坂本龍一ヒストリー後編 ~ YMOから世界のサカモトへ 〜 反戦平和主義者の隠された素顔 | Kou

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音楽雑感と読書感想を主に、初老の日々に徒然に。
ブログタイトル『氷雨月のスケッチ』は、はっぴいえんどの同名曲から拝借しました。

 

 

 

坂本龍一ヒストリー 前編 

~ 幕末からのルーツ 誕生からミュージシャンの道へ その軌跡 〜 から続く

 

 

 

 

 


YMO

この時期細野晴臣は、YMOを構想していた。メンバーとして、旧知の林立夫や佐藤博に声をかけた。だがふたりとも別の仕事を始めたばかりで断られてしまう。そこで龍一と高橋幸宏を誘うことにした。龍一に注目したきっかけは大貫妙子の作品で、編曲家としての才能だった。

78年の2月のこと、龍一と高橋は細野の家に呼ばれる。炬燵の上にはミカンとおむすびが出された。細野はおもむろに「一緒にバンドをやらないか」と話しはじめた。龍一は答えた。「個人の仕事を優先しますけど、まぁ時間のあるときはやりますよ」。前述のとおり、細野をとても尊敬していたし、声をかけられたこともうれしかった。しかし不遜で突っぱっていた。バンド活動は生まれて初めての経験となる。束縛される感があり、半分逃げ腰で、個人の仕事を優先すると口走った。細野はそれでも構わないと言う。龍一と高橋はすでに毎晩のように遊ぶ親しい仲だった。かくてYMOは結成された。

YMOは雇われバンドではない。グループとはいえ、個人的な好きなこともできる。バリバリの現代音楽をやるわけにはいかないが、それでも龍一は、自分の趣向をかなり取り入れることができた。むろん自我ばかり通すわけにはいかない。龍一はバンドの経験がなかったため、試行錯誤の面があった。それでも共同作業により、フレーズや音色、リズムなどの新しいアイデアが他の2人からポンポン出てきて、おおいに刺激になった。逆に龍一からの提案も、重ね合わせていった。

しかしYMOのデビュー・アルバムは、78年11月に発売されたものの、さほど売れなかった。だがこの状況は龍一にとって居心地がよかった。ほかの仕事で生活は安定している。業界内では新しい音楽だと評価され、なにより売れないことにより、YMOに束縛されることがなかった。



ワールド・ツアー

YMOは翌79年8月、ロサンゼルスで初めての海外公演をおこなった。チューブスというロックバンドの前座だったが、これが意外に受けた。龍一はヨーロッパ音楽が好きで、アメリカやロスには偏見があったので、やや複雑ではあったが。

9月にはセカンド・アルバムがリリースされ、そして最初のワールド・ツアーが10月から始まった。まだYMOの人気は出ていない。このツアーをきっかけに、本格的に売り出していこうという算段だった。

ツアーはロンドンを皮切りにスタート。演目のなかには、龍一のソロ・アルバムから『ジ・エンド・オブ・エイジア』があったのだが、これが始まると、客席の一組のカップルが踊りだした。そのふたりがあまりにもカッコいい。カッコいいヤツが、自分の曲に合わせて踊るのをステージから眺めるのは感動ものだった。龍一は自分の進んでいる道が間違いないと感じることができた。YMOでのワールド・ツアーは、価値観の転換といっていいほど圧倒的なものとなった。

11月、ワールド・ツアーから帰国してみると、YMOは国民的スターになっていた。レコード会社の画期的な戦略が功を奏したのだ。各地の公演を同行ライターが記事に書き、日本の人気雑誌に速報として掲載されていた。帰国したときには大騒ぎとなり、テクノ・ポップのYMOは社会現象にまでなった。



YMOの憂鬱

しかし、龍一にとってこれは苦痛の始まりだった。それまで目立つことを避けて生きてきたのに、一気に人気スターになってしまった。これは耐えがたい。龍一はのちにもテレビや映画などの仕事に身を投じているが、本来は内面的でシャイなのだ。道を歩けば指をさされるようになり、人目をさける日々となった。クルマが横にとまり「坂本だ!」と叫ばれたときは、殺してやろうかと思った。

龍一がYMOを結成したころの精神状態について、同世代の神経科の医師松浪克文に語っている。

 

YMOというやつが始まった時期は、それまでのぼくのライフスタイルと全く変わっちゃったんです。ぼくはわりとアノニマス(匿名性)でいることが好きというか、無名性が好きなんですね。人の前へ出るのがあまり得意じゃない性格だったんです。子供のときからわりと独りでピアノを弾いていたりすれば何時間でももつような性格だったから、人の前に立つというのがいやで、たとえでよくあるのが、ある他人が自分の名前を呼んだりという幻聴が一般的によくありますね。そうすると、街を歩いていて、あ、坂本だとか言われるのが非常に恐ろしい、幻聴に近いようなことが現実に起こってしまって、急激に変化が起こって混乱したんです。

 

 

おまけに父一亀の不興も買った。YMOのジャケットに写る龍一の化粧姿に「なんで音楽で勝負せんか。俺はおまえをピエロにするために芸大に入れたわけじゃない!」と烈火のごとく怒った。ステージ上の、髪を金色に染めた息子を見たときも激高し、公演を見ずに帰ってしまったこともある。

80年2月にはツアーのライブ・アルバム『公的抑圧/パブリック・プレッシャー』が出たが、このタイトルはまさに、当時の龍一の心境そのもののである。状況への憎悪はYMOへの憎しみにつながる。YMO内では自分の音楽ができない不自由さが、ブームというストレスと結びつき増幅された。

こうした状況下に龍一は、2枚目のソロ・アルバム『B‐2ユニット』をつくる。数か月間、ほとんど誰とも会わずにレコーディングした。YMOをいわば仮想敵にした、アンチYMOのアルバムとした。細野も高橋もこのアルバムについて何も言わなかった。龍一も聴かせることはなかった。

そのかわり、81年3月に出た、YMOの3枚目のアルバム『BGM』では、『キュー』という曲に龍一は参加させてもらえなかった。細野と高橋だけでその曲はつくられた。ふたりの仕返しだと龍一は感じた。3人の音楽性の違いも顕著になる。おまけにこの時期、細野が宗教に関心をもちだし、神秘主義や神道を音楽に採り入れだしている。細野を音楽家としては尊敬しているが、ついていけなくなった。

3人ともが、急激にYMOが売れてしまったことへの違和感を持っていた。そのためBGMでは、ポピュラリティーを得たYMOの音楽とは違う方向の、ダークなアルバムをつくることで、この点は意思が一致する。成功したいと願って始めたYMOだから、売れた方向を続けるのが常道だ。しかしその真逆を行った。案の定BGMは売れなかった。前のアルバムは100万枚以上売れたが、BGMは30万枚だった。



散開

それでも3人はセールスにはまったく頓着せず、もっと実験的なことをやろうと、すぐに次作をつくりはじめる。確執は、おたがいが言いたいことを吐きだし、和解することができた。3人の力がいい形で重なりあい、120点のアルバムができた。龍一は、それまで抑えていた現代音楽のエッセンスも使い、工場音や人間の体が出す音なども取り込んだ。民族音楽的要素も目立つ。それがYMOの形式にうまく収まった。

こうして81年の11月、『テクノデリック』というアルバムができあがる。龍一にとっては最も好きなYMOのアルバムとなった。全員が達成感を得ることができ、YMOは解散に向かうことになる。

82年はYMOとしての活動を休止し、龍一は映画『戦場のメリークリスマス』を手がけ始めたり、忌野清志郎との『い・け・な・いルージュマジック』ではオリコン1位をとった。休止が明けたYMOの83年は、歌謡曲の路線に転じた。この『浮気なぼくら』は、前作までの実験的な路線から、ポップフィールドに回帰した作品となった。カネボウ化粧品のCMに使用されたシングル・カット『君に、胸キュン。』は大きなヒットとなった。

テクノデリックの時点で解散してもよかったが、最後に1年間、大きな花火を打ち上げてから散ろうという狙いは当たった。明るい作品で散開(解散)することができた。



戦場のメリークリスマス

82年の龍一は、大島監督の『戦場のメリークリスマス』という、映画の仕事を初めておこなった。キャスティングの段階で、その候補に挙がっているとの話は聞いていた。龍一は高校大学時代、大島の映画をほとんど観ていた大ファンだ。しかしまさか選ばれるとは思わなかった。実際下馬評では、沢田研二が有力だった。

そこへ突然、大島から電話がかかってきた。会いたいという。当日、龍一はそわそわしながら待機した。約束の時間近くに窓から外を覗くと、監督がひとりで歩いて来る。憧れの人との対面に龍一は緊張した。そして大島は会うなり「映画に出てくれませんか」と切り出した。

龍一はふたつ返事で受ければいいものを大胆にも、「音楽もやらせてください」と口走ってしまう。映画音楽なぞ、やったことも、やろうとも思ってもいなかった。その場の単なる思いつきだった。ねじれた性格だった。尊敬する細野からYMOへの参加を要請されたときと同じく、素直に「はい」とは言えなかった。

しかし大島は即座に了承してくれた。俳優も映画音楽も素人の龍一が、両方を一度にやるとはあまりにも無謀な話だ。だが大島は受け入れてくれた。この間わずか2分ほどが、YMOと同様、龍一の人生を大きく変えたやり取りとなった。デビット・ボウイの出演はすでに決まっていたから、そのファンや世界中の音楽業界関係者は必ず観る。俳優としての評価はどうでもよかった。音楽家として広く打って出る、格好のチャンスだった。実際、龍一の名はさらに世間に認識されることになる。

だがこのとき龍一は、役作りという言葉すら知らなかった。セリフを覚える必要もあとで知り、焦った。長い英語は必死で覚えた。しかし「素人だから演技について監督が怒ったら、すぐに帰らせてもらいます」と事前に伝えていた。大島は龍一に言いたいことも言えなかった。

戦場のメリークリスマスは83年のカンヌ映画祭に出品され、龍一は当地でベルナルド・ベルトルッチ監督と出会う。「中国最後の皇帝の映画をつくろうと思っている」との話を聞いた龍一は、監督と仕事をしてみたいと思った。しかしその夢が実現するとも思わなかった。



YMOの頃

龍一が初めてメディアの番組をもったのは、81年に始めたNHK-FMの『サウンドストリート』だった。自分のペースで朴訥にしゃべっていたら、雑誌の人気ランキングで、FM番組でのワースト1に選ばれてしまう。素人の音楽作品を紹介するコーナーがあり、応募してきた槇原敬之の曲のクオリティの高さには舌を巻いた。

矢野顕子とは82年の2月に再婚した。その数年前から一緒に暮らし、80年には娘の美雨も生まれている。矢野も再婚だった。矢野誠という、たいへん才能のあるミュージシャンと結婚していた。ただ龍一に負けず劣らず、ユニークな人だった。龍一はその変人と暮らしている、矢野顕子という人を救い出したいと思った。手の届かないような才能をもつ彼女を、人としても、音楽家としても守らなければいけないと、本気でそう思い結婚した。決して簡単な選択ではなかったが、龍一は、大事なときに困難な道を選ぶ癖があると自己を分析する。

YMOの時代は、いろいろなジャンルの人と交流をもった。大森荘蔵や吉本隆明と本を出したり、浅田彰、中沢新一、柄谷行人、中上健次、村上龍、糸井重里、川崎徹など多くの文化人と、仕事と関係なくつきあい遊んだ。そのため週に6日は徹夜で過ごし、好奇心旺盛で貪欲で活動的な日々をおくった。タフな龍一についてゆけず、マネージャーや付き人は頻繁に交代した。事務所ではスタッフが「龍一にトリカブトを盛って弱らせよう」と真剣にささやいた。ハードな月日は渡米する90年、38歳のころまで続いた。



ラストエンペラー

映画『ラストエンペラー』の依頼が来たのには驚いた。カンヌでベルトルッチ監督に会ってから3年も経っていた。それも音楽ではなく、日本人将校の役としてであった。

撮影のため龍一は、中国に飛んだ。北京にはじまり、大連、長春と移動しながら撮影は進められた。監督から厳しい演技指導を受けながら、一方、ステレオタイプの日本人像に反発し翻意させたり、龍一は慣れぬ映画撮影に奮闘した。あるとき突然ベルトルッチが、戴冠式のシーンに生の音楽を入れると言い出した。そして龍一にその作曲を命じた。

龍一は役者として参加していた。音楽をつくるとは思ってもいなかった。民族音楽には興味はあったが、中国音楽だけは嫌いで、聴いたこともなかった。急遽ピアノが運ばれてきたものの、調律が狂っていた。しかたなく頭で音を想像しながらつくった。結果として、けっしてうまくない地元の楽団の演奏もかえって現実感が増し、龍一としては満足いくものができた。

撮影が終わって半年もたった後、ロンドンにいるプロデューサーから電話があり、ラストエンペラー自体の音楽もやってくれと言う。しかも時間は2週間しかないと言う。とんでもない依頼に驚きながらも龍一は、中国音楽をにわか勉強するためレコード店に走り、次に東京近郊の中国人演奏家を捜し、曲を書き録音しデモテープをつくる。毎日ほとんど徹夜の作業となった。

ネットのない時代、できあがったデモ録音をロンドンに送るため、NHKとBBCの衛星回線を使わせてもらった。聴いた感想をフィードバックして手直し、録音し直す。そうしてできあがった44曲を持って、正式な録音をするためロンドンへ飛んだ。

しかし現地に着いてみると、龍一の頭にあった映画の内容がすっかり変わっていた。監督がまったく違う映画に編集し直していた。あったシーンがなく、順番が入れ替わり無茶苦茶になっている。しかも翌日には、最初の録音することになっている。龍一はホテルの、ピアノもなにもない部屋で、「何秒減ったから、何小節と何拍」と必死で電卓を叩いた。そして昼間は録音、夜は書き直し作業、これを連日連夜繰り返した。

結局ラストエンペラーの音楽は、東京で1週間、ロンドンで1週間という地獄のようなスケジュールで書き上げ、録音したものとなった。このあと龍一は過労で入院した。ベルトルッチはその後も編集作業を続け、映画全体ができあがったのは、さらに半年ほど後だった。

そして試写の日、完成した映画を観て龍一は、椅子から転げ落ちるほど驚いた。自分の書いた音楽はズタズタにされ、苦労してつくった44曲のうち、使われていたのは半分ほどしかなかった。心血を注いだ音楽は、あっさりボツになっていた。使われた曲も、ほかのシーンに変えられていた。そもそも映画自体が違うものになっていた。怒りやら失望やら驚きやらで、心臓が止まるのではないかと思った。以来龍一は、試写会にはあまり行っていない。

数か月後、ラストエンペラーが、アカデミー賞にノミネートされたとの連絡が入った。ロサンゼルスに飛び、ふたを開けてみれば、9部門を独占するという快挙となった。龍一も作曲賞を受賞した。しかし喜びのスピーチは、「ベルトルッチ監督はじめ、映画に関わったみんなに感謝します」と口走っただけ。頭のなかが真っ白となり、それもブロークンな英語でしゃべってしまった。龍一一生の不覚となった。



ラストエンペラーの頃

映画音楽の仕事は後にも、数多くやった。自由につくれるソロ・アルバムに比べると、映画では好き勝手にはできない。しかし龍一は制約や条件があるほうが、いい仕事ができるようだと自己分析する。まったく触れることのなかった中国音楽しかり、外的要因で結果としていいものができた。YMOも然り。グループとして活動するため、自分にない音楽をつくることができた。

7枚目のソロ・アルバム『ネオ・ジオ』をリリースしたのは、ラストエンペラーが公開された年だった。民族音楽色の強いアルバムで、バリ島や沖縄の音楽を採りいれた。民族が長い時間をかけて培ってきた音楽は、どんな大天才もかなわない。モーツァルトもドビュッシーも、共同体の音楽には絶対勝てないと龍一は考えている。沖縄の民謡も、ポップスの土俵に乗せることができた。89年の『ビューティ』にも、沖縄音楽を入れたが、このアルバムの一番の狙いは、機械でつくったリズムを入れないことだった。YMOによりテクノの音が急速に普及し、あまのじゃくな龍一はその風潮に反発をおぼえたからだが、なにより民族音楽への回帰がテーマとなった。

龍一がアレンジした、沖縄民謡『安里屋ユンタ』を聴いた一亀は、「これはおまえのオリジナル音楽じゃない。何でこんなものを入れるんだ!』と激怒した。「いや、これは俺の音楽だ!」と、龍一は初めて父親に怒鳴り、取っ組みあいの大喧嘩になった。しかしあまりの父の弱さに、その老いを感じてしまった。

生田朗という、龍一と長年仕事をともにしてきた仲間がいた。音楽はむろん、楽器や機器にもくわしく、YMOのアルバムやツアーにも携わり、マネジメントなど、龍一を多岐にわたって支えていた。ラストエンペラーの仕事は、生田がいなければできなかったかもしれない。しかし88年、映画の完成のあと、休暇先のメキシコでクルマが崖から転落、亡くなってしまう。龍一が遺体を引き取りに行った。あまりのショックでそれから半年の間、龍一は立ち直れなかった。大切な人が一瞬で失われる、その不条理を感じざるを得なかった。



ニューヨークへ

アカデミー賞のあと、ハリウッドの映画会社をいくつも受賞の挨拶で回った。すると幾人ものプロデューサーたちが異口同音に、いつ引越しして来るのかと訊く。ロサンゼルスに住んで、毎週末のパーティーで関係者と交流するのが、ハリウッドの常識らしい。

龍一は80年代末、ヨーロッパやニューヨークでの仕事が多くなり、ほとんど日本に居なくなる。ニューヨークなら、スタジオやミュージシャンもよく知っている。ヨーロッパも近いから、住むのにいいかと漠然と考えるようになった。90年の春のある日、海外ツアーから帰ると、矢野顕子から「来週、引越よ」と軽く告げられる。「あ、そうなの」と、龍一はあっさり日本から離れることになった。アメリカに着いた翌日、10歳だった娘の美雨を、一番近くと思われる小学校へ連れて行き、編入手続きをした。

移住してまもなく、親しくしている作家の村上龍が、映画の仕事でニューヨークにやってきた。そして龍一に、「根無し草というか、故郷を捨てた人間の雰囲気を感じる」と言った。実際子供が居なかったら、アメリカに飽きれば、イタリアなどヨーロッパ、あるいは呼ばれればどこででも住めると龍一は思う。それでも最後は、日本語が通じるところで死にたいとも思う。できれば京都などがいい。



バルセロナ五輪

92年には、バルセロナ・オリンピック開会式の音楽の依頼があった。だが龍一はもともと、スポーツイベントというものが大嫌いだ。依頼があっても断っていた。ただこの話はとても先進的なものだ。龍一は翻意し、引き受けることにした。バルセロナはスペイン内乱の犠牲地である。すこし前まで現地語であるカタルニア語は使用が禁止されていた。しかし開会式では、いわば征服者であるスペイン国王がカタルニア語によるスピーチをおこなった。会場の人たち皆が泣いた。自らオーケストラを指揮していた龍一も感動した。

父一亀は、家族や親戚知り合いに対しても、一度も龍一を褒めることはなかった。誰かがバルセロナのことで「息子さんが、えらく有名になりましたね」と触れると、一亀は「あいつはあいつ、私は私です」とにべもなかった。




YMO再生

93年、YMOが「再生」した。3人の自発的なものではなく、周囲のお膳立てでの再結成である。まだ散開前の確執が癒えていない。龍一はむしろエゴが強くなっていた。レコーディングやミックスをニューヨークでおこなったのだが、ここは龍一のテリトリー。俺が仕切ると自分の好みを押しつけた。ふたりは当然不機嫌となる。東京ドームでのライブも険悪な雰囲気で、ほとんど目も合わせなかった。ファンにはいい迷惑となった。

97年、一亀が急性の病で入院した。龍一は父のため、透析をする3時間ほどの間、ひとりで聴くための音楽をつくった。「きれいな音だ」と父はつぶやいた。

ソロ・アルバムは『ハートビート』に続き、『スウィート・リヴェンジ』、そして『スムーチー』をつくった。これらの作品は、龍一としては最高にポップなものに仕上げたつもりだ。しかし世間には受け入れられなかった。レコード会社にも散々に言われ、龍一はあれこれ考えても無駄だと頭にきた。それでちゃぶ台返しのように「クラシックをやってやる」と、97年、オーケストラ作品『ディスコード』をつくる。結果、売り上げは変わらなかった。龍一のリスナーは、いわば固定客で、ポップスをやろうとクラシックをやろうと変わらないようだ。ところが99年の『エナジーフロー』は反響が大きかった。5分ほどでつくったピアノ曲だが、160万枚売れた。何も考えないでつくったものが一番売れてしまった。

02年頃から細野と高橋が、スケッチ・ショウというバンドを始める。龍一は自分だけ置いてきぼりだと、遠くから指をくわえて見ていた。しかし我慢できなくなり、すこしだけにじり寄る。すると向こうも察して「じゃあ曲を書いてよ」と言ってくれた。龍一は喜んで作曲し、3人の活動が再開するきっかけとなった。歳をとったせいか、長年の確執は消えていた。07年にはキリンビールのCMの話があり、08年にはロンドンやスペインで公演をおこなった。



父との別れ

02年9月、父が亡くなる。自宅近くの病院で安らかに息を引きとった。そのとき龍一はヨーロッパでのツァーの最中だった。父の死期が迫っているのはわかっていたが、結局その後も公演を続け、日本に帰ったのは1か月後のこと。葬儀は親族のみですまされていた。

一亀は60歳まで出版社につとめ、一編集者を貫いていた。晩年、なぜ新しい作家を育ててきたのかと問われ「戦後は私にとって余命だった。戦争でもう死んだという感じがあった。多くの同世代の仲間が死んで、その人達のためにも頑張らなければいけないと思い、同世代の仲間たちを育てたいと思ってきた」と語っている。

一亀のお別れの会で龍一は、父への思いを冊子に綴った。「父とはまともに話をしたことがないのが悔やまれる。創作に携わる大先輩として、聞いておきたいことは山ほどあったのだが。父は自分の思いを他人に伝えるのがへたな人だった。愛するのも、愛されるのもへたな人だった。最後までそういう人だった」

一亀は日記を残していた。龍一が生まれた日のことも綴っていた。「男子生る!何かしら微笑みを禁ずることができないのだ」「まもなく婦長に抱かれた赤児を見る。大きく、きれいなのだ!標準を突破した偉大な赤ん坊なのだ!」

無関心を装っていた一亀だったが、龍一がYMOとして活躍していたころも、出演していた番組名や雑誌をすべてチェックしていた。本人やまわりの人には悟られないように、自慢の息子を喜び、心のなかで応援していた。人に対して不器用な対応しか出来ない父だった。



『伝説の編集者坂本一亀とその時代』

『伝説の編集者 坂本一亀とその時代』という本がある。龍一が、本人が生きているうちに父のことを書いてほしいと、かつて一亀の部下だった編集者、田邊園子に依頼したものだ。自分をテーマにした本などとんでもないと、一亀は嫌がった。しかし田邊は了承を得ぬまま書き上げる。原稿を届けると、努力を無にはできないと、一亀は出版を了承した。ただし自分が亡くなってからを条件とし、8年後の、一亀逝去の翌年に上梓された。

 

 

 

 

 

坂本龍一ヒストリー
 

 完
 

 

 

 

以上が、『坂本龍一ヒストリー』となります。このエンディングは、最後の一節を除き、NHKのファミリーヒストリーと同じ構成となっています。番組では効果的な音楽とナレーションで盛り上げますが、しかし文字起こしでは、拙い文章ということもあり、尻切れトンボのようになってしまいました。これをカバーするということではないのですが、もうすこしだけ話を続けさせてもらいます。


坂本龍一は自伝『音楽は自由にする』で、自らの性格を「気が短い」としています。しかしその具体的なエピソードを明かしているわけではありません。すこしは触れてもよさそうなものなのに、若き日の黒歴史として封印したのでしょうか。ただ彼が記した他書には、自身の性格をあらわす振るまいなどが、いくつか散見されます。以下にそれを紹介させてもらいます。
 

 

まずは「軽い」エピソードからです。
 

 

僕個人としては歯科医院などでかかっているリラクゼーションミュージックやヒーリング音楽がとても不愉快でストレスが増してしまうんです。ああいう音楽は流れていると、ガッと立ち上がって、ぱっと電源を抜きに行きたくなってしまう。歯医者さんだけでなく、ヨガとかマッサージとかでもちょっと東洋的だったりする安易な音楽がかかっていると、本当に電源抜きたくなっちゃうんです。

 

 

この程度のことなら、音楽家としてむしろ当然のことなのかもしれません。レベルの低い音楽に対する不満を、正直に吐露しているだけといえます。電源を抜くまでは、普通の人なら思わないはずですが、虫の居所が悪ければ、ありうる感情でしょう。

最近、これに類するニュースがネットにあがりました。坂本龍一が、ニューヨークのレストランで使われているBGMプレイリストを、自ら申し出て編集し直したというのです。その店は彼のお気に入りであり、よく利用しているのですが、坂本はある日、「BGMは誰がこれを選んでいるの? このひどい寄せ集めのミックスは誰の決定なの? 私にやらせて。あなたの料理は桂離宮と同じくらい素晴らしい。だが、BGMの音楽はトランプタワーのようなものだ」と、ノーギャラでやると提案したとのことです。そこまで出しゃばるのかとは感じますが、ほほえましいエピソードといえます。


しかし、次からは笑えない話になります。2009年の『ユリイカ』という雑誌に載っていた、ミュージシャンの大貫妙子が綴った一文です。彼女は坂本龍一とほぼ同年代の、音楽的な関係がきわめて深い間柄です。その親密さゆえでしょうか、他の人なら活字にできないような、龍一の若き日の人となりを、遠慮なく綴っています。
 

 

(二十代のころの)坂本さんはいつも何かを破壊したいという空気を纏っていて、それが内に向かう時もあれば、外に向いて噴火することも度々あった。レコーディング中であれ、コンサートのリハーサル中であれ、怒りが爆発すると、近くの物がすごい勢いで空中を飛んでいた。

 

 

 

同様の話を続けます。坂本龍一は自伝を出した3年後、2012年2月の月刊『文藝春秋』に寄稿しています。『坂本龍一60歳 還暦の悦楽』と題されたものですが、雑誌という気安さなのか、自伝という呪縛がないせいか、自身のかつての姿をこう語っています。
 

 

若いころの私は体力も自信も溢れんばかり。生意気で唯我独尊、傍若無人で傲岸不遜。今の私が会ったら「貴様、いい加減にしろ!」と、まず一発ぶん殴ってやりたいくらいの人間でした。

YMOで大ブレイクして、三十歳代半ばまでは、まさに人生の絶頂期。遅刻やすっぽかしもしょっちゅうでしたし、運転手が気に入らないとすぐに殴ったり蹴ったり、今思えばとんでもないことですし、私の理不尽な暴行に耐え切れず辞めていった運転手の人たちには申し訳ないと思っています。子供の頃、体格がよかったこともあって、力ずくで意思を通すことをあまりためらわない性格に育っていたんです。

 


衝撃の告白といっていいのかもしれません。運転手への暴力は、昨年大きな話題となった、あの女性代議士を想起させます。いやそれ以上の暴挙であり、ここまでくると立派な傷害事件です。短気がどうこうの話ではありません。さきの大貫妙子の話は音楽関係の現場ですから、ミュージシャン仲間やその他の関係者が同様の仕打ち、あるいは精神的なダメージを受けたと思われます。その犠牲になった人たちは、何人いるのでしょうか。彼ら彼女らは、世界のサカモトと称されるようになった坂本に、きっと複雑な思いを抱いていることでしょう。


最後に、坂本龍一の娘である、坂本美雨の手記も紹介させてもらいます。雑誌『婦人公論』2018年7月24日号に載った、『虐待の連鎖を断ち切るため、母になった私にできること』と題された一文です。これは、現在社会問題となっている、子への虐待に関するものです。ミュージシャンである美雨は結婚し、3歳の女児を育てているのですが、彼女はこの手記で、子育てにおける悩みを率直に明かしています。そして副題が『父坂本龍一との幼き日々の記憶』とあるように、自身の幼少期の体験も併せて綴っています。
 

 

今とは違って、かつては親の体罰も普通にあったように思います。私の父親(ミュージシャンの坂本龍一さん)も昔はとても激しい人で、時には怒りに任せて手が出ることもありました。私か悪いことをしたから叱っていたのか、父自身のイライラをぶつけていたのかわからない時もあり、そういう時は、ただただ父の威圧感に怯えていたような気がします。その時に感じた怖さは今でも心に残っていて、娘を叱る際に「今の私、あの時のお父さんみたい」とハッとすることも。言葉遣いもひどくなるので、夫から「その言い方はよくないよ」とたしなめられることがよくあります。

もちろん自分でも自覚はあって、そのたびに「これは私自身がされたことじゃないか」と反省するのですが、無意識に出てしまうためコントロールが難しいのですね。虐待する人について、「その人自身が親に同じことをされていたという連鎖的な側面もあるのでは?」と考えてしまうのはそんな時です。

その後の父ですか? 大人になってから抗議したら、「ごめんね、えへへ」と言われました。軽かったです。(笑)

 


美雨は1980年の生まれですから、坂本龍一から体罰を受けていた時期は、80年代ということになるのでしょう。ならばYMOや戦場のメリークリスマス、あるいはラストエンペラーの制作年代ということになります。上の拙文でも触れましたが、坂本龍一はYMOのころ、こころが病んでいました。のちの映画の世界も過酷な闘いの日々であったことは、容易に想像できます。日々襲いかかるストレスを、家庭にも持ち込んでいたということになります。

しかし龍一本人が認めているように、そもそもこの暴力的な性格は、子供のころに形成されました。この大きな要因は、やはり父一亀だった。父からの血脈と、父から受けた幼きころからの仕打ちが、龍一の人格形成に大きな影響を及ぼしてしまったのでしょう。美雨の、「その人自身が親に同じことをされていたという連鎖的な側面もあるのでは?」という言葉には、自分と父との関係性だけでなく、父と祖父のそれも含まれていることになります。


じつは自分(ブログ筆者)は、この龍一の過激な性格を、当ブログの本文をあらかた書き終えてから知りました。衝撃の一文であり、とくに運転手のくだりには唖然としました。くりかえしますが、自伝で坂本龍一は自らの性格を「気が短い」としているだけです。参考までにと、補足資料として図書館から借りてきたこの文藝春秋をもっと早くに読んでいたら、拙文を書くモチベーションは消えてしまっていたかもしれません。

坂本龍一は、たとえば安保法制反対などで弁舌をふるうなど、反戦平和主義者としても知られています。自分には政治的な難しいことはよくわかりませんし、主義主張に対しとやかく言うつもりもありません。しかし平和を望むのであるならば、まずは「隗より始めよ」です。自らの日常の周囲の人々に対して、まずは「平和」であるべきです。暴力的な反戦平和主義者など、語義矛盾そのものです。ご本人は過去の自分に反省しきりのようですが、心に傷を負い坂本から去っていった人々に思いを致すと、やはり同情を禁じ得ません。娘のように、その後反駁の機会はなかったわけですから。


なにか暗い話になってしまいました。気分を変えてというのも何ですが、ブログ筆者自身が若かったころの、バカ話をさせてもらいます。

四十年ほども前のこと、レコード店で、なにかいいアルバムはないかと、棚を漁っていたときのことです。坂本龍一の初のソロ・アルバム『千のナイフ』が目にとまりました。坂本はその前月に発売された、南佳孝のアルバム『サウス・オブ・ザ・ボーダー』でアレンジを担当していました。自分は洒落たそのサウンドがとても気に入り、毎日のように聴いていました。しかしレコード店で突然知ったアルバムの中身はわかりません。当時は試聴もできません。乏しい小遣いながら、えいやっ、と衝動買いしてしまいました。

2017年、坂本龍一著『龍一語彙』が出ました。ここにそのアルバムについて触れた個所があります。セールスとしては、わずか200枚しか売れなかったそうです。彼のデビュー作ですから、その多くの親類縁者・友人・知人などがこぞって買い求めたはずなのに、それらを含めても200枚しか売れなかった。ならば坂本龍一とは無縁な人たち、つまり一般の人たちが買った実質的な売り上げ枚数は、ごくわずかだったはずです。図らずも自分は、「世界のサカモト」を最初に認めたひとりということになります。

 

ちょっとした自慢です。一方で坂本の性格を難じておいて自慢するとはそれこそ矛盾甚だしいことです。お笑いください。

 

 

最後までお読みいただきありがとうございました。