Netflixの看板番組「ザ・クラウン」がシーズン6で完結したけれども、撮影途中で主人公の女王が崩御したことがあり、ラストは変更が噂されていたが、作品を見ると結局当初の構想通りに制作したようである。

 下馬評の通り、ラストはチャールズとカミラの結婚式で終わり、エリザベスが新婦に優しい言葉を掛け、家族として認めるところでラストとなる。女王が崩御したのはその17年後のことである。ウィリアムの結婚は5年後で、メーガンは影も形もなかった。私としてはもう少し後までやっても良かったのではと思える所がある。

 ドラマでは克明に描いているけれども、イギリス王室の役割は時代によって変化している。かつて通用したプロトコルが10年後も通用するとは限らず、また、ダイアナやウィリアムなど新しい世代の参入もあり、エリザベスの治世は安定を体現しつつも変革を求められる矛盾と闘うものになった。

 即位当初の彼女の役割は凋落する大英帝国を元首として支えるもので、即位後に半年掛けて行われたコモンウェルス巡幸では顔に注射を打ってまでして笑顔を見せ続け、オープンカーでの炎天下のパレードに耐え続けた。素顔を見せることは許されず、存在感だけで威圧するスタイルは1961年のガーナ訪問が最後になる。エンクルマとのダンスで彼女はガーナをコモンウェルスに繋ぎ止めたが、すでに帝国の凋落は誰の目にも明らかなものになっていた。

 そのスタイルが通用しなくなったのが1966年のアバーファン炭鉱事故で、ウィルソン首相に悲惨な炭鉱事故に同情を示すことを求められ、渋々同意したものの、女王の対応の遅れは非難を呼ぶものになった。王室の秘密主義についてはすでに1957年にオルトリナム卿による批判があったが、人間性の発露は彼女には未知の分野で、その後もせいぜいコモンウェルスの首長としてジョークを飛ばす程度にとどまったことがある。

 ダイアナの事故死によって、彼女における公人と私人の矛盾は臨界点に達し、葬儀をスペンサー家に委ねた対応は私人としては必要十分なものだったが、イギリス国民はそれを許さず、彼女は祖母として、また元首として離婚した王太子妃に弔意を示すことを求められた。ここで英帝国でもサッチャーでもない新しいスタイルが必要になり、エリザベスは三度目の変身を求められることになる。

 ドラマを視聴し続けていると、王室の役割が徐々に縮小していき、「滅びゆく種族」、「消えていく存在」と揶揄されるようになり、制作者自身も王室の存在意義に疑問を持っている様子が伺える。ダイアナの葬儀は世界中からセレブや芸能人が参集し、あまり王室らしくないものであった。新国王のチャールズは自然保護や社会福祉に関心を持ち、会社を保有する知的な篤志家として振る舞っているが、そういう存在なら王室である必要はないこともある。

 ドラマの最後でチャールズの結婚を見守りつつ退位を考えた女王が思いとどまった理由には、英国国教会の首長としての立場がある。王権は神から与えられたものであり(王権神授説)、退位は義務を放棄する大罪であるという考えである。会話中で「自転車君主制」と揶揄されていたベルギーやオランダの国王とは異なる所であり、結婚式の後、教会の祭壇でエリザベスが神に祈る場面はそのことを確認するものである。おそらく神の啓示を待っていたと思うが、眼前にあったのは自分の棺桶だった。

 何十年か百年か後、この物語が「最後のイギリス国王」の物語として語られるのか、その後に現国王も含む数多いロイヤル物の一つとなるのかは分からないが、イギリス王室史においてチャールズという名前は不穏な響きを持つ。1世は断頭台の露と消え、2世は国外追放の憂き目を見た。どちらも国王としては歴代より有能で知性もあったが、ピューリタン革命や名誉革命などで国民の離反を招き、悲劇的な最期に繋がったこともある。3世がその轍を踏むかどうかは誰にも分からないが、ドラマではその時代まで話が及ぶことはない。

 

 ザ・クラウンについては60話も視聴したので、もう少し書こうと思う。