の富野喜幸が「第三文明人」というストーリーを思いついた。

 原則として、過去の作品の例からも、作者に監督や脚本家など制作スタッフに介入する権利はないと考えている。創作したキャラクターが汚されたり、ストーリーが低劣なものに書き換えられた場合は別だが、それは争う手段がある。大黒柱だけでは家は建たないのであり、やむを得ず介入する場合でも、作者の介入は抑制的であることが大原則である。

 その上で、今回の件では制作局は作者の権利につき明確に文書化する必要はあっただろう。例えばSNSでの発言は、私だったら作者のみならず制作スタッフ全員につき、制作中は公用私用問わず全面的に禁止する。作者は代理人を介して交渉できるようにし、著作権には留意する。

※ SNSでフォロワーを集めないと注目してもらえないというのは、実のところは疑わしい現代の病理の一つである。

 そういうことをすると次から契約してもらえなくなるという向きがあるが、権利の濫用である。法的手段を取るのに躊躇する理由はなく、巨額の賠償金を請求すれば良いし、金額が足りなければ任意的訴訟担当で数を集めて叩きのめす方法もある。たいがいの作者と同じく、私も創造性のない人間に敬意を払わないし、そういうことをされたくなければ、業界慣行などという極東の片田舎でしか通じない常識ではなく、公平で精密なものを最初から作って提示すれば良いだけの話である。
 

 京アニ事件の青葉に死刑判決が下されたが、事件を無垢な被害者たちの悲劇の物語としてまとめたがった京アニやマスコミと異なり、被告が即日控訴して陳腐な筋立てを台無しにすることは裁判の経過を見れば分かりきった話であった。被告を救命した医師のコメントも載っていたが、救命は「余計なこと」だとは前にも書いている。

 被告に損失を補償する財力も術もない場合、その身柄を代償として差し出すことは古代から行われていたことであり、「刑罰理論は復讐の偏執症者(パラノイア)である」という格言もあるくらいである。この論理では罪障は被告の死によって消失することとなり、それが焼死でも刑死でも結果に大差はないことになる。

 ここで半死人の被告を蘇生させて法廷に引きずり出すことは古代の復讐の要請ではない。それは近代に入ってからの法治国家の要請である。近代国家は国民に遵守すべき規範を定め、その逸脱に対して刑を執行する。規範の中には以前でも違法と看做されたものが数多くあるが、それらは平均人標準説で再解釈されることになり、罪刑法定主義のカタログとして国民の前に提示され、「法の不知は許さず」というフィクションの力を借りて無学な犯罪者にも適用される。

※ 全く玄関に火を点けてちょっと脅かしてやれという程度の話が大量殺人の下手人に仕立てられ、死刑判決まで受けるような話とは、事実としてガソリンには非常な揮発力があり、爆発的に燃焼するものであり、それに着火して自分も丸焼けになったことはあるが、当の本人には行為の危険性も、その結果にしても、認識はまるでなかっただろう。ある種の危険な行為については、結果を予見して認識する義務があるというのも、裁判におけるフィクションの一つである。

 青葉を蘇生させて被告席に立たせたことは京アニ本部への放火と殺人という本来の彼の罪に見合ったものではなく、これはどこまでも国家の要請なのである。応報だけなら重度の火傷を負った彼はそのまま死なせれば事足りた。それで医師を非難する者は誰もいなかっただろうし、遺族に対しても実はそれで十分だっただろう。

※ 蘇生させて立廷させた結果が陳腐な復讐ショーだったということも興ざめする理由である。もちろん、これは京アニや遺族の責任ではない。国家が果たすべき説明義務を果たしていない所に満たされなさがあるのである。

 ところが、医師は自身が創案した独創的で画期的な治療法(青葉メソッド)を試し、これはこれで今後多くの命を救うだろうが、結果として被告は救命され、巨額の治療費は正義の代価として正当化されたのである。一審判決ではこのことにつき疎明する必要があった。現状は見ての通り、これは国家がそれを求めているという以外に必要のなかった措置なのであるから。

 裁判官の判断としては犯罪に至った事実の認定と責任に対する判断を示せば事足りた。放火にしても殺人にしても最高刑は死刑で、被害の大きさを考えればどちらでも結果に違いはなかったといえる。裁判員裁判が結果として遺族の復讐ショーと化してしまったことには、私に言わせればこれは誤った訴訟指揮による余計な夾雑物だが、元より裁判などというものに、あまり多くを期待する方が間違いなのである。

 見ての通り、実際に行われた裁判と彼を被告席に立たせた論理との間には大きな隔たりがある。そもそも彼の犯した罪が殺人罪なのかということについても私には疑問があるが(過失致死罪ではないか)、判例通説では問題ないようであり、それは首肯するとしても、それで断絶した論理が埋められるものではない。

 青葉は明らかに「失われた30年」、就職氷河期の犠牲者である。そしてそれは政策的過誤によって引き起こされたものだ。青葉の立廷は、本来ならば蘇生自体につき法務大臣のコメントが必要だったことだ。もちろんそう受け止められてはいないし、裁判も同種事件の通常の量刑相場に沿って進められ、裁判を成立させた背景には触れることはない。

 判決は裁判官が訓練されたノウハウを開陳しただけに過ぎない。この事件は教訓にならず、第二、第三の青葉が出現することを防ぐことはできない。先にも述べた通り、彼が動物的なカンに基づき無益な控訴をするのは当たり前である。この裁判はあまり出来の良いものとは言えない。

※ この点、裁判官は法の適用と解釈においては申し分ないが、法それ自体に対しては背徳者と言える。が、取り立てて言うこともない普通の裁判官でもある。

 法が真に国家の正義を体現したものならば、彼を凶行に追いやった背景にこそ目を向けるべきであり、改善教育により更生しうることを示すべきである。この人物は以前にも犯罪を犯しており、そこで適用された中途半端な保安処分が犯罪傾向を助長したことも否定できない。殺してしまえば片付くが、包含された問題が消えることはない。そして被害者とその遺族は何の罪もない人たちである。

 怒りを向けるべき対象は、被告の他にもあるのではないか。私はそう思うが、もちろん、これは多数派の見解ではない。

 

 ウクライナの反転攻勢が終了したため、このブログも10日ごとの戦況報告を終えることとした。欧米諸国では(特に米国)反転攻勢は失敗という認識であり、供与された兵器を使い果たしたウクライナは防御態勢にシフトしたとされる。つまり、戦況は動かず、新たな動きがあるまで観察者にとっては平板な時間となる。

 米国議会の政争による支援中断はウクライナに現在以上の作戦行動を不可能にし、ブリンケン国務長官による24年以降の支援縮小は領土奪還はおろか、現在の守備位置も維持できるかといった問題をウクライナに突き付けている。クリスタル・シティでは現時点における停戦を求める動きがあり、反転攻勢の失敗から、この意見は一定の影響力を持つに至っている。そもそもバイデン政権自体が低支持率に苦しめられており、二期目を維持できるかどうか怪しいところがある。

 防御作戦については、ロシアが侵攻する可能性のある全戦線に均等に兵力を貼り付けることが愚策であることは論を俟たない。戦力は最も有効な戦区に対し、それが叶わないなら自国の最も重要な拠点に対し、防御的に配するのが有効な方法である。

 情勢を観察するに、現在のウクライナ軍には機動性が欠けているように見える。ハリコフ、クビャンスク、バフムト、アウディウカ、オリヒウ、ヘルソンの各戦区が各々ウクライナにとって重要な拠点かといえば、ハリコフ以外は単に戦場であるだけで継戦能力にも兵力の増強にも影響のない戦区だろう。重要拠点とは兵器廠のあるキーウやリヴィウ、イバノフランコフスクのような場所を言う。これら戦略拠点と前線を結ぶコミュニケーションが軍隊が防衛すべき場所である。極端な話、前線には斥候部隊を貼り付けておけばいい。

 戦略に優先順位が付けられているかが防御的姿勢における情勢観察のポイントだが、現在のロシア軍がアウディウカに戦力を集中しつつあることは、ロシアの戦略目標もあるが、防御の集約を図りたいウクライナ軍によってある程度誘導されたものと見ることも可能である。そのため、他の戦線は戦闘はあっても散発的で、事実上戦闘はアウディウカ周辺でしか行われないものになっている。

 ドニエプル河畔クリンキに展開しているウクライナ軍の小部隊については、やはり新しい兵種と見るのが妥当である。強力な電波妨害を展開し、ドローンや長距離砲でロシア軍に損害を強いているこの部隊は進出してきたロシア軍の背後に地雷を撒き、補給線を断って個々に殲滅する戦術を採っているが、航空機や戦車の掩護なしにこれだけの殺傷能力を持つ兵種は他に例のないものである。

13日の英国国防省のウクライナ報告

 アメリカについては雲行きが怪しくなっているが、スナク首相は25億ポンドをウクライナ支援に拠出し、2億ポンドをウクライナ向けドローンの生産に充てる旨を表明した。12日にイギリスはウクライナと安全保障条約を締結したが、ウクライナのNATO加入までという条件付きのこの条約はウクライナが西側諸国と初めて結んだ条約となる。これは昨年7月のG7合意に基づくもので、ウクライナに対する優先的な兵器の提供とロシアの賠償までの国内ロシア資産の凍結を約したものであるが、細目は二国間条約に任せられ、具体的な条約の締結はイギリスが初めての例となる。

 

 アメリカと「特別の関係」にあるイギリスがウクライナで一歩先んじたことは、混迷を深めている米国の対ウクライナ政策にも大きな影響を及ぼすものと考えられる。

 

 一週間が経過したが、能登の地震は生き埋めになった方々については救助から遺体収容に、破壊の程度の著しい地区については二次避難に方向性が変わって来ているように見える。

※ ここで金沢市などへの二次避難に難色を示す住民が多いのは高齢化の上、避災後の地域の治安維持に強い懸念を感じていることがあるとされる。実際、東日本大震災においては被災直後からかなり長期の間、窃盗団による窃盗が横行した。

 初動の遅れが指摘されているが、これについては半々と言える。東日本大震災の教訓から組織の立ち上がりは早く、救助活動自体は迅速に始まったが、問題があるのは組織ではなく組織の動かし方であるように私には見える。

「指導者養成に有用なことは模範解答や過去の事例の丸暗記ではなく、問題に即した正しい方策を立案する習慣と、それを涵養する知的修養である。」

 以前読んだ本の記述だが、意訳なので訳し方は色々ある。今の様子を見ていると、まさしくこれが岸田首相や石川県知事に欠けている素養のように見える。

 地震発生以来の首相を見ていると、行ったことは激甚災害の指定と特定非常災害の指定くらいで、前者は復興支援の財政的援助、後者は納税など行政事務の猶予や期間の伸長で、現在の災害に即応するような内容はまるでないことに気づく。

 首相官邸のツイッターでは災害救助の様子がそれなりに詳しくツィートされていることから、官邸が事態を把握していないというわけではもちろんない。が、創造性に欠け、用意された対策法をまじないのように唱える以外に首相としての仕事は無くなったかのようだ。

 これでは大型艦は現地に派遣されないし、ヘリコプターも被災地に飛ばないだろう。必要な物資を現地の要請を待たずに送りつけるプッシュ型支援も発動は早かったが、問題は物資を送ることではなく、届いた物資を被災地にどう配達するかということである。

※ たぶん、下積み時代の彼らの経験に創造性を必要とするものがあまりなかったのだろう。

 道路の開削も東日本大震災で実績のある「くしの歯作戦」が採用されたが、能登半島の地形は山間で一本道が多く、並行する無傷の高規格道から被災地に浸透するこの方法は取り得ないものになっている。東北自動車道に相当する「のと里山海道」自体が激しく損傷し、工事機械を集結させることができないからだ。

※ そういうことはどうも現場任せのようである。

 このような災害に正解はなく、救助が遅れたからといって政府を非難するのは私も気が引ける。が、物資や燃料の不足から災害関連死の懸念が熊本地震以上に高まっており、今のままでは遠からず凍死者、地域によっては餓死者を出す懸念がある。それも数人ではなくそれなりの人数で。過ぎた誤ちは仕方がないが、これから起こる間違いについては戦々恐々とするものがあり、それは人災といえる。

 が、国民はその国民以上の政治家を持つことはできないという格言もある。彼らの姿は翻って今の我々の姿でもある。尊い犠牲の果てにこの国の国民が反省することはあるのか、私はたぶん無いだろうと思っているが、無ければ同じ過ち、あるいはもっと大きな誤ちを繰り返すだけである。

 羽田の事故は国土交通省が交信記録を公表したが、実は17時46分のJAL166便(516便と同じ日本航空機)と17時47分の羽田の管制塔の返信には1分17秒のナゾの空白がある。衝突はその数秒後で、1分間に1.5機が離発着する過密空港でなぜ1分以上も無線チャンネルを空けていたのか気になる所である。海保機が滑走路上に停止していた40秒間はこの時間に収まることもある。

※ どうして誰も指摘しないのか私にも分からない。国交省は交信音声を公開すべきだろう。

 石川県は相変わらず所在不明者をその日の人数で報告し、報道もそれに倣っている。のべ人数ではすでに千人近くおり、過去の例と違ってほとんどが在宅し、地震によって下敷きとなったと見られることから、犠牲者はかなりの数が予想される。すでに火葬場は間に合わず、収容した遺体の保管が問題となっている。

※ この地震の特徴として地形による制約があり、迅速に救援され復興が視野に入っている地域と小村落や道路の寸断などで救援の手がほとんど及んでいない地域がある。報道も区別していないので中継の大半は最初にテロップが出るだけでどこの市町村か表示がないことがある。多くは志賀町、輪島と珠洲市の市役所近くである。


 これが東日本大震災による、損失をなるべく小さく見せようという小細工なら、誤った教訓というべきだし、これも過小報告されているように見える志賀原発も併せ、真実はいずれ明らかになることを見れば、今からでも国民に対し率直かつ誠実にあるべきだろう。

 

 もっとも、誠実という言葉の意味でさえ、理解しているかどうか疑わしいが。


 

 能登の地震は救出活動が続いているが、やはり崩落が原因で捗っていないようである。警視庁や各市町村、自衛隊の救助隊は到着しつつあるが、道路の破損が酷すぎるため、自動車や重機を置いて漁船やヘリで現場に向かった例もあり、身一つで到着した隊員は若干の救出や遺体捜索には成功したものの、本来ああるはずの機材が使えないことから作業能率は大きく低下しているという。

※ 地政学的な常識が少しでもあるなら、災害発生で能登半島の地図を一瞥するだけで輸送上の困難が生じるだろうことは容易に分かることである。

 報道では、のと里山海道を通じ輪島市、珠洲市への大型車の通行は可能になったとしているが、相当に疑わしいものがあり、マップでも多くの箇所が通行止めのままである。通行は可能であっても、かなりの時間を要するものと思われる。地図を見ればこういったことは十分予想できるものだが、奥能登を除けば、石川県の道路環境は金沢と加賀は近隣諸県よりも良質なものである。我々が報道を見るにしても、七尾以南の比較的容易に到達できる地域とそれ以外の地域の仕分けが必要だろう。

 到達困難な地域については現時点ではヘリコプターが最も確実な輸送手段だが、能登半島周辺で活動中の船舶を見ると、若干の海上保安庁の巡視船のほかは輸送艦「おおすみ」と護衛艦が3隻(ありあけ、すずなみ、せとじり)、あとはケーブル敷設船の「きずな」があるだけである。空母「ロナルド・レーガン」は出港したようだが、海上自衛隊の4隻のヘリ母艦は全て在泊中で、本来なら全艦出動して洋上基地として機能させるべきだ。

能登半島沖に展開している護衛艦

 航空機も羽田で事故を起こした海保機のような政府専用機も救援物資を積んで次々と金沢空港に来援のようにも見えない。ほとんどは通常任務のように見えるのだが、これはどういうことだろうか?

 テレビで様子を見ていると、どうも岸田首相と石川県知事は指示すれば後は部下がやってくれ、指示したことで自分の責任は果たしたと思っている節がある。が、部下の裁量を超えた省庁間レベルの調整は内閣が動かなければどうにもならない。しかも、その内閣の事態に対する想像力が恐ろしいほどに乏しい。少なくとも大型艦艇を救援に参加させるには総理の判断が不可欠である。

※ 政府は二次避難所としてホテルや旅館を提供するというありがたいお話だが、地震でヒビ割れたり、水道や電気が途絶した施設にまともな接客機能があると思っているのだろうか? そうでない施設は元々あまり問題なく、救援の必要も乏しい場所ではないか?

 北國新聞社の記事によると、現時点で孤立集落は21箇所、要支援集落は29箇所ある。母艦なしでもヘリが間に合っているならそれでも良いが、日本海にプカプカ浮かんでいる自衛艦のヘリコプターは多くても4機で、それは陸自の機体もあるし、のと里山空港に燃料があれば前線基地としても使えるが、少なくとも舞鶴に停泊しているヘリ母艦「ひゅうが」1隻でも10機以上の機体を運用できる。集中治療室を備えた病院船としての機能もある。どうして使わないのか、私には理解できない。

 

※ ニュースで見たところ、現在ののと里山空港はがらんどうであり、被災地のほぼ中央に位置するこの空港の活用は誰も考えていないようである。滑走路はダメでもヘリコプターは降りることができ、重機は穴水あたりをせっせと掘っている様子を見ると、邪推ながらこれを拠点に使えばとは思う。

 

 年初から地震に旅客機炎上と気の滅入る話が続くが、前に直江津を訪れた時に知り合った「なおえつ茶屋」店主のブログにデトックスの方法が書いてあったのでホッとした。

1.ニュースから逃れること。
2.クラッシックを聴くこと(ピアノ系が望ましい)。
3.旅の準備をすること。
4.美味しい珈琲を淹れること。


 私もいい歳だけども、人生の先輩(90歳)のアドバイスは役に立つ。さっそく実践させてもらおう。コーヒーはコーヒーメーカーを使わず、ドリッパーやサイフォンなどあえて面倒な方法で淹れるのが良いかもしれない。パーコーレーターは不味く飲む方法なので使わない。

 能登の方は外紙などは日本の防災対策を褒め称える記事が上がっているけれども(ほか、鬱陶しい日本ヨイショ記事)、現在進行形の事柄で、そもそも東京のデスクでニュースを見物していただけの奴の書いたものなど信用できない。同じBBCでも現地に出向いた記者はもっと深刻な内容を書いている。が、韓国で刺殺事件あり、ソレイマニの葬儀で爆弾あり、キーウにミサイルがと他の事件もあり、少なくとも外国では初報で被害が少なく見えた能登地震への関心は失われたようだ。


JARTIC道路情報から

 被害云々と言う前に、この地震はまず地図を見ることをオススメする。いかに救援し難いか。能登半島は何度か走ったことがあるが、比較的アプローチしやすいといえる七尾も自動車専用道なしでは厳しい場所で、輪島は珠洲は道路があっても行きにくい場所にある。元々冬季は通行しないことを前提に開拓された元北前船の係留地で、有名な輪島塗も冬は背負子を担いで行商していたという場所である。高齢化率は5割を超える。

 それが道路をやられ港をやられでは救援の困難さは想像するに余りある。そろそろ物資も尽きる頃で、今が正念場である。政治家は腹立つがこの際放っておこう。

 羽田の事故の方はどうも日航機にも海保機にも過失といえる過失はないようで、そもそも滑走路へのアプローチには直前に赤信号に相当する一時停止の赤標識がある。侵入は許可されていたと思われるが、国交省発表の資料にはいるはずの地上コントローラー(監視員)の記載がないので、どこかに間違いがあるのだが、ごく常識的に考えても赤信号を無視して交差点に進入したら、運転手も機長も喚き立てるのが普通だろう。それをしなかったのだから、おそらく許可は出ていたし、地上監視員も異常を認めなかったのである。

※ 標識は雑草に覆われていて見えなかった。地上監視員はそもそもいなかったという話も聞く。となると誰が問題かは自ずと答えが出る。

 おそらく空港の体制に問題があると思われる。ダブルチェックといっても形式的で現場に裁量がなく、指導者が創案性に乏しいものはどこでも機能しない。1日800回の離着陸のある国内最大の大空港で15人の管制官は少なすぎるのではないか? この点、この事故はダイハツ偽装事件と同じ日本型組織の病理の一類型といえる。

※ 北朝鮮なら国交省の空港担当の局長は機関銃で銃殺だろう。

 初日からしんどい話の連続なので、私も少々疲れている。ここは先達の教えに従い、私にできることなど何もないのだから、おそらく色々まずい話や腹の立つ話がこれから出てくるが、ここは関わらずに静かに事態を見守りたいと思う。

 

 そろそろゆく年くる年だろうと思い、11時前くらいにテレビを点けると紅白歌合戦が放送されていた。昔はテレビを囲んで7時の日本レコード大賞から9時の紅白が我が家の定番だったが、そもそもヒット曲を知らないこともあり、遠ざかってずいぶんになる。キーボードを叩きつつ音だけ聴いているというのは、私のいつものスタイルだが、今年はKindleで洋書を読んでいる間に1時間はアッという間に過ぎてしまった。

 そういう視聴方法だったので番組の批評もおごかましいと思うが、歌手にしろ俳優にしろ、今のクリエイターは大変な時代に生きているとしみじみ思う。作品は今の作品のみならず、およそ80年の映像史における名だたる名作とも対決しなければならず、そのためNHKの番組も総花的で、覆面歌手のAdoに黒柳徹子、寺尾聰にディズニーなど出してきたけれども、率直に言って方向性を見失っていると思う。

 先の大河ドラマ「どうする家康」でも見られた傾向だけども、あまりにも多くの情報がある場合、作品は「記号化」する傾向があり、松本潤の家康も岡田准一の信長も狂言回しのアイコンでしかなく、最後に至っては年表ドラマで、没年のあるキャラが該当回に順々に出てくるだけという何とも白けるものになった。私は作品を見る際に「目に見えないもの」を見ることを心がけているが、この作品では結局何も見えなかったと落胆したことがある。

 記号化ドラマの元祖はおそらく手塚治虫のスターシステムで、手塚の影響を受けた漫画家や演出家が技法を継承したことにより、このタイプの話は日本人には馴染みがあり、私などは白けるが、手塚もブラックジャックは手塚作品のあちこちに登場するが、ちゃんとキャラクターを描いた本編があることもある。現在ではそれはウィキペディアである。視聴して意味不明な内容はGGKで調べろやということだ。

 紅白に話を戻すと、今の歌手は別に昔のスター歌手と張り合う必要はないと思う。状況が違うし、歌唱力ならステージで地声を張り上げていた笠置シヅ子に今の歌手など誰も敵わないだろう。演奏などはジャズ一本槍だった昔より今の方が優れているが、売り出したい今の歌手にゲタを履かせることはない。演奏の質を落とすとか、加齢で声量の衰えた歌手を罰ゲームのように引きずり出すとか。

 視聴者が知りたいのはその年の最高水準の歌手と歌謡曲であって、80年分の歌謡曲をタイムトラベルすることではない。ヒットした歌にはその時代で支持された理由があり、今には今の理由があるのだから、ヒット曲だけで3時間の番組枠を埋められないなら、そんな番組は止めてしまえばいい。それは歌手を育てなかった芸能界の責任で、国内でロクなヒットを生み出せないなら洋楽を聴けばいい。

 興味をなくした理由の一つは、紅白が回を重ねるに連れ日本の会社みたいになってしまい、年功序列で歌手の格が決まり、新曲はコンビニでしか聴けない曲で、人選も大御所の覚えがめでたくないと存在さえ認めてもらえないという発展の乏しさがある。内容の貧しさを補うために新作映画やアニメ、大河の紹介を入れたりというのも一度見れば飽きる内容で、番組の質の向上にはまるで関係ない。磨けば光る原石どころか、石を掘る努力すらしていないようにも見える。

 出場がスターの勲章みたいになっていたことも気に入らない点で、それで多額の金銭が動くのだから、最初から公平な審査なんか期待できるはずがない。黒柳徹子の番組(ザ・ベストテン)が金字塔なのは黒柳が一位の歌手のみならず、ランクインしても出ない歌手や、ランキングは低いが実力は確かな歌手をちゃんとフォローしていた点で、今の彼女にそれは期待できないが、見習うならこういう姿勢を見習ってもらいたいと思いもした。

 そもそも今の演出家に目利きができるのだろうか? NHKには1万人の社員がいるが、最近の番組を見るとマジメに働いているのは百人くらいじゃないかと思えることもある。これが有料のオンデマンド配信として、有料で見る人間などいるのか? 少なくとも私は見なかった部分をNHKプラスで見直す気はない。

 映像が綺麗なことは映像を見ない人間には関係ないし、歌が流行っていることも芸能人に興味のない人間には関係ない。内容がどうのというのも、ネットのヨイショ記事を読み飛ばす人間にはまるで響かない。本当にパワーのある歌やドラマというものは「目に見えない力」があり、そんな人間でも手を止めて振り向かせるだけの力のあるものである。

 全部見ていないので公平な批評とは言えないが、少なくとも今年は読書の妨げになるようなことは全然なかった。
 

 ロシア国防省はマリンカの失陥を報告したが、ウクライナ軍は戦術的後退をし、ノボミハイリフカ、アントニフカで戦線を維持しつつ、再びマリンカに突出しているようである。アウディウカ方面のステポベ、シェベルネ付近では戦闘が続いており、ロシア軍は街を包囲しようとしているが、アウディウカ北西の7キロの間隙は一月以上縮まらないままである。攻撃回数は多いが、ドネツクの戦闘は小康状態に入りつつあるようである。

 代わりに戦闘が加熱しつつあるのがヘルソン方面で、クリンキのウクライナ軍陣地を巡る戦いは砲撃戦が主体であるが、週末にジェット戦闘爆撃機5機が立て続けに撃墜され、ロシア空挺部隊相手の戦果もそれに伴うものになっている。どうも従来とは異なる戦術を採用しているようであり、ロシア軍は先頭を行く装甲車や兵員トラックと同時に後方の砲兵陣地や司令施設も同時に叩かれるという空陸立体攻撃を受けている。これはナチスドイツやソ連軍の戦闘教義であるが、縦深的でなく、また、装甲車の進撃を伴わない所が異なる。いわば、全く新しい部隊の出現である。

 ただ、BBCのレポによると、クリンキに上陸したウクライナ海兵旅団の損害は大きく、また良く訓練された部隊にも見えないので、これが作戦なのか、様々な兵器を組み合わせた結果、偶然そうなったのか、現時点では判断できないものがある。攻撃は効果的だが、人的資源という点では故意に遊兵を作る浪費的な戦い方である。

※ 正直、この戦闘から帰還したウクライナ兵が事件を起こしても私は驚かない。

※ 「良く訓練され~」と書いたが、参加しているとされるウクライナ第95海兵旅団自体は歴戦の部隊である。が、それだけではないようにも見える。

 彼らは上陸したが、戦闘を行っているのは専ら後方の砲兵陣地やロケット砲で、戦車や装甲車もなく、敵陣を突破する推進力もない部隊の滞陣は奇妙というほかない。戦果だけは多数が報告されているが、ロシア軍も主力を振り向けるほどの脅威とは判断していない。ウクライナ軍もこの時点で手の内を見せることが賢明かどうか、私にも疑問がある。

※ これらの特徴から、従来とは異なる兵種を観念した方が良いかも知れない。

 年末にロシアは150基のミサイル、ドローンでウクライナ全土を攻撃し、キエフやオデッサ、リヴィヴなど主要都市のほとんどが被弾したが、攻撃は兵器工場や発電所などウクライナの戦争インフラを中心に行われ、原子力発電所やダムは標的としなかった。プーチンは停戦を示唆しているが、これについては西側にも同調する動きがある。

※ ロシアミサイルは命中率が悪く、目標を数キロ外して商業施設や病院に当たることがザラにある。また、起爆も映像の半分以上が不発弾で火災は起爆不良や搭載燃料の燃え残りによるものである。が、昨年のキエフのショッピングモールのように、ちゃんと爆発した場合は大型弾頭ならイオンモール川口くらいの建物なら一発で瓦礫にする威力だけはある。

※ イスカンデルがスペック通りの命中率なら、侵攻一日目でウクライナ大統領府を大統領や閣僚ごと粉みじんにして戦争は終わっていたはずである。が、開戦後ニ年近く経ってもゼレンスキーはおろか、閣僚の一人もミサイルで殺されてはおらず、何かと目障りな情報局長ブダノフを狙ったミサイルも不良品で(不良でなければコンドミニアムごと吹き飛ばされていた)、本人はピンピンしていることがある。


 個人的にはゼレンスキー政府も内心は2022年の国境線を停戦の条件と考えていると思っているが、全土奪還をさんざん煽ってきたこともあり、現時点では言い出せないものと思われる。ただ、2014年以降のロシアのドンバス侵略の様子を知るに、ロシアも9年前は政府も関与を認めておらず、部隊章を外したり、時には私服で乗り込んだロシア部隊がおずおずと侵略を進めていたことがあり、少なくともこの時点ではロシアは西側の介入を恐れていたが、現在では恐れていないことがある。ドンバス紛争につき、実態を把握していたメルケル外交の評価についてはここでは措く。

 この4ヶ月の戦闘だけでもロシア軍は異常な水準の損失を受けており、現代軍隊として存立しうるか危ぶまれるような様子だが、それでも侵略を止めないことについては、9年間の経験でプーチンが西側の反応の底を見極め、誰を相手にしたら良いか分かっていることがある。

※ 具体的に言うと兵員15万、戦車2,200両、装甲車3,600両、各種野砲5千門、ロケット砲370門、自動車5千台、地対空ミサイル290基、指揮統制車両800台、航空機16機、ヘリ26機が6月1日以降のロシア軍の損失である。ウクライナ軍の損害がはるかに少ないことについては書くまでもない。

 民主主義国の民意はハイブリッド戦争で容易く撹乱され、政治家や財産家は自身の利益以外に関心がなく、どの国も様々な社会的問題を抱え、侵略に抵抗しようにも国力を結集することができないというのが彼の結論であり、ロシアの主要な敵はゼレンスキー政府とアメリカ国防省というのがその帰結である。前者は小国で後者は一官僚機構に過ぎないことがあり、今までの所、西側の反応はどんなに高性能な兵器を送っても、彼のその目算を超えるものではなかったことがある。

 「鏡を見て物を言え」というが、ウクライナの不甲斐なさを嘆く前に、西側の指導者は自国の姿をよくよく眺めてみる必要があるのではないだろうか。かつての超大国とアメリカの一役所の戦争ならプーチンにも勝ち目がないこともない。我々も卵やガソリンの値上げを嘆く前に、自分の姿をよくよく見た方が良いだろう。
 

 

(補記)ウクライナ戦争とハマス・イスラエル問題

 

 実に良く計略したものだと思うが、イスラエルのネタニヤフは陣営こそ西側だがプーチンと同じ強権志向の指導者で、個人的にも両者は仲が良かったことがある。ハマス戦争は最初の襲撃こそハマスだが、その後のイスラエル軍によるガザ地区への残忍な攻撃は、イスラエルと「特別な関係」にあるアメリカを特に困惑させているものである。両指導者の鏡の表裏のような類似性からイスラエルの戦いはウクライナ戦争におけるアメリカの大義を大きく揺らがせるものになっている。が、これは現在のアメリカ知識人の見識の不足と政治家の能力不足、そしてアメリカ国民の劣化が道筋を見えなくしていることがある。

 

 少なくとも第二次世界大戦後の基準で考えれば、ハマスの地下壕一つ潰すのに200人のガザ市民を犠牲にするような攻撃は到底容認できるものではない。以前の時代ならより残忍な戦争でも反共イデオロギーで正当化できたが、現在の国際社会では、専制的で人道を軽視する政権はどこの国でも支持されないものになっている。ネタニヤフ政権やアサド政権、あるいはビルマの軍事政権のような政権は現代社会では支持されない。苦しい屁理屈を並べ、残虐政権を支持するアメリカが世界の白眼視を受けるのは当たり前である。

 

 ここで峻別すべきことは、アメリカが特別な関係を結んだ当時のイスラエルの指導者と現在の指導者は別人だということである。ユダヤ移民が多く居住し、ユダヤ人社会が一定の影響力を持つアメリカがイスラエルを支持することに問題はなく、むしろ当然とも言える。が、彼らの多くの見識は、支持すべきはイスラエルという国家の「テリトリー(領域)」であって、ベンヤミン・ネタニヤフという一人の政治家ではないことがある。アンケートを取れば、おそらく米国在住のユダヤ人の多くがネタニヤフの行いに嫌悪感を示すだろう。

 

 アメリカの誓約はイスラエルの領土に対するもの(ワラント)であって、政府に対するもの(プロミス)ではない。政府が相手なら安全保障条約を結んだはずで、結ばなかったことには当時のアメリカ外交の深慮がある。そしてこのことは二国家解決と矛盾するものではなく、また、戦争犯罪者をICJに告発することとも矛盾しない。

 

 ジョー・バイデンは長いキャリアを持つ外交家で、弁護士でもあるが、どうもあまり深く考えない人のようである。前任者のオバマなら、彼の外交姿勢は必ずしも好ましいものではなかったが、区別をすることはでき、閣僚に必要な指示を下すことができただろう。