いまは亡き司馬遼太郎は、国民的作家といわれています。
自分も若いころ、よく読みました。
実家の本棚には、黄ばんでしまった文庫本がずらりと並んでいます。
この時間を勉強に割いていたら・・・
いかに熱中していたか、われながらすこし呆れます。
なかでも一番好きなのは、幕末の軍師大村益次郎を主人公に描いた『花神』です。
『竜馬がゆく』のような派手さはない、地味な作品なのですが、ある意味とても痛快な物語なのです。
磯田道史も、司馬文学の筆頭に挙げています。
このことをつい最近知り、いまもっとも有名な歴史学者と好みが一致したことが、とてもうれしい。
近いうちに、再読しようと思います。
さて今日は、司馬の小説ではなく、歴史紀行文の話をさせてもらいます。
『街道をゆく』というシリーズ本なのですが、司馬は日本をはじめ世界各国も旅し、歴史や地理、人物など、例によってその該博な知識を披露しています。
第16冊目のタイトルは、『叡山の諸道』です。
日本仏教の総本山ともいうべき、比叡山にある天台寺院、あるいは最澄、円仁ら、高僧のお話といっていいでしょう。
司馬はその独特の語り口で縦横に語っています。
でもここで紹介させてもらうのは、そんな高尚な話ではありません。
この本の中にある、ちょっとしたエピソードです。
あの司馬遼太郎の、「うっかり失敗談」です。
本書によると、比叡山延暦寺では四年に一度、法華大会という、僧侶を対象とした内部行事があるらしい。
司馬は部外者ながら、この会に立ち会わせてもらえることになりました。
延暦寺というのは、平安京守護のため創建されたゆえ、京都のイメージが強いようですが、山容の半分を占める滋賀県大津市が、現在の住所地となっています。
行事の日を前に、司馬ら『街道をゆく』関係者の一行は、大津の町々をクルマで巡ることになりました。
では本書冒頭の、車中シーンから引用させてもらいます。
一行のメンバーとしては、司馬のほかに編集者のH、そして『街道をゆく』の挿絵を描いている、洋画家の須田剋太がいます。
「坂本に古いそばやさんがありましたな」
私は助手席の編集部のHさんに声をかけた。
以前、越中五箇山を北に越えて富山市に入ったとき、旧知のSさんらに、土地で評判のいいそばやさんに案内してもらった。たしかにうまかった。
Sさんが、お茶の水の女高師のころ、食糧難のために生徒たちが学校の畑を耕してそばを作ったという話をされた。
そのときこの店の主人は叡山のふもとの坂本の日吉大社の脇の何とかやというそばやさんで修業した、という話をされた。
須田画伯もHさんも、一緒にきいたはずである。「鶴喜でしょう」
記憶のいい須田画伯がいった。
画伯は、風景にしろ地理にしろ、また詩文にしろ、刻印を打ちこむように憶えてしまう。
このときも電話帳を繰って確かめたほどに安心した。
「いや、私は行ったことがあるんです」
要するに画伯にとって坂本という寺院と社家のまちは曾遊の地であった。
ともかくも画伯を先導者にすることにした。
どうやら司馬らの一行は、以前富山での取材のおりに、おいしいそばを食したようです。
そしてその店の主人は、かつて大津市の坂本にある、『鶴喜』というそば店で修行していたということです。
須田画伯は、鶴喜に行ったことがあるという。
坂本の地は、乗っているクルマですぐの距離です。
つまり上のやりとりは、司馬の希望により、鶴喜でおいしいそばをとることになったということです。
目的のそば店の前に着きました。
ここからが肝心のシーンとなります。
その中央をなす大路が、大鳥居前の「作道」である。
「作道」の北側の枝わかれする角に、そばやがあった。二階建の古い家屋で、格子が拭き減りして角がまるくなっている。
麻ののれんがかかり、諸事由緒めいてみえる。
なかへ入ると、どこか街道ぞいの商いのにおいがあり、やや雑然としているのもわるくはない。
ただ、人がいなかった。
しばらくして奥から女性の物憂そうな返事があって、意外にも瞼に青い陰翳を施したきれいな娘さんがあらわれた。
注文したあと、この界隈のことをききたいと思い、
「お年寄りはおられますか」ときくと、「いません」という。接穂をうしない、ここは鶴喜ですか、とわかりきったことをきくと、
「ちがいます」
おそらく似たようなあわて者がとびこむことが多いらしく、彼女は石でものみこんだように不快げな表情をけなげにも維持していた。客商売でないなら、彼女は私どもをどなって追いかえしてもいいところだろう。
こちらは恐縮してしまい、ともかくも出されたものを食った。
外へ出ると、「日吉そば」とある。
何度みても姿のいい店である。
角であるだけに車までときに軒下に車輪をかけるのか、路上に大きな自然石が置かれていてそのふせぎにされている。
ところが、この「日吉そば」の横に「鶴喜そば」というマンガ入りの彩色の大看板があがっていて、われわれはそれを視覚に入れつつ、つい鶴喜と信じて日吉そばに入ったらしい。
まことに日吉そばに対して失礼なことをしてしまった。
右の「鶴喜そば」という絵入り看板も、じつはそばやの所在を示すものでなく、駐車場だけであり、駐車場の看板なのである。
これは日吉そばにとってかなしいことにちがいない。この看板につられて日吉そばに入ってくるうかつ者も多いにちがいなく、ときに注文せずに出てゆく者もあるはずである。
娘さんには、客の顔をみて、(こいつは鶴喜と間違えているな)と、かんでわかるのに相違ない。彼女はおそらくわれわれを最初からそう見て精一杯の仏頂面をしてみせていたのであろう。
軒下の大石とおなじで、それが当然の防衛姿勢であるといっていい。
しかしたれが悪いわけでもない。強いてよくないといえば日吉そばの隣りの「本家・鶴喜そば・駐車場」という派手すぎる看板だが、これも駐車場として営業上の行為であるといわれればそのとおりなのである。
鶴喜は、有名らしい。それが権威になっている。
老舗にとって権威は商売上のはりになるが、客であるわれわれの側にとっては、日吉そばを食べながらこれは権威あるそばではない、と思うとすればじつによろしくない。
娘さんは、そういう人間現象のあさましさをしばしば見て、世の中がいやになっているかもしれず、そうとすれば彼女は唯一の被害者である。
天台(叡山)では観ということをやかましくいう。
止観ともいう。日没ばかりを観たり、あるいは流水や屍体ばかりを観て三諦の妙理を悟ろうとする。
娘さんも、そういう止観をする場にやむなく立たされているようでもある。
お読みいただいたとおりです。
司馬遼太郎らは目的の鶴喜そばではない、『日吉そば』という、ちがう店にうっかり入ってしまったのです。
まちがいの原因は、駐車場の看板にありました。
ただ文面だけでは、ふたつの店の位置関係は不明です。
そこで我ながらおせっかい、かつ、ご苦労な話なのですが、先日その坂本に行き、以下の動画を撮ってきました。
本書は四十年も前の話なのですが、当時もいまも両店はそのままの位置にあり、とても繫盛しています。
動画をご覧いただく前に、映像の推移を説明させてもらいます。
(1)まず鳥居が映りますが、これは日吉大社のものです。
(2)画面が左に移ると、日吉そばがあらわれます。
(3)次に日吉そばの左に道が見えてきます。これが作道といい、この道の奥、日吉そばの並びのむこうに、同じような古い家屋があるのがおわかりになるでしょうか。それが鶴喜そばです。
(4)そして最後に映るのが、鶴喜そばの駐車場となります。
道をはさんで鶴喜の駐車場と日吉そばが並び、すこし離れたところに鶴喜そばがある、そういう位置関係です。司馬らがまちがってしまったことも、仕方がないと思われます。
司馬らがこの地を訪れたのは、1979年の秋だったといいます。
お気づきになったでしょうが、日吉そばの前の大きな白い看板は、司馬らが訪れたのちに立てられたはずです。
この看板が目に入らぬわけはありませんから、当時はなかったはずです。
その大きさは、日吉そばが「これでもまちがえるのか!」と、必要以上に大きくしたようにも思えます。
司馬の一文がきっかけで立てたのかもしれません。
ちなみに、日吉そばと鶴喜そば駐車場の両方を写してみました。
やはり、日吉そばと駐車場は一体化していますね。
ただし当時と異なり、左下に見える鶴喜そばの駐車場の看板は、司馬のいう「マンガ入りの彩色の大看板」から付け替えられたようで、地味な小さなものに代わっています。
司馬らはこの駐車場にクルマを止めたと思われます。
鶴喜そばは下のお店になります。
日吉そばと同じように歴史を感じさせるつくりで、多くの人が順番待ちをしています。
それにしても司馬遼太郎は何を思い、自らの失敗談を書いたのでしょうか。
引用文の最後にある、「止観」について述べたかったのでしょうか
書く、その材料にしたかったのでしょうか。
自分は止観という言葉を、ここではじめて知りました。
初見のときは読みとばし、今回調べて意味を知りました。
一切の妄念を止め、正しい知恵で対象を観察すること。天台宗の中心的修行法。
なにやらむずかしい言葉です。
凡人としては、深入りするのはやめておきます。
それよりも気になるのは、司馬による、娘さんの描写です。
娘さんが鶴喜とまちがう客に対し、不愛想な態度をとることに司馬は理解を示しています。
つまり、誤解のもとである駐車場の看板や、権威に弱い人間が悪いのであって、娘さんに罪はなく、むしろ唯一の被害者としています。
しかし本に書かれたこと自体を、娘さんはどう思ったでしょうか。
それが案ぜられるのです。
なにしろ司馬は国民的作家なのです。
『街道をゆく』シリーズもよく売れたと思われます。
シリーズは25年ものあいだ、絶筆となるまで43冊にも及び、
小説と同様、相当多くの人に読まれたはずです。
そのような本に、
娘さんがどこの誰かわからないように書かれているなら、むろん問題はありません。
しかし店の名前を明かされ、無愛想な娘として登場させられているのです。
その点が、とても気の毒に思うのです。
仏教的諦観で免責されるのだと、司馬は不愛想な娘さんを容認しています。
しかしこれを理解する読者がどれほどいるでしょう。
不遜な接客態度だけが勝手にひとり歩きしてしまう危険性を、やはり配慮すべきだったと思うのです。
自分が娘さんの立場だとしたら、耐えがたきことだと思うのです。
この一点を言いたくて、拙稿を書いたということです。
さて司馬らは、鶴喜そばには行かなかったのでしょうか。
さすがにそば屋のハシゴはできません。
本書の最後に、鶴喜は登場してきました。
延暦寺での法華大会を終え、後日坂本の町におりてきた一行は、取材の解散式をするため、鶴喜に立ち寄ったようです。
ただそのシーンは、
「そばをさかなにビールをのんだ」と、簡単に記されていただけでした。
本書冒頭、それなりに紙幅を費やした鶴喜について、触れていないに等しい扱いです。
もっとなにか言及があってもよさそうに感じます。
これは娘さんの気持ちにこだわる、自分だけの思いなのでしょうか。
やはり止観について述べたいがための、鶴喜そばだったのでしょうか。
日吉そばの憂鬱
了
ブログ後記
じつは自分(ブログ筆者)は、日吉そばを営む家人を知っています。
といっても親しいわけではありません。
日吉そばの娘さんを、一度クルマで家まで送っていったことがある。
ただそれだけのことです。
ただし娘さんといっても、司馬が書いた「娘さん」という意味ではありません。
日吉そばの家に生まれた「お嬢さん」という意味です。
便宜上、「彼女」と言わせてもらいますが、
彼女をクルマで送ったのは、もう二十年以上も前のことです。
以前から知り合いでしたが、その家業を知ったのは、そのときが初めてでした。
車中で、生家が日吉そばだと話してくれました。
自分はそのとき、『叡山の諸道』を読んでいませんでした。
すでに出版はされていたのですが、司馬を読んでいたのは若いころだけだったのです。
もし読んでいたら、ハンドルを握りながら、きっと彼女を質問攻めにしていたことでしょう。
彼女は明るい性格の、とても気持ちのいい人です。
おまけに美人です。
三十分ほどの車中でいろいろ話しましたが、とても楽しかったことを覚えています。
それから十余年がたち、司馬のこの話をネットで知りました。
なにかの偶然で、情報に行きついたのだと思います。
驚きました。
そして遅ればせながら『叡山の諸道』を買い、読んだということです。
そこで気になったのが、もしかしたら彼女は、あの娘さんかもしれないということです。
なにしろ家業です。
店の手伝いをしていたのかもしれません。
司馬は、「意外にも瞼に青い陰翳を施したきれいな娘さんがあらわれた」としています。
(「意外にも」というのも失礼な話ですが・・・)
司馬らが坂本を訪れた年と彼女の年齢を較べれば、彼女は、世代的にも容姿的にも符合するのです。
ですが、ふたりが同一人だとするわけではありません。
彼女の姉妹かもしれませんし、従業員とも考えられる。
結局のところ、本当のことはなにもわかりません。
もしそんなに「真実」を知りたいのなら、はやい話が日吉そばに行って、彼女がいるかどうか確かめればいい。
そこで思いきって、さきほどのビデオの撮影の際に立ち寄ってみました。
11月の半ば、妻とふたりでそばをいただいたのです。
ですが、彼女はいませんでした。
むろん、実家を手伝っているのかどうかわからずに行ったのですが。
お店には六十代後半でしょうか、女性がひとりいるだけで、てきぱきと客をさばいていました。
きれいな方だったので、もしかしたら、彼女のお姉さんなのかもしれません。
あるいはこの方が、司馬が書いた、あの娘さんなのかもしれない。
でも、ひとりでいそがしく立ち回るその方に、四十年前の微妙なことなぞ訊けませんでした。
店を出て、木々が色づいた日吉大社へお参りしたのですが、司馬らが訪れたのも秋でした。
すこし冷たい秋風を感じながら、紅葉を愛でるうちに、また春に訪れようと妻と語りました。
京都とちがい、混雑していないのもいい。
桜が咲くころまた、この参道を散策してみよう。
そして彼女に会えたなら、司馬の話が訊けるでしょう。
きっと日吉そばの客のなかには、遠慮なしに尋ねている人も多いはずです。
自分にはできなかったということだけです。
でも彼女が相手なら、尋ねられそうです。
彼女なら、あっけらかんと笑いながら話してくれるはずです。
後日談を聞かせてくれ、自分の、あの娘さんへの杞憂なぞ吹き飛ばしてくれるかもしれません。
いつの日かの、楽しみにしておきたいと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。



