坂本龍一ヒストリー前編 ~ 幕末からのルーツ 誕生からミュージシャンへの軌跡  〜 | Kou

Kou

音楽雑感と読書感想を主に、初老の日々に徒然に。
ブログタイトル『氷雨月のスケッチ』は、はっぴいえんどの同名曲から拝借しました。

自分は四十年ほど前、坂本龍一の存在を知りました。彼がデビューする前、スタジオ・ミュージシャンだったころ、多くのアルバムのクレジットでその名をよく見かけました。ファースト・アルバムも、リアルタイムで買いました。

坂本龍一の音楽としては、ピアノソロや、民族音楽っぽいものが好きでよく聴きます。いまも曲を流しながら書いています。ただテクノ・ポップといわれる、彼を一躍メジャーに押し上げた、YMOのような機械的な音には、正直ついていけませんでした。また難しい音楽論もよくわかりません。興味があるのは坂本龍一という音楽家の、人間的な側面です。

坂本の自伝である『音楽は自由にする』は、その貴重な記録です。もう十年近くも前の本ですが、生い立ちから始まるミュージシャンへの軌跡が克明に記されています。また、YMO内部の確執や、アカデミー賞受賞の経緯、創作活動の舞台裏など、心のうちや葛藤も赤裸々に告白しています。

以下の拙文は本書の要約、あるいはエッセンス的なものとなります。また今年はNHKで、『坂本龍一ファミリーヒストリー』が放送されたことから、この番組からも貴重なルーツエピソードを採り入れました。そして、以下に掲げた他の資料からも多数引用させてもらいました。つまりこれらを総合してのお話となります。幕末の高祖父の代に始まり、龍一本人の履歴をメインストリームとし、2002年父一亀逝去にいたる、一世紀半に及ぶヒストリーです。

坂本龍一というアーティストに関心がある方なら、一読していただく価値はあるはずです。お目を通していただければ幸いです。


『音楽は自由にする』坂本龍一著
『僕の音楽物語』平野肇著
『ニッポン・ポップス・クロニクル 1969‐1989』牧村憲一著
『龍一語彙』坂本龍一著
『伝説の編集者 坂本一亀とその時代』田邊園子著
『坂本龍一・全仕事』山下邦彦編
『坂本龍一ファミリーヒストリー』NHK
『村上龍と坂本龍一』21世紀のEV.Cafe
『skmt』坂本龍一・後藤繁雄著
『二十歳のころⅡ』立花隆+東京大学教養学部立花隆ゼミ
『聞き上手 話し上手 38の可士和談義』佐藤可士和対談集
『時には、違法』坂本龍一著
『ユリイカ 特集坂本龍一』2009年4月臨時増刊号
『婦人公論』2018年7月24日号
『文藝春秋』2012年2月号
『新潮』2022年8月号(追記)

 

 

 

デビューアルバム 『千のナイフ』

 

 

父方の系譜

坂本龍一の父方の祖先は、福岡藩黒田家の足軽侍だった。黒田家の古文書には、龍一の高祖父となる武七の名が記されている。坂本の家は、福岡藩のとなりの久留米藩との国境にあり、進入者を阻止する役目を代々任されていた。「英彦山街道の坂の下」と呼ばれた地で、「坂本」の名の由来となった。

武七には龍一の曾祖父となる子、兼吉がいた。明治の世になると坂本家は、福岡県朝倉郡甘木町(現在の朝倉市)に移り住む。兼吉は料理店『料理坂本』を営みはじめ、昭和の初めまで繁盛した。地元の有力者となった兼吉は、みなから「親分」と慕われた。今も、神社の鳥居の寄進者や神社内の相撲施設の番付表に、世話人として兼吉の名が残っている。

明治35年、兼吉に子が生まれる。龍一の祖父となる昇太郎である。昇太郎は興業をとりしきる父の影響もあり、芸事が好きな少年に育っていった。甘木では江戸時代から素人歌舞伎が盛んで、昇太郎はその人気投票で一等になるなど、いわばアイドル的な存在となる。22歳で料理坂本で働いていたタカと結婚。生まれたのが、龍一の父、一亀である。

昭和6年、甘木町に有力者たちが出資して『甘木劇場』ができ、その経営者として、29歳の昇太郎が抜擢された。しかし2年ほど後、劇場でおこった喧嘩がもとで、従業員が殺されてしまう。昇太郎は責任をとり退職、甘木に妻子の残し、福岡の生命保険会社で単身働きだす。やがて女性と暮らすようになり、家族を捨ててしまった。


父 一亀

甘木には、妻のタカと、長男の一亀を含む6人の子供が残された。まじめな性格の一亀は、父に代わり弟たちに厳しい躾をするようになる。一方、通った旧制朝倉中学では明るいひょうきん者で、信望の厚い名級長、水泳部の主将でもあった。昭和15年、日本大学文学部に入学するが、じつは旧制高校の受験に失敗していた。級長として友人たちに顔向けができなくなり、東京に飛び出したらしい。

しかし翌年には太平洋戦争が始まり、大学を繰り上げ卒業、学徒出陣で徴兵される。入隊したのは佐賀の電信第二連隊で、戦地に向けて情報をおくった。毎日幾度となく上官からビンタをくらい、ときには頭を割られるほど強く殴られた。昭和19年、ソ連との国境付近の旧満州東安に配属。マイナス30度の極寒の地で、指が凍傷にかかりながらもモールス信号を送り続けた。

昭和20年4月、満州から福岡県筑紫野市の通信基地に移動を命じられ、4ヵ月後、終戦を迎える。一方、東安に残された多くの仲間たちはシベリアに送られ、強制労働を強いられた。戦友がいまだ極寒の地で苦しんでいる。帰郷した一亀は、罪の意識に苛まれる。やり場のない鬱屈をかき消すため、家の近くの林のなか、ひとり大声を発しながら竹刀を振りまわした。

半年後、一亀は近所にあった鋳物工場で働きはじめる。数日後、同僚たちが安い給料に不満を抱いていると知った一亀は、ひとりで社長に直談判を敢行。だが一蹴されてしまう。社長から詰問された従業員たちも口をつむんでしまい、人間不信に陥った一亀は工場を辞めてしまった。


一亀は学生時代から文学青年だった。無類の本好きで、本代のため食費を削り、肺炎になったこともある。昭和21年9月、文学好きな若者をあつめて、『朝倉文学』なる同人誌の発行を始めた。これが人生の岐路となった。水を得た魚のように、以後精力的な活動を繰り広げることになる。一亀も、戦争に疑問を抱く青年を主人公に小説を書いた。

ある日、甘木に療養に来ていた東京の出版社社員が、朝倉文学に目をとめる。そして一亀に東京の出版社で働くことを勧めた。昭和22年1月、25歳の一亀は上京。東京神田にある河出書房で小説の編集者として働きはじめた。しかし故郷を離れた裏には、人には言えぬ失意があった。実らなかった恋への断念だった。一亀は両親の猛反対にあい、その恋を諦めざるをえなかったのだ。親から勘当されてもと望んだが、それも叶わなかった。

受験の失敗、敗戦の挫折と多くの仲間たちの戦死、実らなかった恋と、次々に襲った失意の感情が、感受性のつよい一亀に陰影を与えないはずはなかった。明るく闊達だった彼の内面に、複雑な屈折を生じさせた。

東京で勤め始めて2年後、父の昇太郎から電話が入る。「上司の娘さんがおまえの担当した本を読みたがっている」と。一亀は本を届けた。『永遠なる序章』という椎名麟三の本で、届け先は下村敬子の家だった。一亀と、龍一の母となる敬子の運命の出会いとなった。



母方の系譜

龍一の母方である下村家は、長崎県の諫早市にあった。龍一の曽祖父となる代助は、農業を営んでいた。小作人としての生活は貧しく、代助は家族とともに明治38年、佐世保市に移住。市役所の臨時雇いとして働きはじめた。仕事を募りながら町中を歩きまわる何でも屋だった。その三男として生まれたのが、龍一の祖父となる弥一である。

弥一は学校で、リンカーン大統領も貧乏な家に生まれたことを知る。自分も同じ境遇だが、勉強して努力すれば栄達できると希望をもつ。しかし小学校を出た後は上の学校へは行けない。軍艦などをつくる佐世保海軍工廠に勤めはじめ、毎日油まみれになって働いた。

だがどうしても進学の夢を捨てきれず、突然、弥一は思いきった行動に出る。佐世保中学の校長を紹介もなく訪ね、編入を認めてくれるように直談判した。校長は試験合格を条件に、異例の了承をしてくれた。校長も苦学して教員になっていた。弥一は寝る間も惜しんで勉強に明け暮れた。眠くなると膝にキリを突き刺した。蛍をあつめた光、あるいは窓の雪明かりで勉強した。翌年の3月、みごと試験に合格、旧制中学4年生として入ることができた。

弥一はそのとき18歳。父の代助は、息子の学費を工面するために必死で働いた。大正8年、第5高等学校(現熊本大学)に合格した弥一は、成績優秀で奨学金をもらえることになる。そして生涯の友と出会う。のちに総理大臣となる池田勇人だった。ふたりは京都帝国大学法学部でも同窓となり、弥一は池田の葬儀に際し、友人代表として弔辞を読んでいる。


大学に入学した2年後のこと。弥一のもとに、佐世保の小学校時代の恩師三浦朝千代が、娘の美代を連れて訪ねてきた。弥一はふたりを京都観光に案内する。すると突然朝千代から、娘の結婚相手になってほしいと頼まれる。2年後、弥一と美代は結婚した。

大正14年、弥一は共保生命保険に入社。順調に出世し35歳で新潟の支部長に、翌年には新橋の支店長に昇格し、取締役まで登りつめた。その後、不二サッシに転じて専務、さらに東亜国内航空の初代会長をつとめた。貧しい農家に生まれながらも苦学の末に日本を代表する経営者になり、平成2年、92歳で生涯をとじた。

弥一は、昭和60年、東京生命(旧共保生命保険)の社報に、「龍一は新しい音楽家として青少年の間に知られるようになりました。私も長寿のおかげで孫の成長をみることができて、しあわせに思っております」と喜びを綴っている。弥一は龍一の公演を欠かさず観に行っていた。



母 敬子

時を巻きもどす。結婚した弥一と美代の夫婦は、龍一の母となる長女の敬子をはじめ、3人の男子にも恵まれた。美代は教育熱心で、とくに音楽に力を入れた。童謡からクラシックまでさまざまなレコードを聴かせた。三男である三郎が幼いころ、高価な茶碗や皿をわざと落とし、その音を楽しむことまで許していた。

敬子も琴やピアノを習い、勉強やスポーツでトップクラスの才媛として育った。弥一は、長女の名を総理大臣原敬にあやかったこともあり、男の子だったなら政治家にしたいとさえ思った。敬子は二十歳を前にした終戦直後には男子学生とキャンプに行くなど、いわゆる戦後民主主義をいち早く謳歌し、結婚後は、幼き龍一の手を引き反戦デモに参加している。

敬子はとくに読書が好きだった。ある日弥一から、「部下の息子が出版社の編集長をしている」と聞かされる。敬子は「その人が担当した本を読んでみたい」と頼みこむ。一亀が敬子のもとを訪れ本を届けた。昭和23年のことで、一亀は初めて敬子と会った日のことをこう綴っている。「若々しく健康そうな彼女に好感をもった」。敬子は育ちのよさと愛くるしい顔立ちから、多くの男性たちに好かれていたが、 文学を熱く語る一亀に魅かれるようになっていった。



編集者 一亀

一亀は新人作家の発掘に力を入れていた。とくに有望と見込んだのが、大蔵省に勤める役人で、のちに日本文学界の代表的存在となる三島由紀夫だった。一亀は三島に長編小説執筆をもちかける。三島はすぐさま大蔵省を辞め、執筆活動に入る。完成したのが『仮面の告白』で、文学界に衝撃をあたえる作品となった。

有名になった三島に興味をなくした一亀は、以前と同様、新人の発掘に勤しむ。その指導は厳しく、「このやろう、バカヤロー」と、作家に対しいつも怒っていた。やさしい表現ができなかった。一亀によって世に出た直木賞作家水上勉も、700枚の小説を4回も書き直しさせられたとこぼしている。

一亀は新人作家たちにいつも「妥協するな、最善をつくせ」と励まし、一方では生活面なども手厚く配慮し面倒をみた。高橋和巳が病で死の床についたときは、病院に一年以上張りついた。平野謙、丸谷才一、野間宏、小田実など、数々の著名な作家を育て上げた。坂本一亀がいなければ、戦後文学の流れは違うものになっていたとされる。



龍一誕生

一亀と敬子が結婚したのは、28歳と23歳のときだった。東京中野に住み、2年後の1952年1月17日、男の子が誕生した。龍年の1月生まれと長男にあやかって、龍一と名づけた。

龍一は、自由学園系の幼稚園に入る。幼児生活団と呼ばれ、型にはまらない情操教育が行われることで有名だった。この時期は祖父の家に仮住まいしていて、バスと電車を乗り継ぎ、ひとりで通った。渋谷で乗り換える際、映画館に寄り道した。友だちを誘い問題となり、悪い子の代表となった。幼稚園ではピアノの時間があったが、家にもピアノはなく、特別うまくもなかった。


龍一はおじである、大学生の下村三郎に可愛がられた。茶碗の割れる音を楽しんでいたのは、幼きころの三郎である。のちに数学の教師となる無類の音楽好きで、クラシックレコードを蒐集し、モーツァルトだけで数百枚もっていた。ピアノもうまかった。龍一は休みの日になると三郎の部屋に行き、ピアノを叩いたり、レコードを聴かせてもらった。お気に入りはメンデルスゾーンのバイオリンコンチェルトとなった。龍一の音楽の原体験は、幼稚園のピアノと三郎の影響だった。

母はリベラルな思想をもっていた。ユニークな教育で知られる自由学園を選んだのも、その信念だった。ラテン的な性格の人で、イタリア的なものが大好きで、映画館に龍一を連れてフェデリコ・フェリーニの『道』を観に行ったりした。龍一が生まれてからの敬子は、育児だけの日々に飽き足らなくなり、帽子のデザインを習い始めた。母が不在がちとなった龍一はひとりでいることが多くなった。母は夜まで帰ってこない。帽子の仕事なのだか、遊びなのかわからなかった。龍一は小学校低学年からご飯を炊き、つくり置きのカレーを温め、ひとりで食べた。母は、龍一がYMOでブレイクすると、メディアでオープンに息子の素顔を語るようになった。




小学校 ピアノ

58年、龍一は港区立神応小学校に入学。翌年坂本家は、世田谷区烏山に引越し、龍一は区立祖師谷小学校に転校した。1年生のとき、幼稚園で同窓の母親たちが、せっかく習ったピアノを続けさそうと先生を探しだし、龍一も習うことになる。母も龍一も積極的ではなく、つきあい程度の思いだったが、練習のため、家にピアノを買うことになった。父は薄給のため、月々のレッスン料も家計には負担となった。

ピアノの先生は徳山寿子といい、高名な声楽家の未亡人。進歩的な明治の女性でレッスンは厳しく、生徒への体罰は常だった。それでもユニークな教育方法により、龍一の音楽への興味は一気に高まることになった。バッハのピアノ曲が好きになった。龍一は左利きのため、右手と左手が等価の役割をもつバッハが気に入った。しかし練習が嫌いで、家ではほとんど弾かなかった。

祖師谷小の校長もユニークな人で、宿題を出さない学校だった。勉強は授業だけで十分との教育方針であった。龍一は家で自習する習慣はつかず、中学、高校でも改まることはなかった。おまけにテレビっ子となった。テレビを買うきっかけは、祖父の弥一がNHKの「のど自慢」に出たことだった。弥一は龍一を可愛がり、本をよく買ってくれた。偉人伝が多かった。しかし伝記はおもしろくない。感想を問われる都度龍一は閉口した。不遇な子供時代をおくった弥一は、孫にはできる限りのことをしたかった。祖父がよく連れて行ってくれた有栖川宮記念公園を、龍一は故郷のように感じている。



作曲

高学年になると、ピアノ教室の生徒は龍一ひとりになった。みな私立中学受験のため辞めていき、区立の中学に進む龍一は通い続けた。5年生のとき、徳山先生に「別の先生のところで、作曲もやりなさい」と勧められる。龍一に人並みならぬ才能を見出したのだ。幼稚園のとき、課題として「ウサちゃんのうた」をつくったことがあり、龍一はこのとき幼心にも強烈な感覚を覚えた。のちに作曲の道に進む、端緒となる体験であった。

しかし母は息子に作曲を習わせることは考えられなかった。理由は坂本家の経済状態にもあった。ピアノのレッスン料に作曲までが加わることは大きな負担となる。だが先生は再三再四勧めた。その都度母と龍一が断る膠着状態が何か月も続いた。


結局は親子が根負けした。龍一は東京芸大の松本民之助教授のもとに通うことになった。この先生もまた厳しい人だった。体も大きくブルドッグのようだった。通い始めて早々、先輩の生徒たちが怒鳴られ、ひっぱたかれるのを目撃し、龍一は震え上がった。

この時期の6年生から中1にかけて、龍一はベートーベンをよく聴いている。一方、ポール・アンカなども耳に入ってはきたが、ビートルズ以前のポップスには興味がわかなかった。だがビートルズは違った。ハーモニーもアレンジもいい。クラシックとはまったく違う音楽が存在していることに驚いた。松本先生のところに通いはじめた時期に、ビートルズと出会ったことは大きかった。



恐怖の父

一亀は仕事で多忙な日々をおくっていた。仕事終わりに毎晩飲み屋で作家たちと激論を交わし、帰宅は午前3時頃になるのが常だった。酔っぱらい、近所を大声で歌いながら帰ってきた。家にいるときも、電話で作家たちに大声で怒鳴っていた。

帰宅が遅い父と龍一は、めったに顔を合せない。一か月に一度あるかどうかだった。家にいればいたで、父はいつも怒鳴っていた。リベラルな作家とも仕事をする半面、陸軍で染みついた気性が抜けなかった。「雨戸開けんか!」「新聞取ってこい!」。家に来た出版社の者は、「龍一!ピアノを止めろ!」と、大声で叫ぶのを聞いている。龍一は恐怖心から、父親の目をまともに見ることができなくなった。はじめて目を合わせたのは、高校3年ぐらいだった。父に何か言いたいときは、母を通して伝えた。龍一は他の人とも視線をそらすのが癖となり、ネクラな印象を与える少年となった。



中学校

64年、世田谷区立千歳中学校に入学。部活はバスケットボール部に入った。運動神経がよく、そのころは背が高く、モテたいのが一番の理由だった。親や徳山先生は、手を痛めればピアノができなくなると反対した。それでもバスケを選び、ピアノと作曲は大騒ぎの末にやめた。しかし3か月ほどすると空虚感をおぼえ、両先生に頭を下げ再開する。自分は音楽が好きなのだと、初めて自覚した。バスケは辞めるとき、キャプテンに一発殴られた。

学校では何れかのクラブに入るきまりがある。今度は吹奏楽に入った。龍一はトランペットやトロンボーンをやりたかった。だが口が大きく唇が厚いからと、チューバを割り当てられた。チューバは大きく重たくイヤだった。部には一学年上の塩崎泰久がいた。塩崎はのちに代議士になり、安倍内閣で官房長官や厚生労働大臣をつとめている。龍一は練習嫌いでさぼってばかりいた。部長の塩崎はよく叱った。しかし演奏本番になると龍一はいとも簡単にこなしてしまう。塩崎はのちに龍一が有名になってから、とんでもないヤツに説教していたことを知った。

作曲は再開後、本格的に打ち込むようになった。それまでは課題を一夜漬けで先生に提出していたが、自発的に研究するようになった。中学2年のとき、ドビュッシーに出会う。三郎のコレクションにあったアルバム『ドビュッシーとラヴェルの弦楽四重奏』に衝撃を受け、夢中になった。もっと早く聴かなかったかと悔やんだ。自分はドビュッシーの生まれ変わりだと半ば本気で信じ、なぜ日本語を話しているのかとさえ思った。一方、ビートルズが奏でる9thの和音の響きに、ドビュッシーを見出したときは興奮した。普段会話のない父をステレオの前に引っ張ってきて、ビートルズを聴かせたほどだった。

高校進学の受験勉強はしなかった。放課後は気が向けば吹奏楽で練習し、家では音楽を聴いたり、父の書棚の本を読んだり、テレビを見たりで成績は良くなかった。担任から、希望高校を訊かれ、新宿高校と答えた。好きだった女子同級生の兄が新宿高校に通っていて、親近感があった。しかし同校のレベルは高く、担任は「そりゃ無理だ」と嗤った。龍一はその言葉に反発し、受験までの一か月猛勉強し、合格した。そもそも知能テスト結果は145で、学年で2番目に頭がよかった。

総じて中学生のころは、地味な生活だった。住まいは世田谷のはずれで、まだ田舎だった当時は遊ぶところが何もなかった。龍一の人生が奔流に突入するのは、高校に入学してからとなる。



新宿高校

新宿高校に入って真っ先にやったのは、新宿中のジャズ喫茶を回ること。新宿といえばジャズとの思い込みがあった。毎日ひとりで制服制帽姿のまま、4月中に三十数軒すべてを踏破した。また学生運動への興味から、法政明治など数多くの大学の自治会館を訪ね歩いた。特定のセクトには入らなかったが、2年からは本格的に暴れまわっている。

部活は合唱部を選んだ。理由は楽だから。音楽なら苦労なくでき、練習も毎日なかった。女子が多いのも気に入った。歌はヘタだったが、副指揮者まで任された。高校には一歳上の塩崎が進学していたが、アメリカに留学していたため、帰国後は龍一と同じクラスになり、親しくなった。

前中という、現代国語の教師がいた。前中は学生運動崩れで、放課後、教師仲間数人で酒盛りをすることがあった。龍一も仲間に加わり、酒を買うなどパシリをやらされた。前中の仲間とスキーに行き、女子大生をナンパした。学校では一応、先生と生徒のふりをしていたが、外では名を呼び捨てし、完全な友だち付き合いだった。高校・大学を通して一番の友だちとなった。

ピアノは1年のとき、徳山先生から専門的な先生に代わった。しかし新しい先生が気に入らず、さぼっていたら、もう来ないでくれと断られ、ピアノの練習から解放された。しかし作曲は続けた。松本先生が怖くて辞めるとは言えなかったのだが、作曲はやはり楽しかった。

新宿高校は当時、東大に入る生徒が毎年100人はいた。龍一は漠然と東京芸大がいいと思っていた。1年生のとき、進路指導の教師から一度会ってみろと、作曲家の池辺晋一郎を紹介される。高校の先輩だという。訪ねて自作の曲を弾いてみせると、「いま芸大の作曲科受けても受かるよ」と太鼓判を押された。世の中甘いと思った。勉強していなかったが、合格が約束されてしまった。ますますやる気がなくなった。入学当初20番ぐらいだった成績も急降下した。

それからは好きなことばかりの、バラ色の人生となった。音楽を聴き、本を読み、人生のなかで一番映画を観たのもこの時期。ガールフレンドとデートをし、デモや集会にもでかけ、学校はさぼってばかりの日々となった。

1年生の秋、龍一を好きになった2年生の女子がいたが、年長ゆえ恋愛対象にならなかった。その娘はなぜか自殺してしまう。ショックを受けた龍一は、大人になってからもこの人を思い出すことがあるという。はじめてのガールフレンドは2年生のときで、後輩の1年生だった。新宿中央公園などでデートしたが、結局彼女は去ってしまう。龍一の強引な性格に疲れたらしい。初キスはこの子とだった。

3年生になると授業に出なくなった。たいていは学校近くの名曲喫茶ウィーンにいた。朝、家を出るとウィーンに直行。店内で弁当を食べ、出たい授業があれば学校へ行き、またウィーンに戻った。店で女子高生と仲よくなり、映画を観たりデモにも連れて行った。大学生とも親しくなり、新宿西口のガード下へ飲みに行った。

新宿には、学生運動、名画座、ジャズ喫茶、アングラ劇など、龍一の青春時代のすべてがあった。67年から69年は、新宿が日本のサブカルチャーの、ど真ん中にいた。新宿という街自体がエネルギッシュで刺激的だった。

政治デモにはカッコいいからとよく参加した。東大安田講堂の攻防も見に行っている。3年の秋、新宿高校でもストライキをやった。龍一や塩崎らが首謀者で、制服制帽や試験の廃止などを学校に要求、スト中は自分たちで授業をやった。4週間も続き、制服制帽も試験もなくなった。バリケード封鎖の中、龍一はドビュッシーを弾いている。モテようと思ってやった。



東京芸大

芸大の入試の一般教科はおまけのようなもので、実技試験は数日に分けて行われた。龍一はすぐ解答を終え、毎回一番早く席を立って会場を去った。落ちたら日大の芸術学部を考えていた。

70年、東京芸術大学音楽学部作曲科に入学。大学解体など、教育制度を糾弾していた高校の仲間は受験せず、浪人したヤツも多かった。ストレートで国立に入った龍一は皆から総スカンとなる。内部から解体するのだと言い訳したが、高校時代の友人とは以来疎遠になってしまう。

塩崎も一浪後、東大に入った。ふたりは高校時代、親より一緒にいるぐらい仲が良かったが、大学のとき、女性をめぐってモメて以来絶交となる。15年以上が経ち、龍一がアカデミー賞をとると塩崎から祝福の手紙が来た。塩崎は故郷愛媛で父(衆議院議員)の跡を継ぐべく、政治家を目指していた。若い人の票がほしいから松山に来てくれ、会を催すから話してくれと懇願され、龍一はしかたなく出かけている。

作曲科の生徒は1学年20人で、半分が女子。音楽はカネがかかるので両家の子女が多かった。龍一は気むずかしい顔の長髪でジーパン姿。完全に浮いていた。音楽学部の横には美術学部があったが、ここには変なヤツが多かった。龍一は自然と美術学部に入り浸るようになる。友だちができリーダー格にもなり、みなをデモに参加させた。

大学でも龍一は授業にあまり出なかった。だが大学構内やその周辺にはよく行った。昼ごろ出かけ、ヒマそうな友だちを見つけては、お茶の水あたりの喫茶店で時間をつぶし、暗くなると四谷や新宿、吉祥寺、たまに渋谷などのジャズ喫茶に行く。夜遅く帰る。そんな日々だった。大学時代の友だちとは、その後の付き合いはない。

籍がないのに出入りしていた美術学部だったが、まともに絵を描く学生は少ない。二十人のうちひとりいるかいないかだった。舞踏や演劇をやっている学生ばかりで、龍一もその影響で、アングラ劇場を観に行くようになる。公演にも関わるようになり、音楽を演りステージにも立った。吉田日出子や佐藤B作、柄本明らと親しくなった。

1年生の11月、三島由紀夫事件が起きる。そのころ龍一は左翼運動の一方、右傾化もしていた。正午のニュースで事件を知り、防衛庁に走る。三島の遺体が安置してある警察署にも行き、「三島の首に会わせろ」と怒鳴った。父が世に出した作家に対する特別の思いがあった。

芸大で龍一が心に決めていたのは、民族音楽と電子音楽を学び深めることだった。西洋音楽はもう終わりだ。その外側の音楽をみていこうと考えた。そのため小泉文夫の民族音楽の授業にはまじめに出席した。教授の家にまで押しかけると、世界各地で集めた多くの民族楽器があり、さながら博物館のようだった。龍一は作曲専攻はやめて民族音楽学者になろうかと、一時は真剣に悩んだ。

それ以外の授業はあまりにも退屈だった。芸大で学ぶことは入学前にすでに自然と習得してしまっていた。龍一は演劇関係の友だちと新宿のゴールデン街に繰りだし、過激派くずれで音楽好きな連中と仲よくなる。日比谷の野音のロック・コンサートにもよく行った。ギリシャの直接民主制を思いおこさせる、円形の音楽堂でロックを聴くのは気持ちのいいことだった。

大学3年のときに結婚した。相手は同じ芸大の油絵科の学生。龍一より年上だった。子供も生まれた。しかし相性がよくなく、まもなく別れた。他人とはわかり合えないという初めての経験だった。この結婚で生活費を稼ぐためアルバイトを始めた。地下鉄工事の現場に行くと、長髪のためか親方に「おまえには向かない」と、3日で辞めることになった。クラブなどの酒場や銀座のホテルで、ピアノを弾いた。しかし酔客が喜びそうな曲は知らない。シャンソンや映画音楽を演った。毎日同じ曲を弾いたので、頭から離れなくなり困った。

まじめに大学に行ったのは4年生のとき。卒業に必要な単位のためだった。外国語はドイツ語だったが、4年生の1年間で、初級・中級・上級と同時にとり、74年に卒業した。だが就職する気はなかった。そもそも作曲科から就職するところはない。街のピアノの先生か、地方の大学の講師になるぐらいだった。



ミュージシャンに

新宿ゴールデン街では、ミュージシャンの知り合いも多くなった。5人も座れば満員になる小さなバーで、隣に座ったのがフォーク歌手の友部正人だった。龍一はフォークは嫌いだが、友部はおもしろい。現代詩の詩人みたいだと思った。意気投合し、明日レコーディングだから来てくれと誘われた。

友部はレコードを出していた有名人だったが、龍一は知らない。和製ボブ・ディランとも言われていたのだが、龍一はボブ・ディランもよくわからない。それでも千駄ヶ谷のソニーのスタジオで、友部の歌にピアノ伴奏をつけると、とても気に入ってもらえた。そのまま『誰も僕の絵を描けないだろう』というレコードになり、龍一の初レコーディングとなる。酒場の演奏とは比べものにならないカネをもらえた。一緒にコンサートをやろうと言われ、半年間、北海道から九州まで、日本中のライブハウスを回ることになった。

その後は高田渡など、フォーク系の知り合いが自然と増えた。フォークの歌詞にはうんざりだが、民族音楽のひとつとして興味をもった。アイルランドやスコットランド、あるいは黒人音楽がルーツとして聴こえてきたし、その情熱には圧倒された。そしていわゆるスタジオ・ミュージシャンとしての仕事を頼まれることが多くなる。人気があった、りりィのバックバンドも1年ほどやった。



大学院

友部とのツアーのときには大学院生になっていた。大学院に進んだのは、社会の中で何かに所属するということが想像できず、モラトリアムの身分でいたかったから。作曲の勉強のためではなかった。大学を最大限留年して居座ろうとしたが、教官が大学院に入れというので仕方なく進んだ。しかし大学院に顔を出したのは最初の1週間もない。

龍一には将来の夢というものがなかった。目標もなかった。なにかの職業や、肩書を持つということに興味がなかった。いつのまにか現在の坂本龍一になっていた。将来、音楽家やミュージシャンになろうというつもりもなかった。

大学院のころはひとり暮らしをしたり、つきあっていた彼女の部屋に住みついたりした。大学院には4年間いるつもりだったが、ある日先生に呼ばれ、「お願いだから3年で出てくれ」と懇願される。なにもしない大学院生を置いておくのは、大学にとって無駄なのだ。なんでもいいから一曲書けば修士をやると、大学院を出たのが76年、24歳のときだった。修士のための曲は、後年、芸大の先輩である黛敏郎が気に入り、テレビの『題名のない音楽会』で演奏された。



細野晴臣

大学院のころ、龍一は山下達郎と親しくなっている。山下の音楽は、日比谷の野音で聴いていたロックやブルースとはまったく違うもので驚いた。洗練され、かつ複雑なのだ。リズムもアレンジも、とくにハーモニーは、ドビュッシーなどのフランス音楽とも通じるものがある。ほとんど行っていないものの、一応芸大で何年も勉強してきたのに、ロックやポップスをやってるヤツが、どこでこんな高度なハーモニーを覚えたのか不思議に思った。山下は独学で、耳だけで習得したのだが、それらは音楽理論的にも非常に正確だった。

山下のレコーディングに参加するようになり、大瀧詠一を紹介される。大瀧の福生のスタジオで、75年から76年にかけてレコーディング。そこで細野晴臣と出会う。

細野と会って感じたのは、山下のときと似ている。細野の音楽は会う前に、はっぴいえんどやソロ・アルバムを聴いて知っていた。そしてこの人は、ドビュッシーやラヴェルのような音楽を全部分かったうえで、音楽をやっているのだろうと思っていた。しかし本人に確かめると、そんなものはほとんど知らないという。細野はハリウッドの映画音楽などから、その要素を耳で学びとっていた。フランス近代音楽は、ハリウッドに大きな影響を与えていたのだ。龍一が系統立てて勉強してきたものを、細野は感覚的に独学ですべて自分のものにしていた。

もう一人、矢野顕子も同じだった。矢野もやはり理論を全然知らなかった。しかし龍一が系統立てて掴んできた言語と、矢野が独学で得た言語とは、ほとんど同じ言葉だった。龍一はここからポップ・ミュージックというものは、相当おもしろい音楽なのだと認識するようになる。それまでポップスをさげすんでいた。

もっと知的な音楽をつくるのが偉いと思っていた。日本に500人いるかどうからからない聴衆を相手に、実験室で白衣を着て音楽を聴かせる。それが当時龍一が抱いていた現代音楽のイメージだった。誰も理解できないことを孤独にやるのもカッコイイと思っていた。しかしそれよりも、もっと多くの聴衆とコミュニケーションできるポップ・ミュージックもいい。クラシックや現代音楽と比べて、レベルか低いわけでもない。むしろレベルが高いと認識を改めた。ドビュッシーの弦楽四重奏曲もとても素晴らしいが、細野晴臣の音楽はそれに優るとも劣ることはない。

77年、日比谷の野音で、山下達郎に紹介されて高橋幸宏と出会った。高橋はサディスティック・ミカ・バンドのドラマーだ。ミカ・バンドのメンバーは加藤和彦はじめみんな、ファッショナブルで驚いた。高橋は上から下までKENZOを着て、スカーフを巻いている。汚い格好の龍一とは対極の人種だった。



ソロデビュー

76年から78年にかけて坂本龍一は、超売れっ子のスタジオ・ミュージシャンであった。大瀧詠一、矢沢永吉、山下達郎など、多くのアーティストのバック・キーボードピアノ奏者として、レコーディングに関わった。昼の12時から夜の12時ぐらいまで、あちこちのスタジオを駆け回ってお金をもらう毎日。たしかに収入は多かったが、使う時間すらなかった。1日5件こなしたこともある。言われるまま仕事をこなす、音楽ロボットのような日々で、龍一は疲れてやさぐれていく。カネ以外何も残らなかった。そこにレコード会社から、ソロ・アルバムをつくらないかという話が舞い込んできた。

日本コロムビアが、渡辺香津美のアルバムでの、龍一のアレンジに注目したのだ。無名なキーボーディストの、雇われ生活から足を洗うときだ。名刺がわりの音楽をつくってやろうと張り切った。スタジオ・ミュージシャンの仕事が終わった、深夜12時過ぎから朝まで、日本コロムビアの誰も使っていない小さなスタジオで、10カ月ぐらいかけてデビューアルバムを録音した。寝なくても平気だった。

そのソロデビュー作が、78年リリースのアルバム『千のナイフ』。このアルバムジャケットに写った龍一を見て、彼を知る人たちは仰天した。それまでの長い髪をバッサリ切り、ゴム草履と、いつ洗濯したかわからないジーンズの汚い龍一が、アルマーニを身にまとって現れたからだ。坂本龍一が表舞台にでた瞬間となった。26歳のときだった。

ようやくできあがったアルバムを、当時よく通っていたバーに行ってみなに聴かせたら、「これ、女の子にモテないね」と言われた。

 

 

 

 

 

坂本龍一ヒストリー 後編 

~ YMOから世界のサカモトへ  その軌跡 〜 へ続く