河野が「ひどい話やねん」とご立腹なので話を聞いてみたら、何でも「セクシー田中さん」という漫画の作者がテレビ局との軋轢で自殺した話らしい。そこで作品も番組も知らない私がしたコメントが(作者に対して)「酷い」という話だが、確か私はこんなことを言ったような気がする。

1.テレビ番組で(作者の手を離れた)作品が改変されるのは当たり前。
2.作者に番組制作者に口出しする権利はない。
3.ツイッターの発言すら不適当、契約で禁止すべき。
4.そもそも人間として未成熟。

 と、言いはしたものの、後で調べると作者は50歳の漫画家で、過去に映像作品もあり、受賞歴もあるベテランで、上のような事情を知らないとは思えないことから、さらに首を傾げることになった。私に言わせれば、放送された作品と原作が違うのは「当たり前」である。分からないはずはあるまいに。

 おそらく理由は言われているようなものではないのだろう。金銭的なものなどもっと深刻なものが背後にあると思うが、この業界では口約束が横行し、原作者の権利が守られない傾向があることは知っていた。

 イギリスでは市民的自由とは「法で禁止されていない限り何事もなすことができる権利」と把握され、コモン・ローもその歴史的所産の上に解釈が成立するが(なので大陸法系の我が国では非常に理解しにくい。イギリスが成文憲法が無いにも関わらず、人権解釈につき進歩的で精密な運用をしていることなど一証左である)、我が国の場合は当事者の力関係による恣意的な指図が横行し、裁判に時間と金が掛かりすぎることから是正も難しいことがある。

※ だからSNSでの作者のコメントをテレビ局が削除させたことは明確に「誤り」と断言できる。それをしたければ契約で明定し、補償を積む必要があった。言論の自由がいかに高次な権利であることは、おバカなスタッフでも社会部に聞けば分かるだろう。

※ 「裁判所は少数者の権利の最後の砦」という言葉はこういう国でこそ意味を持つ。我が国はネット裁判でどうしようもない。

 とはいうものの、著作者人格権に基づき放送禁止の仮処分は打つことができたはずだから、そこで交渉の余地はあり、要望を明文化して鉾を収める措置は可能だっただろう。

 しかしながら、私は番組を視聴しているだけだが、以前と違い、最近の映像作品の場合は原作者も息が詰まるだろうと思えることはある。以前の作品の場合は脚色はテレビ局が自由にできたものの、主題歌の歌詞など一部に「作者の聖域」と呼ばれるものがあり、作者の意思が絶対的に尊重されるフィールドがあった。例えばデビルマンの歌詞(作詞・永井豪)など。

 裏切り者の~♪ 名を受けて~♪
 すべてを捨てて戦う男~♪
 デビルビームは熱光線、デビルイヤーは「地獄耳」
 あ~く~ま~(悪魔)の力~♪ 身に~つ~けた~♪
 正義のヒーロー、デビルマン、デビルマーン~♪

 こんな矛盾だらけの歌詞を日テレの一社員が上司に提出したら、突っ返されるか相手にされないに違いないが、作者だったら許される。が、今の作品はそうではない。映像と同時に主題歌のプロデュースも収益化のプロセスに組み込まれており、作者が歌詞を書いて憂さ晴らしなどということはできなくなっている。初代ガンダム(富野喜幸)あたりが最後の作品だろう。車田正美はまともすぎてちょっとつまらない。

 主題歌のほかはやはり作品のキモ、テイストを決める部分についてはお伺いを立てるというしきたりはあったようである。作品に取って作者は万能神ゼウスのようなものであり、彼ないし彼女しか語れない内容は必ずある。が、この場合も「神」なので、ご託宣はあいまい抽象的なもので足り、細かすぎるものは困ることはある。

 脚本家の層が厚くなり、質も向上したことで神頼みの場面が少なくなったことはある。また日本の場合、脚本家は少数精鋭主義でスター脚本家に見向きもされないと作者も手も足も出ないことはある。ハリウッドだったら同じ話に複数の脚本を提出させ、気に入らないものは弾けば良いが、執筆料のケタが違う。脚本家の方の言い分も見ると、今回はいろいろと不幸な巡り合わせがあったようである。

※ 一作品につき二人以上の脚本家を付けるというのも有効な解決策である。A脚本とB脚本とを用意し、作者も含む制作会議で合議して採用すれば、作者の満足も高くなり、脚本家のモチベーションも上がることから、考慮すべき方法である。

 

※ そもそも我が国は何もしない人間の取り分が多すぎ、搾取が横行して額に汗した人間の取り分が少なすぎることはある。脚本の複線化など、要らない人間の取り分を減らせばすぐに捻出できるだろう。

 番組化というのは単に戯曲の映像化にとどまらない複合的なプロジェクトのため、物によっては主役や主役メカが制作以前に決まっていることがある。伝説巨神イデオンとか機甲艦隊ダイラガーなどがその例だ。これらはメカの方が先に完成しており、スタッフにはデザインの余地さえなかった。そしてこういうものには、いわゆる「作家」は手を出さない。専ら脚本家が創造性を働かせて作品づくりをすることになる。

※ ダイラガーは玩具会社ポビーの役員、村上克司のデザインだが、放映時にロボにやられるバトルマシンは出渕裕(日本アニメーション学院)のデザインで、デザインの傾向は全く違うが、脚本家の藤川桂介が強引に作品を成立させたことがある。イデオンも最初にロボが出来ており、その奇天烈さから監督の富野喜幸が「第三文明人」というストーリーを思いついた。

 原則として、過去の作品の例からも、作者に監督や脚本家など制作スタッフに介入する権利はないと考えている。創作したキャラクターが汚されたり、ストーリーが低劣なものに書き換えられた場合は別だが、それは争う手段がある。大黒柱だけでは家は建たないのであり、やむを得ず介入する場合でも、作者の介入は抑制的であることが大原則である。

 その上で、今回の件では制作局は作者の権利につき明確に文書化する必要はあっただろう。例えばSNSでの発言は、私だったら作者のみならず制作スタッフ全員につき、制作中は公用私用問わず全面的に禁止する。作者は代理人を介して交渉できるようにし、著作権には留意する。

※ SNSでフォロワーを集めないと注目してもらえないというのは、実のところは疑わしい現代の病理の一つである。

 そういうことをすると次から契約してもらえなくなるという向きがあるが、権利の濫用である。法的手段を取るのに躊躇する理由はなく、巨額の賠償金を請求すれば良いし、金額が足りなければ任意的訴訟担当で数を集めて叩きのめす方法もある。たいがいの作者と同じく、私も創造性のない人間に敬意を払わないし、そういうことをされたくなければ、業界慣行などという極東の片田舎でしか通じない常識ではなく、公平で精密なものを最初から作って提示すれば良いだけの話である。