NHK『細野晴臣ファミリーヒストリー』再現 (2/3) から続く
1956年(昭和31年)、アメリカでタイタニック号を書いた本が出版され、ベストセラーとなる。するとある一節が注目されることになった。こっそり救命ボートに乗っていたのは、中国人か日本人だった。日本人は正文ただ一人。あの正文の手記の存在は無視され、卑怯な日本人という誤解が海外でも広がることとなった。
晴臣は、細野家が背負った宿命を感じていた。
本の出版から41年後の1997年(平成9年)、映画『タイタニック』が世界的に大ヒットする。
この年、細野家にある依頼が舞い込む。アメリカにあるタイタニック財団が、映画公開を機に、祖父正文の手記を調べたいと申し出たのだ。
当時調査を指揮した人物を訪ねた。タイタニック財団理事のボブ ブラッケンさん。これまで乗客1500名分の情報を集めてきた。
ブッラケンさんは、手記が事故直後の救助船で書かれたことに驚いた。「驚くべき克明さで書いている」
そして過去の証言と照らし合わせると、手記の信憑性が極めて高いことがわかった。
その最大の根拠となったのが、正文の隣にいたアルメニア人のフレコリアンの証言だった。「10号ボートには日本人がいた」。ブラッケンさん等は、10号ボートについて調べることにした。
すると10号ボートは何の混乱もなく降ろされ、その後定員に満たないことが判明し、ふたりが乗ったことがわかった。
「誰かを押しのけることなく乗った。実際にスペースがあった。正文は何も悪いことはしていない。ひきょうな行為は何もない」
細野家の長年にわたる苦しみを知った財団は、会報で12ページにわたる特集記事を組み、世界中にこの事実を知らせた。
この調査結果はすぐ日本に伝わった。
祖父の汚名が返上できた。1998年、晴臣は一族に声をかけ、祝賀会を開いた。会ったこともない正文の孫や曾孫、総勢35人が集まった。
「親戚がこんなにいっぱい来るとは、本当に思わなかったのでびっくりしました。気持ちの片隅で気にしていたことが、これで払拭されて(よかったです)」
「こんなに気持ちが通じ合うのかなと思うぐらい、親類同士でそういう感じがありました」
『国立音楽大学別科調律専修』 66年前、晴臣の母方の祖父、中谷孝男が設立した。
これまで送り出した卒業生は540人に及ぶ。
24期生で、孝男の最後の教え子だった大津直規さんは、この大学で教えている。
中谷先生がつくられたこの学校で、私たちは基礎を注ぎ込んでいただいたから、今までやってくることができた。教わってきたことを、きちっと伝えていくことしかできないわけですから。
了
あとがき
1997年に公開された映画『タイタニック』。これにあわせ『週刊文春』は、関連記事を書いています。『タイタニック号遭難 祖父の日記が晴らした細野晴臣一族の濡れ衣』です。以下は、その全文引用となります。
豪華客船・タイタニック号の遭難事故が起きたのは、1912年4月のこと。タ号には実はたった一人、日本人が乗っていた。細野正文氏(当時41)。元YMO・細野晴臣さん(50)の祖父である。奇跡的に生還した細野氏はしかし、85年の長きにわたって「卑怯な日本人」という汚名を着せられ続けた・・・
「海に浮かぶ宮殿」称されたタイタニック号。処女航海でイギリスのサンプトンからニューヨークに向かう途中、カナダ・ニューファンドランド島沖で巨大氷山と衝突して沈没、乗客乗員合わせて2223人が乗っていたが、タ号にはその半数にも満たない救命ボートしか用意されていなかった。1517人が死亡、生き残った700人余りのうち、625人は家族と死に別れた。その悲劇を描いた大作映画「タイタニック」の公開を前にして、日本で驚くべき資料が“発見”された。細野氏が救出直後に綴った貴重な「日記」である。
タイタニック・エクシビション・ジャパンのマット・テイラー代表が語る。
「私たちの財団は、世界各地で引き揚げ品の展覧会をやっているんです。来年7月からは、日本で展覧会をやることが決定しました。日本人にとっては、大西洋上で外国人が遭遇した悲劇で、かなり遠いイメージしかないのではないか。そこでタイタニック号と日本とに何らかの繋がりはないかと考えたんです」
細野氏の孫である晴臣さんに相談をもちかけると、やはり孫にあたる悠理子さん(56)が遺品を持っていることが分かった。
そこでテイラー氏は「日記」の存在を知らされる。さっそく英訳し、タイタニック研究家3人に見せたところ、「とてつもない大発見だということがわかりました」と、テイラー代表はこう説明する。
「事故の直後にこれだけ細かく記録したものは、世界中でこの日記しかない。イギリス人やアメリカ人の手記は港に着いてから書かれたものですが、細野さんのそれは事故のすぐに書いたために、本人やまわりのやまわりの人々の精神状態がはっきりわかります。しかもこれは、タイタニック・レターヘッド(船室備えつけの便箋)に書かれています。実際に船に積まれ、事故にあったレターヘッドはこれだけ。処女航海に印刷が間に合わず、一部の部屋にしかこのレターヘッドはなかった。世界文化遺産級ですよ」
細野氏は実は、夫人への手紙を書きかけた便箋をたまたま上着のポケットに入れていた。カルパチア号という船に救助された後、同船上で、事故のあった4月14日から18日まで5日間の出来事をその便箋に記したのである。
細野氏は鉄道院(後の旧国鉄)副参事で、ロシアに留学していた。その帰りにりヨーロッパの鉄道視察を終え.アメリカへ渡る途中だった。
「生命モ本日ニテ終ルコトト覚悟シ別ニアワテズ、日本人ノ恥ニナルマジキト心掛ケツツ尚機会ヲ待チツツアリ」(日記より)
細野氏は誇り持って振る舞った。にもかかわらず、生還後に手記を出したイギリス人、口-レンズ・ビーズリー氏の「無理やりボートに乗ってきた嫌な日本人がいた」との証言が一人歩きする。当時の日本の新聞が検証もせずにそれを掲載したため、細野氏のもとには全国から嫌がらせが相次ぐようになった。そのため鉄道院を辞し、反論を試みることもなく、1939年に69歳で没した。
遺品を整理した次男の日出男さんが偶然、その日記を見つけた。当時、中央大学教授だった日出男さんは。亡き父の名誉回復のため論文を発表したが、それは戦時中の1942年のこと。世界はおろか、日本国内でも黙殺された。
今回、タイタニック研究家が注目したのは、「日記」の以下の記述だった。
〈最後ノボートモ乗セ終リ既ニ下ルコト数尺、時ニ指揮員人数ヲ数ヘ今二人ト叫ブ其声ト共ニ一男子飛ビ込ム。余ハ最早船ト運命ヲ共ニスルノ外ナク最愛ノ妻子ヲ見ルコトモ出来ザルコトカト覚悟シツツ凄想ノ思ヒニ耽リシニ今一人ノ飛ブヲ見テ責メテ此ノ機ニテモト短銃モ打ルル覚悟ニテ数尺ノ下ナル船ニ飛ビ込ム〉
テイラー代表の解説。 「ビーズリー証言によって、細野さんは13号ボートに乗っていたと信じられていました。ところが、この日記によると、ボートにあと二人乗れるという声を聞いて。まず一人の男が飛び降り、それから細野さんも飛び降りた。前に飛んだのはアルメニア人で、財団の方で彼の記録も所有しています。その記録と細野さんの日記を重ね合わせたら、ピタりと一致しました。細野さんが乗っていたボートは、実は10号ボートでした」
では、13号に乗っていた「嫌な日本人」とは一体、誰だったのか。
「中国人も7人乗船してましたが、当時の船員はチャイニーズとジャパニーズを一緒にして、『ジャップ』と呼んでいました」(テイラー代表)
調査結果をテイラー代表が報告すると、孫の晴臣さんは体を震わせた。そして「今日は大変な日だ。家族全員に知こそなきゃ」とつぶやき、涙ぐんだ。
晴臣さんご本人が話す。
「自分の人生が歴史的事件に深く関わっているのを我ながら不思議に思います。祖父がタイタニック号の事件から生還して後。私の父が生まれ、そして私が生まれたのです。タイタニックの沈没は生還者にとっても重く深い傷を与えたほど、怖ろしくも悲惨な事故でした。祖父はそれに加え、当時の白人優位の中で偏見や誤解も受け、その心中は測り知れぬ複雑な思いだったでしょう。しかし、日記の重要性があらためて認知されたことは、亡き祖父も子孫一同も、85年にわたる重荷から解放されるという決定的な出来事だったと思います」
晴臣さんは親族とともに、多磨霊園にある祖父の霊前に報告。細野一族の濡れ衣はようやく晴らされたのである。