松任谷由実前史 荒井由実ヒストリー Ⅱ ~ デビューからブレイク 結婚まで ~ | Kou

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音楽雑感と読書感想を主に、初老の日々に徒然に。
ブログタイトル『氷雨月のスケッチ』は、はっぴいえんどの同名曲から拝借しました。

以前、「荒井由実ヒストリー」なる、荒井由実が生まれてからファーストアルバム制作までの話をアップしました。今回はその続きということになります。

 

前回は、ユーミンのデビュー直前までの話だったのですが、書くための資料には、デビュー以降の情報も自然と多くあつまりました。舞台裏の興味深いエピソードばかりです。これらの貴重な材料を捨て去るのは惜しい。正直、大変とも思ったのですが、暇にまかせて続きを書くことにしました。アルバム『ひこうき雲』をつくり終えた荒井由実が、デビューからブレイクに至り、結婚するまでのドキュメンタリーです。前回と同様、下に掲げた多くの本などから抜き書きさせてもらいました。引用元に感謝します。

 

自分のような単なる一般人が、松任谷由実というスーパースターの伝記めいたものを書くことは、とてもおこがましいことです。しかし試行錯誤した結果、まずまずのものができたようにも思います。

 

荒井由実は、デビューはしたものの人気は低迷し、ブレイクしてからもその苦悩は続いていたようです。その独身最後のアルバム『14番目の月』収録『さみしさのゆくえ』には、「したいことをしてきたと人は思っているけど 心の翳は誰にもわかるものじゃないから」との一節があります。以下をお読みいただければ、この歌詞の深層を感じていただけるかもしれません。

 

 

~ 引用させていただいた書誌 ~

『聞き上手 話し上手』佐藤可士和対談集

『読むJ-POP 1945-1999私的全史』田家秀樹著

『地球音楽ライブラリー 松任谷由実』

『僕の音楽物語』平野肇著

『アルファ伝説 村井邦彦の時代』松木直也著

『1974年のサマークリスマス 林美雄とパックインミュージックの時代』柳澤健著

『あの頃、この歌、甦る最強伝説』富沢一誠著

『ユーミンの罪』酒井順子著

『松任谷由実1972-2011フォトストーリー』松任谷由実著

『MUSIC MAGAZINE 特集ユーミンの40年』2012年12月号

『僕の音楽キャリア全部話します』松任谷正隆著

『風都市伝説』北中正和責任編集

 

 

 

荒井由実ヒストリー ~ 誕生から ひこうき雲ができるまで その軌跡 ~ から続く

 

 


『ひこうき雲』発売

 

1年をかけてつくられた荒井由実のデビューアルバム『ひこうき雲』は、1973年の11月、東芝EMIからリリースされることになった。しかし東芝の担当者たちは、『ひこうき雲』がフォークかロックかアイドルなのかわからなかった。ジャンルを決めないとレコード店の売り場には置けない。前年には吉田拓郎がブレイクし、かぐや姫や井上陽水など、新しい音楽がオリコンチャートをにぎわしていたが、荒井由実の音楽はどれにも属さなかった。それまでのフォーク系とはまったくちがうコード進行で、微妙で繊細な音色、サラサラと絵筆が動いていくような、まるで水彩画のようなアルバムだった。
 

アルバムの初回プレス数決定も難航した。由実の所属する音楽出版会社、アルファの代表村井邦彦は、詞や曲の新鮮さや、バックをつとめるキャラメル・ママの、卓越した演奏を東芝に強調した。しかし歌謡曲路線を歩んできたベテラン担当者は、詞の難解さや歌唱力を問題にした。結局提示されたプレスは3000枚。決して少なくはない枚数なのだが、これではスタジオ使用料さえも賄えない。異例の制作期間など、アルファが『ひこうき雲』に投下した資金は桁違いだった。
 

発売日は11月20日となっているが、実は2回ほどずれ込んだ結果だった。新しすぎてわからなかったのか、どのレコード店からも注文がなかった。やむなく発売を見送り、1か月半後にようやく発売されていた。


 

初ステージ
 

しかし問題はコンサートだった。由実はこれまで人前で一度も歌ったことがないのだ。慣れるには場数を踏むしかない。アルバム発売翌月の12月26日、『 村井邦彦スーパーセッション Introducing Yumi Arai』が開かれた。ガロやかまやつひろしなどの応援出演を得て、会場は渋谷パルコ・西武劇場だった。業界関係者へのお披露目を目的としたため、チケット販売には力を入れなかった。当夜MCをつとめた村井は、「プレイガイドで売れたのは2枚だけ」と明かしている。世間の誰も由実を知らなかった。

その夜、由実がステージに登場し、スポットライトが当たると、客席はざわめいた。シンガーソングライターというのは、ジーンズにTシャツが定番。それが真っ白なタカラジェンヌのようなスーツ姿であらわれたのだ。由実を可愛がっていたイタリア料理店キャンティの川添梶子が、友人であるサン・ローランの衣装を準備してくれた。梶子は「この子は絶対スターになる」と、みなに触れまわっていた。

バックバンドは、松任谷正隆率いるパパ・レモン。のちに由実の夫となる正隆の回想によると、このデビューは散々な出来となった。5曲歌う予定だったのだが、最初の『ひこうき雲』の途中でつまづき、続く残りの4曲すべてがバンドだけの演奏となってしまった。あがったのか歌詞を忘れたか感極まったのか、由実はずっと泣いてた。

しかし普段の由実は快活な明るい女の子だった。パパ・レモンのメンバー平野肇は、初めて会ったときの印象を著書『僕の音楽物語』に綴っている。「話しはじめるとどこかのオバちゃんみたいに、気さくでまったく気どっていない。モデル然とした風貌と、話しっぷりの落差が印象的だった」。



深夜放送

由実が初めてのステージを経験したころ、『ベルべットー・イースター』が、あるラジオ局から毎週流れている。この番組の主はTBSのアナウンサー林美雄。当時30歳になったばかりの人気ディスクジョッキーで、『パックインミュージック』の金曜日を担当していた。林はヒットチャートや話題になっているレコードには興味を示さず、自分で選んだ曲を流していた。『ひこうき雲』サンプル盤も一聴し、発売と同時に紹介を始めている。その魅力を皆に伝えるべく、アルバム『ひこうき雲』を流し続けた。

すこし後のことになるが、林パック(パックインミュージック)を聴いた若者たちから、由実の熱心なファンが生まれている。東京の荻窪では手作りのファン・クラブが、約200人の会員を集めた。その声を拾うと、「林パックで初めてユーミンを聴き、五反田のレコード店にすぐに『ひこうき雲』を買いに行きました。今までにはない、絵が見えてくるような言葉づかいで、たいしたものだと思いました」。「ラジオから『ベルペットー・イースター』のイントロが流れ出した時は、外国の曲だろうと思っていました。ユーミンが『プロコル・ハルム』が好きだと聞いて、なるほどなあ、と納得しました」。「ユーミンのライブはよく行きましたね。いまでも覚えているけれど、渋谷の『ジャン・ジャン』の昼の部で300円。客は20人くらい。こんなに歌が下手なのか!とびっくりしました。共演はシュガー・ベイブだったけど、大貫妙子や山下達郎の声の方がいいよなあ、と思いながら聴いてました(笑)」。 下手でも自分の歌を自分で歌う。由実の心象風景が皆に伝わった。

 

ファン・クラブの中心的人物が、のちに始めたブログには、こんな回想が記されている。

 

林さんは『ひこうき雲』が世に出てすぐ、一九七三年秋からユーミンの紹介を始めるのだが、誰もが寝静まった深夜から早朝にかけてラジオから流れてきた『ひこうき雲』や『ペルペットーイースター』には格別の味わいがあった。こんなにも繊細で内省的な音楽を紡ぎ出す少女がこのニッポン国に出現したのだ、という予期せぬ驚きと嬉しさに心が震えた。番組の最後に『雨の街を』がかかり、そのあとトランジスタ・ラジオを切って外気を吸いに表へ出ると、白々と明けてきた街路はひっそり静まりかえっていて、まるで歌の世界のまんまだとひとりごちたのを今でも憶えている。  

 

 

 

『瞳を閉じて』

深夜放送にまつわる由実のエピソードとして、ニッポン放送『オールナイトニッポン』も欠かせない。この番組には、リスナーからの要望の歌をつくるコーナーがあった。74年、長崎の五島列島にある、小さな島の分校の生徒から、「自分たちの分校の校歌をつくってほしい」とのハガキが舞い込む。番組からオファーを受けた由実は『瞳を閉じて』をつくった。校歌ではないが愛唱歌として親しまれるようになり、88年には同校卒業生の寄付で松任谷由実直筆の歌詞を刻んだ歌碑が建立され、除幕式には由実本人も訪れた。由実はもともと作曲家志望だったが、私小説的な歌だけではない、豊かな資質をあらわす作品となった。



マネージャー

話を戻す。村井は当初、由実のマネジメントを、芸能プロダクションに依頼するつもりだった。しかし彼女の楽曲や性格の点で、芸能プロの気質に馴染めない懸念があった。そこで阿部義弘という、文学座の制作部長をつとめた人物に依頼した。阿部は京都の南座での公演を実現させるなど、積極的な営業力を持ち、特に地方の興行について詳しかった。

すると不思議な縁で、阿部は由実をよく知っていた。阿倍がいた文学座の劇場公演があると、由実の実家である荒井呉服店が、チケットのまとめ買いをしてくれていたのだ。阿部は奇縁に驚いたが、音楽についてはまったくの素人。『ひこうき雲』を聴かされても、まるで念仏のようだと感じた。阿部が荒井呉服店へ挨拶に行くと、母親が芸能界入りを心配していた。親の気苦労が並大抵でないことは、阿部は誰より承知していた。しかし由実の才能を見通す力量はなく、母親に助言できる言葉はなかった。



デビューコンサート

業界的なお披露目は済んだが、荒井由実が本格的なデビューコンサートを行ったのは、『ひこうき雲』が出た翌年4月のことだった。場所はなぜか京都。由実の実家荒井呉服店は東京八王子だが、京都に着物関係の取引先や知り合いも多く、招待者が多く望めると目論んだのだ。会場『シルクホール』は染織会館というビルのなかにあり、その名のとおり京の着物業界の中心地にあった。

しかし客席数は760席もある。かけ出しで無名の由実ではとても埋まらない。村井は以前映画音楽を担当したことのある、京都在住の俳優勝新太郎に動員を頼んだ。「よしわかった、心配するな。何十人でも連れていくから、俺に任せておけ」と、豪快な声が返って来た。

当日はやはり、荒井呉服店関係の着物姿が目立った。勝も祇園の芸妓や映画仲間を大勢連れて来た。由実の本当のファンが少ないのはあきらかだった。コンサートが中盤になったころ、勝が薄暗いなかをごそごそと動きはじめた。盛り上がりに欠けると感じたようで、「俺も歌おう」とステージに向かおうとしたのだ。村井は必死で止めた。「初めてのリサイタルなので本人に任せておきましょう」と丁寧に断ると、勝は「そうだよな」と、何事もなかったように席に戻っていった。

京都公演のあと、一行はその足で神戸の甲南大学へ向かい、キャンパス・コンサートをおこなった。ここでも由実は緊張していた。ナレーションもぎこちなく、普段の会話で出てくる得意の小話やダジャレ系のネタがすべり気味だった。すると突然由実は「風邪気味なので失礼して・・・」と、ピアノ椅子に座ったまま、ティッシュで鼻をかんだ。その音が会場に響き渡った。これで空気が一気に変わった。やんやの拍手と「がんばって!」の声援がとんだ。由実もすっかりリラックスし、いいコンサートとなった。

由実は続いて、東京でのデビューコンサートを『ヤクルトホール』で開く。しかし今度は縁故動員がない。チケットは半分も売れず、スタッフ関係者総出で友人知人親戚に売り配りまわった。それでもさばけず、急遽ラジオ局を中心としたプロモーションを組んだ。切り札はやはり林パックだ。深夜の3時過ぎ、由実本人がゲスト出演すると、林が熱のこもった声で、「荒井由実の東京のデビューコンサートへみんなで行こう!」と訴えた。その効果か、当日は春の嵐のような悪天候にもかかわらず満席となった。客席には男子学生の姿が目立った。のちに林は番組編成により金曜パックを降板となったが、由実が最後の放送開始直前にスタジオにあらわれ、テープを置いて帰った。『旅立つ秋』というこの曲はその夜オンエアされ、セカンドアルバム『MISSLIM』に収録されている。



下積みの日々

京都や東京のコンサートにきた観客の評価はさまざまだった。由実の世界を重く受けとめた者、ピンとこなかったという者、趣味ではないと言葉を濁す者、詞とメロディは新しくていいけど歌がちょっとね、という者もいた。概して反応は、納得のいくものではなかった。由実の曲がもつ本質的な新しさを理解したのは少数の音楽ファンだけに過ぎず、大多数の人々にとって、由実はよくあるシンガー・ソングライターのひとりに過ぎなかった。

由実はその後、キャンペーン、サイン会、雑誌の取材、複数のグループやシンガーがオムニバス的に出演するイベント、単独での学園祭への出演、ラジオ出演など、プロモーション活動を積極的におこなった。地方キャンペーンでは、商店街にある小さなレコード店の前や、スーパーマーケットでも歌った。仙台のエンドー・チェーンでは、パンツ売り場の横で、客の呼び込みに使う拡声器をマイク代わりに渡された。NHKの番組に出演するにはオーディションに受からないといけない。由実は二回落ち、三回目にようやく通ることができた。

由実は多摩美術大学美術学部絵画学科に通う現役の学生で、歌手活動との両立は大変だった。学校提出の絵は友達に手伝ってもらい、本人が描いていないのはバレバレだった。才能あふれる学生がたくさんいて、レコードを出したといっても、学内では小さくなっていた。

 

多摩美では毎週、小さな講評会があったのだが、多忙のあまり、どうしようもない作品を出したことがある。助手の先生は、「もっとマジメにやんなさい」と怒った。だがのちに文化勲章を受けた加山又造教授は、「荒井さん、なんかLPを出したって聞いたけれど、それも表現だから、今度は音楽を持ってらっしゃい」と理解してくれた。



 『MISSLIM』

音楽活動と学業の多忙な中にあっても、由実はセカンドアルバムへ向けた準備をすすめた。『MISSLIM』収録の『海を見ていた午後』は、横浜のカフェーレストラン『ドルフィン』で書いている。由実の中学生時代、遊び仲間でグループサウンズの外国籍メンバ―が大麻で逮捕されているが、入れられた外国人収容所はドルフィンのそばにあった。彼に憧れていた由実はしばしば面会に訪れている。ドルフィンは青春の思い出の店だった。海側に面したガラス張りの窓際の席に座り、ノートに詞作のペンを走らせた。いつも一人で来て、夕暮れどきまで海を見続けることもあった。由実がこの店に通ったころ、『ひこうき雲』の売れ行きは低迷したままだった。周囲の期待の大きさに焦燥がつのった。

『MISSLIM』収録の『やさしさに包まれたなら』は、アルバムリリース半年前の74年4月、3枚目のシングルとして発売されている。この曲は不二家ソフトエクレアのCMソングとなり、ユーミン人気の導火線として期待された。しかし思惑通りにはいかなかった。

『MISSLIM』のレコーディングは、74年7月から始まっている。音楽プロデューサーは、前作『ひこうき雲』の細野晴臣から正隆に代わった。ディレクターの有賀恒夫は相変わらず厳しい姿勢だったが、レコーディングは前作の難産とは違って短期間で終わる。由実がグランドピアノの前に座るアルバムジャケットの写真は、川添梶子の自宅で撮影された。タイトル名は「MISS」と「SLIM」の造語で、スリムな由実の容姿からつけられた。

74年10月、『MISSLIM』と、シングルカットされた『12月の雨』が発売される。その年の暮れ、雑誌『ニューミュージック・マガジン』で、74年のベストアルバムを音楽評論家が選んでいるが、「たった1枚となると、文句なくユーミン」と、小倉エージが『MISSLIM』を評価した。洋楽やジャズの評論家たちはエリック・クラプトンやステイーヴィー・ワンダーなどを挙げていたが、小倉は彼らから嘲笑されたと当時を述懐している。

音楽評論家萩原健太も『MISSLIM』を絶賛するひとりだ。

 

本作こそ70年代初頭の日本のポップス・シーンが残した大傑作だと思う。細野晴臣率いるキャラメル・ママも、荒井由実という新鮮な素材を得て実にいきいきとしたプレイを展開している。山下達郎、大貫妙子、吉田美奈子らによる豊かなコーラス・ワークも、当時の日本では他に例がなかった。そして何より、新鮮な転調などを軽々と盛り込んで展開する荒井由実のハイセンスかつ透明感に満ちたソングライティング。それらが一体となって完璧な音宇宙を構築している。ここに参加しているのはその後それぞれ別々に一国一城の主となっていくビッグ・アーティストばかり。そんな若い才能が一丸となつて新しい日本のポップ音楽をクリエイトしようとしていた黎明期の素晴らしい記録だ。その瑞々しさが今なお時代を超えて新鮮に輝く。

 

由実は74年秋からの毎月、ブレッド&バターとのジョイント・ライブを渋谷ジャン・ジャンでおこなっている。小劇場だが、月を追うごとに客足が伸び、年末には満員札止めになった。客席の熱気もすごく、じっと息をのんで見つめる視線と、一音でも聞き逃さない真剣さが伝わってきたと、パパ・レモンの平野は回想している。しかしこの人気も、東京のごく一部のものでしかなかった。



もう『ひこうき雲』は書けない

『12月の雨』は話題になり、『MISSLIM』は発売1ヶ月後チャートで36位と健闘したが、その後は伸び悩んだ。音楽業界に衝撃を与えたデビューアルバム『ひこうき雲』も、荒井由実の最高傑作とされる『MISSLIM』も、売れ行きはいたって低調となった。

デビューアルバム『ひこうき雲』に収録された曲は、すべて16歳までに書いたもの。セカンドアルバム『MISSLIM』に収録された曲の多くもまた、十代の頃に書いたものだが、それだけでは足りず、新曲もいくつか付け加えた。つまり二枚のアルバムで曲のストックは尽きてしまった。そして由実にはわかっていた。『ひこうき雲』と『MISSLIM』は、自分としても水準が高いことを。しかしそれらは感性だけで書いていた。そしてすでに十代の少女ではない自分には『ベルベットーイースター』や『雨の街を』のような曲はもう書けないことを、誰よりも知っていた。

どんなにがんばっても、『ひこうき雲』と『MISSLIM』は広い支持が得られない。自分はアマチュアではない。売れる作品を作らなくてはいけない。由実は決意した。自分のいろんな可能性を試そう。繊細な心の動きよりも、多くの人が共感できる明快なポップソングを書こう。以前のような水準に届かなくてもいい。完璧と思えなくともいい。そこから、次の高みが見えてくるかもしれない。ホップでキャッチーな方向に路線変更する。その再スタートがシングル『ルージュの伝言』だった。



『ルージュの伝言』

75年2月、シングル『ルージュの伝言』が発売された。軽快なリズムとポップなメロディは、アメリカン・ポップスを彷彿とさせ、軽い8ビートはニール・セダカ風だった。それまでの内省的な曲とはあきらかに違っていた。

由実の選択は正しかった。それまでのシングルと異なり、『ルージュの伝言』はスマッシュヒットとなった。由実の人気に火が付き始めた。軽快なリズムとポップなメロディーは、ふと耳を傾けるような心地よさがあった。しかし詞の内容は単なるラブソングではない。軽やかさに誘われて歌の世界に入ってみると、けっこうシビアな男女のトラブルが描かれている。それまでも日本語訳されたオールディーズの歌はあったけれど、個性的なユーミン流ポップスが、10代から20代の人たちに受け入れられた。

 

じつはこの歌はシングルのA面ではなかった。B面だったものを表にもってきた。曲想は正隆が勧めたものだった。由実は家に帰ると、兄のもつシングル盤を片っ端から聴きこんだ。頭の中にはエリザベス・テーラーの映画があった。鏡に別れの言葉を書いて家出してゆくシーンを頭に描きながら書いていった。すると『ルージュの伝言』があっという間に出来上がった。一説には、親しくなった矢沢永吉の、その夫婦げんかの様子を描いたともされる。



『COBALT HOUR』

75年6月、『COBALT HOUR』が発売された。この新しいアルバムは4か月前の『ルージュの伝言』と同様、幅広い共感を得られる、シティ・ポップ集に仕上がっていた。私小説的な作品が多い前2作から、由実は急速に舵をきり、一時代前のオールド・ファッションの空気感、40年代から60年代のアメリカ音楽を目指した。由実はポップソングのライター&シンガーへ転身した。心の風景を歌う方向ではなく、誰にでもわかる、売れる音楽をめざした。

『COBALT HOUR』は、それまでにない売れ行きとなり、7月14日、ついにヒットチャートで初のベスト・テン入りし、6位にランキングされた。そして半年後、『あの日にかえりたい』が大ヒットしたことの遡及効果で、アルバムチャート1位を初めて記録した。『ルージュの伝言』および『COBALT HOUR』以後のユーミンは、恐るべきスピードで巨大化していくことになる。



『ひこうき雲』のファン

しかし、デビュー時から由実の歌を支持してきたファンは戸惑った。『ルージュの伝言』と『COBALT HOUR』は、それまでの曲調と落差が大きすぎた。荻窪のファンは落胆した。

なぜ由実が60年代アメリカン・ポップスの類似品をつくらないといけないのか、なぜ既存の音楽の世界に足を踏み入れたのか。少しでも目立つようにと、レコード店で由実のアルバムを一番前に並べ替えていたファンはバカバカしくなった。創作時間が限られていたのか、『COBALT HOUR』のつくりが雑だと感じた者もいた。「私たちにとってのユーミンは『雨の街を』のように、庭に咲いているコスモスひとつで風景を見せられる人だった。聴いていて震えがくるようなものが、どの曲にもあった。ところが『COBALT HOUR』のユーミンは、とってもおしゃれでスマートなものになってしまった」。ファン・クラブも解散となってしてしまった。

でも由実は思った。わたしは試行錯誤を繰り返し、ようやくヒット曲を出すことができた。アルバムは残るもの。音楽家である以上、時間をかけていい作品を作りたい。だが同時にある程度のセールスを残さなくては、自分の居場所や創作活動を守ることは決してできない。自分は現実と必死に格闘している。ファンから口出しされる筋合いはない。



変身

『COBALT HOUR』発売前から、由実は全国ツアーをおこなっている。75年4月から始まったツアーは果てしなく続き、8月に由実は過労のため、早朝の羽田空港で倒れた。しかしこの日の延岡のコンサートを強行、翌日からの久留米、福岡、鹿児島、大牟田、徳山と続くハードスケジュールも必死にこなしたが、9月にはついにコンサートをキャンセルせざるをえなくなった。 

このころは『ぎんざNOW!』などテレビ出演が増えた。慣れぬテレビ局の環境も大変だった。スタジオに入れば、芸能関係者が敵意を込めてにらみつけてくる。テレビ局、芸能プロダクション、音楽出版社、作詞者、作曲者たちは一種のカルテルを形成し、莫大な利益を分配していた。その中に属さないシンガーソングライターの存在は、既存の芸能界を脅かすものであり、関係者は由実たちに敵愾心を燃やしていた。

デビュー時の由実は同じ女性シンガーソングライターとして、五輪真弓と比べられた。同じテレビ番組に出て、同じようにピアノを弾くと、五輪は線が太くて歌がうまい。おまけに冷静沈着で落ち着き払っていた。由実は線が細くて歌が下手だった。出演が終わると、いつも思い切り落ち込んだ。

そして由実は、コンサートを「学芸会みたいにする」と言い出した。舞台で歌うこと自体が恥ずかしくてしょうがない。いっそ見世物にすればボーカルもごまかせる。じつは74年12月の日本青年館『荒井由実クリスマス・コンサート』がその始まりで、ステージには自転車に乗って登場していた。『ルージュの伝言』のテイストにあわせ、由実のライブパフォーマンスが変わっていった。ピアノを弾かず、ハンドマイクで振りをつけて歌う場面が増えていった。歌の弱さや緊張をごまかした。

当時、女性シンガー・ソングライターのファッションは、黒のロングスカートに長いストレートヘアが定番だった。そんな時代に由実は赤いマントを羽織り、白いジャンプスーツなど派手な衣装で飛び跳ねるようになる。「コスプレですよね。ピンク・レディーの三年先を行ってた」(松任谷由実)。「由実さんの大衆性、派手好きは母親の影響でしょう。いろいろな演劇を見るのが好きな人だから」(松任谷正隆)。



『いちご白書をもう一度』

75年、社外からアルファに依頼があった。由実にフォークデュオ『バンバン』の曲を書いてくれという。バンバンは京都出身のグループだったが売れず、次回作が駄目だったら解散という状況下にあった。依頼者の前田仁はCBS・ソニーで吉田拓郎などを手がける敏腕ディレクター。早稲田大学時代に学費値上げ反対の学生運動に参加し、これがもとで商社への就職内定が打ち消されるという苦い経験をしている。

由実はどんな曲がいいのかと、すでに顔見知りだった前田に訊く。材料がないと書けないのだ。前田は窮地に陥っていたバンバンの話しをしてから、大学を卒業して5、6年過ぎてもいまだに沸々としているものがあって……と、なぜか自分の身の上話を切り出した。就職内定取消時に付き合っていたガールフレンドの話など、思い出すままを由実に語った。

黙って聞いていた由実は、アメリカの青春映画の『いちご白書』のストーリーを話し出した。コロンビア大学の大学紛争をもとにした、ノンフィクションからつくられた映画である。紛争が激化したキャンパスに警察が乱入し、恋人が引き裂かれていくストーリーで、学生たちを催眠弾で排除するラストシーンが印象的だった。

それから2週間後、由実は『いちご白書をもう一度』を書いてきた。由実は学生運動を実体験したわけではないが、前田の学生運動の話を作品に吸収させ、バンバンのキャラクターを活かす曲ができあがった。「就職が決まって 髪を切ってきた時 もう若くないさと 君に言い訳したね~」のくだりに、70年代前半の学園風景の感傷的な気分が滲み出ていた。それまでの由実の作風とは違う仕上がりは、作家としての非凡な才能を、あらためて感じさせた。

由実は時代の空気を歌にした。しかし実際の学生運動を知る世代からは批判された。学生運動はそんな甘いものじゃない、挫折や転向を安易に歌にしてほしくないと。あの無垢な映画をネタにしたとの反発もあった。さらには詞も旋律も凡庸で、由実が揶揄して命名した「四畳半フォーク」の同類にしか聴こえないとの痛烈な皮肉もあった。



『あの日にかえりたい』

75年の夏、女流人気漫画家の花村えい子原作のテレビドラマ、『家庭の秘密』がTBSで始まった。チーフ・ディレクター福田新一はクラシック音楽の造詣が深く、自宅には4~5千枚のレコードがあった。福田は別のドラマで、当時まだ千葉大学の学生だった萩尾みどりを起用していたが、萩尾は荒井由実と同じ歳ということもあってか、その音楽性に共感を覚えていた。福田は萩尾から勧められ『ひこうき雲』を聴いた。

この人にドラマのテーマを歌わせたい。福田はプロデューサーの日向宏之に『ひこうき雲』を聴かせる。だが日向は「何だかお経みたいだな。節も何もなくて、俺はこんなの嫌だな」と理解しなかった。それでも福田は「主題歌は新しい感覚で行きます。私に任せてください」と、日向を説き伏せた。毎週決まった時間に流れるドラマの主題歌は、一度大衆の心を掴むと一気に右肩上がりとなる。由実は大きなチャンスを手にした。演出側からのドラマの見せ場や、その場面に必要な音楽を福田から聞き、曲を書いた。

花村はその『あの日にかえりたい』を初めて聴いた、そのときの驚きをこう語っている。「原作は漫画でも長い連載でしたし、内容的にも波瀾万丈なものでした。それが、たったあれだけの歌詞のなかにまとめられていました。主人公の、恋をあきらめなければいけないという思いが、『今愛を捨ててしまえば、傷つける人もないけど』の歌詞の中に入っている。場面がさりげなく描写されて本当にびっくりしました」。

シングル盤の『あの日にかえりたい』は、ドラマが折り返し地点を迎えた10月に発売された。発売がこの時期にずれ込んだのは、由実が地方のコンサートなどで忙しく、レコーディングの調整がつかなかったからだった。ドラマの撮影も終わりに近づくころ、日向は最後の北海道ロケを進めていた。冬の気配も漂う支笏湖へ向かう路線バスのなかで、地元ラジオ局の歌謡番組から、『あの日にかえりたい』が流れた。それはリクエストはがきによるヒットランキングの1位と紹介された。日向が語る。「ああ、ついに1位なんだ。その番組を自分はやっているんだと、何か人ごとみたいに思ったことを覚えています」。

しかし『あの日に帰りたい』は、歌詞が急ごしらえで安直だ、荒井由実らしからぬとの批判もあった。由実自身も歌謡曲に寄りすぎたと感じ、新しいアプローチとしてボサノバを取り入れた。この歌はテレビドラマ主題歌としての、妥協の産物だったのかもしれない。



ブレイク

『いちご白書をもう一度』は75年10月、オリコンチャート1位を達成し、12月には6週連続1位も記録した。由実はソングライターとしての頂点に達した。

10月にリリースされた『あの日にかえりたい』も、初登場こそ70位だったが、その後急上昇を続け、12月22日、シンガーとして初の1位に輝いた。2週連続でチャートの首位をキープし、由実にとって初めてのナンバーワンヒットとなった。

またそれまでのアルバムも『ひこうき雲』が14位、『MISSLIM』が8位に上昇、『COBALT HOUR』は1位を獲得し、由実の作品に一気に火がついた。ニューミュージックという言葉は、歌謡曲にもフォークにもロックにも収まりきらない、由実の音楽を形容するために作られた造語だ。荒井由実は新時代の旗手になった。デビュー時から「私は絶対に有名になる」と、由実はよく口にしていた。『ひこうき雲』でのブレイクではなかったが、由実はその願いをついに成就した。



軋轢

振りかえれば75年は、2月『ルージュの伝言』、6月『COBALT HOUR』、8月『いちご白書をもう一度』、10月『あの日に帰りたい』が発売された年だった。73年末のデビューから2年で、由実は頂上に登りつめた。そして75年は私生活でも12月に正隆と婚約。まさに順風満帆の年だった。

しかし内情は違った。この年はアルファとの軋轢が生じていたのだ。アルファとは契約によるアルバム作りとツアーがあり、さらには所属するハイ・ファイ・セットや石川セリらに曲を書かなくてはならない。自分だけが馬車馬のように働かされる。懸命に働いても、そのカネを他のアーティストの育成に使われていることも不満だった。『いちご白書をもう一度』も『あの日に帰りたい』も、本意でないスタイルで書いた。批判は覚悟の上だった。

由実はアルファを辞めたかった。しかしその経営状態は思わしくなく、ブレイクした由実が辞めるとアルファは傾く。今までかかった宣伝費はどうなると責められた。本人の反対を押し切って、ベストアルバム『ユーミン・ブランド』も出されてしまった。『あの日にかえりたい』のヒットの頃には、由実の気持ちは萎えていた。自分の中の祭りが終わってきていた。年2枚のアルバム制作がノルマだったが、『COBALT HOUR』の後、翌76年11月の『14番目の月』まで1年半、由実は新作アルバムを出していない。

「18歳でデビューして精神状態が良くなかった。追い詰められていた。結婚すれば違う地平が拓けると思った。結婚は現実逃避だった。婚約した時点で、表舞台から姿を消すつもりだった」。76年3月に多摩美術大学を卒業した頃は、引退を決意していた。もう人前で歌うのはやめよう。依頼があれば曲を書こう。もともと自分は作曲家になるつもりだったのだから。

パパ・レモンの平野肇はバックバンドをすでにやめていたが、自著で、由実のこの間の事情を推察している。「ユーミンは周囲の人たちに気をつかう人だった 『私が私が』と前にでるタイプではない。半歩くらい引いたところからみんなを見ていて、うまいところで話に加わって盛りあげる。そのタイミングが絶妙で、相手がミュージシャンでもスタッフでも違う業界の人でも、その場のバランスを心得ているところがあった。彼女は空気を読む天才だと推測する。だから会社ともめたのは相当な不信感があってのことではないか」。



『14番目の月』

『14番目の月』は、荒井由実独身最後のアルバムとして76年11月に発売された。前作『COBALT HOUR』でのアメリカン・ポップス的なサウンドの流れの延長線上にある作品。アップテンポな曲が多く、サウンド的にも豪華で、1曲1曲の完成度も高い。

このアルバム発売を機に由実は、アルファを辞めている。松任谷由実 「『14番目の月』を出すころには、どうせみんな移り気で、いろんな女性アーティストがポストユーミンといわれていて、あきられて捨てられるという気持ちだった。ポストユーミンという言葉が屈辱だった。まだ生きているのに葬られてしまうような。ろくでもない歌手がまねをしているのが許せなかった。精神状態は最悪だった。収録曲の『中央フリーウェイ』は自分でいうのはおかしいけれど、すごく完成度が高い。これだけの曲を書けるもんだったら書いてみろという自負がある。あの曲は八王子で書いたが、できたときは興奮ものだった。この曲で決着つけて結婚した」。

『中央フリーウェイ』は転調を何回も繰り返す。何度も転調するとほとんどのミュージシャンは、音楽の出口が見つからなくなる。それで結局完成しない。由実もやはりこの陥穽にはまった。しかしついに完成させた。その様子を傍らで見守っていた正隆は、奇跡がおきたと感じた。

正隆は由実と出会った頃の思い出をこう語っている。「最初に練習した曲は『ひこうき雲』で、サビの♪かけ~て~いく~のところでB♭m7に行くコード進行に、それはもう大変なショックを受けた。このコード進行で僕は結婚を決意したと言っても言い過ぎではないだろう。人生なんてそんなものだ」。

『14番目の月』は、芝浦のアルファのスタジオで録った。最後の日はミックスダウンとマスタリングをおこない、レコードと同じ状態のマスターテープをつくった。そのあと暗いスタジオで椅子を並べて試聴会。親しい友達などごく内輪の十数人で、『14番目の月』を明け方に聴いた。祭りのあとのような、妙な雰囲気だった。

『14番目の月』をリリースした9日後に由実は、横浜山手教会で正隆と式を挙げた。仲人はTBSの福田が、司会は林美雄がつとめた。結婚後は夫の姓を名乗る。福田にはもし結婚後にレコードを出すときは「松任谷由実」にする。そのほうがカッコいいからと、冗談で話していた。すると披露宴で福田がこれを美談として、業界関係者を前にスピーチしてしまう。歌手はやめるつもりだったのに、由実は引っ込みがつかなくなってしまった。

 

 

荒井由実ヒストリー

 

 

 

ブログ後記
 

以上が『荒井由実ヒストリー』となります。結婚し松任谷姓となった彼女については「範疇外」となります。あっけない幕切れで申し訳ありません。『14番目の月』を出すころの、彼女のネガティブな状況は、今回の資料から初めて知りました。そのため拙文も終わり方が難しく、松任谷由実としての再ブレイクまで話を引っ張ろうとも思ったのですが、じつは自分は松任谷由実の歌を知りません。アルバムも持っていません。荒井由実時代のような思い入れがないのです。これ以上、書くにも書けないということです。

今回の資料集めでは、自分にとって新しい情報もありました。音楽評論家の歴代アルバム評価によると、最近のユーミンは原点回帰し、荒井由実時代の曲調が増えてきているらしい。松任谷由実からの歌には、派手なイメージしかないので、先入観による食わず嫌いの面もあるのかもしれません。今度じっくり聴いてみようと思っています。

余談ついでになりますが、自分はサラリーマンだった現役時代、荒井由実が京都でデビューコンサートをおこなった、会場のすぐ近くに勤めていました。このシルクホールは講演会なども催されていて、自分もよく利用する、とても身近な存在でした。ですからこのホールの名が資料から出てきたときは、とても驚きました。ユーミンが、あのステージから巣立っていったのかと、感慨すら覚えました。荒井由実時代の資料の記述を組み換えてつなげていくことは、とてもややこしい作業だったのですが、曲がりなりにも書き終えることができたのは、ひとえにこのホールのおかげです。京都の地でのユーミンデビューを披露したいがために、最後までがんばったということです。

 

 

さて、本文に書けなかったエピソードをご紹介させていただきます。


2002年、ユーミンデビュー時の大恩人である林美雄が亡くなりました。がんの闘病の末で、享年五十八。翌月そのお別れ会があり、金曜パックの常連だった原田芳雄や石川セリが歌を披露しています。スーパースターであるユーミンはスケジュール的に無理だろうと思われていたのですが、最後にサプライズで登場し、会場は大きくどよめいたそうです。そして短い挨拶のあと『旅立つ秋』を歌った。この歌は林パック終了に際しユーミンが林のためにつくりましたが、まるでこの日のために用意されたようだと、列席者たちは涙まじりに感じ入ったそうです。林は荒井由実の作風が変わってからも、それまでと変わらず彼女と接しました。荒井由実を見出したという態度も、すこしも見せなかったといいます。松任谷由実は、そのことにもとても感謝しているそうです。
 

 

自分は最初の『荒井由実ヒストリー』をアップした際に、作曲家團伊玖磨のエッセイを紹介しました。『ひこうき雲』をほめたたえた有名な一文です。團は同じ本『好きな歌・嫌いな歌』で、荒井由実の『雨のステイション』についても語っています。それを最後に紹介させてもらいます。
 

 

雨のステイション

梅雨に入って霖雨が頬を濡らす日が続いている。窓から外を見ると、雲が低く、海も煙っている。大学に出掛ける息子が、低い空を見上げて、
「今日も荒井由実みたいな空だ」
と言った。そう言えば、荒井由実の歌にたしか「雨のステイション」というのがあったと思ったので、息子にその事を尋ねた。

「ありますよ、ステレオの傍の僕のレコードが入っている箱の中に。『十二月の雨』って言うのもありますよ、あとで聴いてごらんなさい」と言って彼は出掛けた。息子が出掛けて、書きものが一段落した時に、そのレコードを聴いた。そして、前に「紙ヒコーキ」や「ひこうき雲」を聴いた時と同じように、僕は又、大いに感じ入った。

この歌にも、又彼女独特のグルーミーな”雨”が、”霧”が、ステーションを濡らし、街を煙らせ、何も彼もをにじませ、その中で、誰かに逢えるかと、何人もの人影を彼女は見送る。そんな街をかすめて飛ぶ燕に、彼女は心を縛るものを捨てて、何処かへ馳けて行ってしまいたい、と思う。

僕は何でこんなにこの若い、見知らぬ女の子が作詞し、作曲し、自ら歌う歌に惹かれるのかを考える。そしてその原因が、どうやらほんの数人の優れた人は除いて、殆んど行き詰まっているように見える日本の職業的なポピュラーの作詞家やメロディー・ライター(アメリカではポピュラー・ソングを作る人は作曲家とは言わない)の作る商業主義のべたべたした歌には厭気がさしていて、僕自身の心が、レコード会社の汚れてじめじめした企画室などから生まれたもので無い歌を求めているからだと思う。歌というものは、本来、誰かの心から流れ出て、それをのどが渇いている人が飲むものなのだ。のどが渇いている馬に水を飲ませる事は簡単だが、のどが渇いていない馬に水を飲ませる事は不可能だと言う諺がある。余りにも商業主義の入り込んだあざとい歌にのどを渇かせていない僕は、だから、荒井由実さんや上条恒彦君の歌に惹かれるのだろうと思う。

一寸心配になるのは、この自由経済の中で強権を持つ商業主義と、誰でも無関係ではいられない事だ。荒井さんの歌にしても、上条さんの歌にしても、それがレコードとなって売られている以上、矢張りそれは商業主義のコンベアーの上に乗っている訳だし、いつかは変質して来るかも知れないのである。結局は、商業主義の中で、商業主義の色彩を感じられぬ歌を探す事を、いつの間にかこちらがしているのかと思ったり、いや、この人達の理知が、商業主義の網の目を潜り抜け、潜り抜けしてこちらに届くのかと考えたり、そうした良いものへの鋭い嗅覚を、僕の息子のようなヤングージェネレーションは持っていて、それが良い事なのだと思ったり、この「雨のステイション」を聴きながら、僕は考える事が多かった。

レコードを聴き終えて、窓の外を見ると、ご(月は蒼く煙って’空も海も海岸の道も、林も、’何もかも’が、この歌の通りに濡れてにじんでいた。