足尾鉱毒事件自由討論会 -26ページ目

花村校長のあきれた個人崇拝⑤

田中正造の研究者の中では、古河市兵衛を高く評価している点で花村校長は特異な人で、市兵衛のことを次のように誉めています。


「古河市兵衛は、生涯を反公害闘争に捧げた田中正造に遜色のない、明治期を代表する大人物であった。」
「激動の明治期、徒手空拳、裸一貫から一代にして古河コンツェルンをつくりあげた市兵衛は、明治きっての大実業家である。」


ところが、彼はまたこの自説を、次のように完全に覆して恥じないのです。


「市兵衛は、無学であるがゆえに、足尾銅山の莫大な利益を優先し、何の鉱毒防止対策も講ずることなく、多大の鉱毒惨禍を招いたのである。」
「幼少期での苦難の体験が、市兵衛をして知と情のアンバランスをもたらし、金銭に異常に執着する人格を形成せしめたと思われる。」
「生涯を通して人間への不信感を持ち続けた、金銭万能主義者の市兵衛は、<ものいわぬ鉱石>のほうが、平気でうそをつき、人を裏切っても恬として恥じない人間よりも信用でき、愛着をおぼえたのではなかろうか。」


花村校長は、「市兵衛は予防工事のために、国家予算から勘案すると今日の8000億円に相当する巨費を投じた。」と自分で書いたことを、すっかり忘れているようです。その上で彼は、次のような心理分析までするのですから、驚くほかありません。


「とすれば、生涯をワンマンで通した市兵衛は<孤独の人>であり<淋しい人>だったといわざるを得ない。」


そして最後に正造をこう称えるのです。


「対する正造は、<愛の人>であり、自他ともに認める<可愛い人>であった。」


大企業の経営者であった市兵衛が、何千人という従業員に尊敬され、明治十二傑に選ばれ、五人の子供がいたのに反し、正造は妻ともずっと離れて暮らし、子供はおらず、反公害闘争の仲間だった農民からも見捨てられ、ついには一人で谷中村に行かざるを得ませんでした。いったいどちらが<孤独の人>だったのか。考えればすぐ分かることです。


ところで、「自他ともに認める可愛い人」とありますが、正造は自分で「可愛い人」と思っていたのでしょうか。不思議なことです。



花村校長のあきれた個人崇拝④

明治36年、古河市兵衛に命じて造らせた公害防除施設の有効性を確認した明治政府は、渡良瀬川の洪水防止(治水)対策として、下流の谷中村を遊水池にする計画を立てます。


実際、この年の秋には、沿岸の田畑は豊作になりましたが、この事態に対して花村校長は、『田中正造の終わりなき戦い』(1998年)にこう書いています。


「激甚被害地が大豊作となったことは、鉱毒被害農民の意識を大きく変化させた。農民は本来、自己の耕作田畑に対して異常ともいえる執着心を持つものであり、守旧意識が強いのである。」


「農民たちは、自分たちの田畑が大豊作となったことで大いに満足し、渡良瀬川の大改修が竣工すれば、鉱毒被害に二度と見舞われないという保守的観点から、政府が推進する治水事業に賛成し、多数の農民の生存権が抹殺されること(谷中村廃村)に同情を寄せたものの、なんらの支援活動を行うことなく、それを見殺しにしたのである。」


花村校長は、農民は意識が低く保守的で、谷中村の農民を見殺しにしたと批判していますが、農民が農地に執着するのも、他人よりも自分の利益を優先するのも当然の理ですから、この批判は全くの的外れです。この偏見の原因は田中正造を絶対視していることにあります。


鉱毒の被害者は農民ですから、主役は農民であり、彼らの行動を理解することが大切なのに、花村校長は、脇役でしかない一人の政治家の言動だけを基準にして正邪を判断しているのです。全く主観的な歴史観だということができます。



花村校長のあきれた個人崇拝③

明治政府の命令に従って古河市兵衛が履行した鉱毒防除工事は、田中正造の直訴後に政府が設置した第2次鉱毒調査委員会により、その効果が徹底的に調査されました。

その調査結果について、花村校長は次のように書きます。


「明治36年3月3日、委員会は桂首相宛に、<調査報告書>を提出した。ここには、<銅分の根源は、工事以前の排出物の残留分が大部分を占め、現業に起因するものは小部分に過ぎない。>と、足尾銅山を擁護する政府の方針を追認する姿勢に基づくものであった。」


つまり彼は、政府の調査は信用できないと結論付けたわけですが、なぜ、当時のトップクラスの専門家の諮問を否定できるのでしょう。
しかし、実際にこの年の秋には、被害地の田畑は豊作になりました。この事実については、彼はこう書いています。


「これは全て神仏の加護であると正造は訴え、この絶好の機会にこそ足尾銅山の鉱業を停止して、鉱毒の流出を永遠に停止し、被害地の完全復旧を図るべきであると主張した。」


さらに彼は、正造だけが正しく、被害農民も間違っているという主張を、次のように進めていくのです。


かかる悲痛かつ絶叫とも言うべき正造の主張・訴えにもかかわらず、被害民のほとんどは、この豊作が、第2次官製鉱毒調査会の報告、すなわち政府と鉱山側の主張するように、工事の実効の証左であり、鉱毒事件はほぼ解決された、という姿勢に急速に傾斜していった。」
「結果として、この年の豊作は鉱毒問題を治水問題へ転換させ、鉱毒事件を鎮静化せしめ、正造の孤立化に拍車をかけたのである。」


何千何万という被害農民が、公害防止工事の効果で自分たちの農地が復旧したと確信したのに、なぜ花村校長は彼らの判断は間違いで、被害者でない政治家の主張は正しいと、断言できるのでしょう。滅茶苦茶な理屈ではありませんか。

花村校長のあきれた個人崇拝②

田中正造にかかわる花村富士男の著書とは、以下の5冊です。
『神に最近づいた人』(1995年) 
『田中正造の終わりなき戦い』(1998年)
『我拾って天国を創らん』(2001年)
『田中正造翁伝』(2003年)
『田中正造翁の生涯』(2005年)


昭和5(1930)年生まれなので、2005年で75歳ですが、高齢ながら非常に精力的に正造の伝記に取り組んでいることがわかります。


とはいえ、どの本を見ても内容は同じようなもので、しかも正造の言動は全面的に正しく、政府や古河市兵衛は間違っているとのメッセージで一貫していて、とても人間がリアルに描かれているとはいえず、面白く読めるような伝記とはいえません。
しかも、いったいなぜ正造が正しく、なぜ政府が不正なのか。どうしてこういう結論が出るのかも、さっぱり分らないのです。


たとえば、鉱毒予防工事をやり遂げた古川市兵衛のことを、彼は次のように高く評価します。
市兵衛は、政府命令の実行に真摯かつ全力を傾注して取り組み、当時としては最大限の努力と犠牲を払って完了したのである。水俣病などの公害に対しての経営者たちの無策と比較すると、市兵衛の鉱毒予防への取り組みの真剣さが目立つといわざるを得ない。」
「全費用を合算すると約200万円の支出であった。これを当時の国家予算から勘案すると今日の約8000億円に相当する。」


ところが、上の事実から導き出される結果を、彼はデータを何も示さずに次のように書くのです。
「この事件の根本的解決策はなかったのである。その場限りの一時しのぎの予防工事であり、普通の台風による大雨にも耐えられず、依然として鉱毒のたれ流しはつづいたのであった。」
「当時の科学のレベルからは、鉱毒発生の原因を突きとめることが精一杯で、予防ないし除害のための有効・適切な施策・対策は、,鉱業の停止以外には不可能だったといえるのではないだろうか。」


鉱業停止とは閉山のことですが、公害防止には閉山しか手がないなどと、いったい誰が考えるでしょう。
花村校長は、ただ田中正造の思想が絶対的に正しいと信じているだけなのです。だから、このように現実離れしたことしか言えないのです。


同じ栃木県の教師たちが書いた『下野人物風土記』の3集、古河市兵衛の章には、「予防工事によって、鉱毒問題は解決した。」とありますが、この事実を彼はどう受け止めるつもりでしょうか。

花村校長のあきれた個人崇拝①

田中正造を猛烈といっていいほど崇拝している民間の研究者が、栃木県にいます。


出身は福岡県ですが、歴史の教師として県立足利女子高等学校に赴任して以来、同県の多くの県立高校で教鞭をとり、今市、宇都宮北、宇都宮南高校などの校長を歴任した県教育界のエリートで、同時に岩波書店の『田中正造全集』の編集に関係したことから、次々と関係論文を書き続け、これまでに田中正造の本を5冊も自費出版しているのですから、その入れ込みぶりには唖然とせざるを得ないものがあります。


その人の名は花村富士男。はっきり言ってとんでもない元校長先生です。
なんといっても吃驚したのは、平成3年に出版したシリーズの最初の本が、『神に最も近づいた人 田中正造覚書』となっていたことです。
これでは、実態からあまりにも外れているからです。


全集をパラパラめくって、正造の国会演説を見ていけばすぐに分かりますが、彼がしゃべっているその中身は、口からでまかせで事実無根の話が多く、そもそも真実味が感じられません。


実際に研究者から彼の虚言がいくつか指摘されていますし、私は彼の書簡や演説から数え切れないほどのウソを見つけました。とにかく、常にいろいろなウソを重ねていたことは間違いありません。


そもそも、普通の人間なら何らかの労働をして生活費を稼ぐのに、彼は働かないので収入がなく、それが当たり前のごとく、生活費も活動費も金持ちの親戚や支援者からもらっていました。もっと問題なのは、奥さんには1銭も渡していなかったことです。ですから正造夫人は、内職で暮らしを立てていくしかありませんでした。


もっとひどいのは、お金に困っての果てに貧乏な被害農民からさえ金を借り、返せなくなって踏み倒していることです。
どんなに立派な演説をしても、被害農民を救うと称して立ち上がっても、お金に対してこんな汚いことをする人は、私には許せません。人の道に外れているとしか思えないので、「神に最も近づいた」と賞賛するなどとんでもないことで、絶対反対です。


その個人崇拝ぶりについては、次回から具体的に書いていきます。


立松和平の突拍子もないウソ②   

立松和平が自らライフワークだというもう一つの小説が、『毒 風聞・田中正造』ですが、ここにも足尾鉱毒事件にかかわるとんでもないウソが見られます。

この小説の第2章は、庭田という被害農民が明治31年に作文した「鉱毒地鳥獣虫魚被害実記」をそのまま素材にしているのですが、それは次のような文章を並べることによって構成されています。


「マルタという魚の最盛期は、桜の花の盛りです。ハヤは、梨の花の盛りを旬(しゅん)といたします。渡良瀬川の川幅いっぱいに網を張りますと、慶応より明治12,3年の頃までは一晩に百貫以上はとれました。(中略)鉱毒被害以来、マルタもハヤもまったくとれません。」


しかし、この被害実記はすべて同じ調子で、上記のように「かつてはこのように豊かな自然があったが、鉱毒被害以来それがなくなった。」という書き方がされており、どの程度の被害があったのか、その具体的内容はほとんど書かれていないのです。つまり「被害実記」にはなっていません。よく読むと実にいい加減な資料だということがわかります。しかし、これだけではありません。


実は、鉱毒の被害が発生するのは明治17年頃からです。ですから、「明治12,3年頃を境に魚がとれなくなった」と書いているこの記録は、明らかに捏造された作文だということを証明しています。つまり、真実の記録ではないということができます。

庭田という農民が、いつごろから公害が発生したのかわからないはずはありません。それなのになぜわざわざこんな嘘を書いたのかといえば、田中正造が明治30年から「公害の発生は明治12,3年頃」と嘘を言い始めたので、この嘘に合わせる必要があったからです。


ということは、田中も嘘をつき、それに合わせて被害農民も嘘を言っているこの記録は、明らかに意図的な虚構であり、資料としての価値はないと言えます。


ちょっと調べれば、田中正造に重度の虚言癖があることがわかるはずです。しかし、立松は、正造の言うことを頭から信じ込み、その上、政府と古河の公害対策が成功した事実を読者に何一つ知らせず、逆に政府の無策を非難するような小説を書いて、読者をだましているわけですから、まさに大法螺吹きの栃木県人だということが出来ます。

立松和平の突拍子もないうそ①

斉藤ディレクターは、足尾鉱毒事件をテーマにした『その時歴史が動いた』に、マスコミで大活躍する栃木県人、立松和平をゲストに起用しました。


立松は、足尾銅山の抗夫だった人を曽祖父に持ち、生まれ育ちは宇都宮ながら、夏休みになると足尾にあった親戚の家に遊びに行き、「子供の頃は足尾に住んでいたといっていいくらい」この地に縁があって、鉱毒事件に関する小説を2冊も書いている人だったからでしょう。

しかし、立松は、放送で「田中正造に唯一出来ることは直訴だった」と言っただけでした。直訴のその時すでに、公害防止工事の効果で被害農地が回復し始めていたのに、何も調べていない彼は、学校の教科書に書いてあるニセの解説程度のことしかコメントできなかったわけです。


足尾鉱毒事件をテーマにし、自らライフワークだとする彼の小説のひとつが『恩寵の谷』ですが、この中で、足尾銅山の所長(責任者)だった木村長兵衛を悪役にして、しかし立松は、次のように時間を勝手に逆回転しているのですから、あいた口がふさがりません。


「長兵衛は、渡良瀬川の下流で魚が大量に浮かび、殊にアユの量が減ったのは鉱毒が原因だというウワサを耳にした。もし漁民が失業したというなら、いつでも銅山で雇ってやる、と会議の席で彼は何度も何度も大声を出した。」

「もう何年も前から農作物の収穫が減少してきた。栗、栃、柿、梨、梅、桃も収穫がなくなり、木もしだいに枯れていく。田畑に作物が育たないのも、茸が生えなくなったのも、馬が死んだのも、母親の乳がでず赤子が夭折するのも、製錬所の煙のせいだという。つまり、すべての責任は長兵衛に帰すのだから、賠償金を払うべきだというのだった。」

公害が事件として顕在化するのは明治23年8月の大洪水からです。同年11月に谷中村が製錬所の移転を要求し、12月には吾妻村が採掘停止を求める上申をし、栃木県会も原因物質の除去を建議しています。

田中正造が帝国議会で最初の質問をするのは翌明治24年12月、原因は足尾銅山の排出物だと、東大教授古在由直が発表したのは25年2月です。

そして、立松がこの小説に利用した上記の被害状況が記録されるのは、間違いなく明治30年以後のことです。

ところが、木村長兵衛は明治21年4月に死んでいるのです。ですから、生存中に上のような公害の話が持ち上がるはずはありません。


彼は、田中正造を英雄にし、古河市兵衛を悪者に仕立てるために、意図的に歴史を捏造したのでしょう。

まったくペテン師的な行為ではありませんか。栃木県人らしさを売り物にする人気小説家の、これが現実です。


      

NHK斉藤ディレクターの無知

2002年2月20日、NHKテレビの人気番組『その時歴史が動いた』は、「田中正造、足尾鉱毒事件に挑む」を放送しました。


斉藤ディレクターとは、この番組の制作・演出をした教養番組担当の斉藤圭介のこと。彼は、事件の主舞台の足尾の町で生まれ育った栃木県人で、銅山が閉鎖した1973年に地元の小学校に入学し、「銅の成分を沈殿させる茶色い大きなプールのような施設も、子供時代の記憶の回路の中にしっかりと組み込まれ、」「銅とともに生きた土地の空気を、胸の奥深く吸い込んできた」そうである(取材ノート)。


しかし、いったいどうしたことなのでしょう。彼が子供時代に見た風景も吸った空気も、この番組に何一つ反映していなかったのです。
放送は、「政府も古河も何の対策もとらなかったので、最後の手段として、田中正造が明治天皇に直訴した。」という内容になっていました。
彼が「しっかりと記憶している」公害防止用の沈殿池は、何のために、誰がどのように造り、実際にどれほどの効果があったのかなどを、彼はなぜ調べようとしなかったのでしょう。


1903年6月、政府は、6年前に造られたこれら沈殿池の効果で、鉱毒が渡良瀬川に流出しなくなったと発表しました。
当時の最高のレベルにいた専門家による、政府のこの調査結果さえ調べていないのは、いったいなぜなのでしょう。


『田中正造全集』の別巻にある「年譜」には、「1903年10月、鉱毒被害地の稲豊作」と明記されています。
彼が小学生の頃盛んに読まれていたに違いない『下野人物風土記』の3集には、「鉱毒問題は、この施設によって解決した。」とはっきりと書かれているではありませんか。


結局彼は、生まれ育った足尾のことなど何も知ろうとしなかったことがわかりますが、その理由は、彼がある種の偏見を持っていたからだと思います。


この放送を再録した単行本には、「政府は、洪水の際に鉱毒水をためる貯水池を造り、被害を抑えようとした」と、谷中の遊水池のことが説明してあります。


しかし、政府がこんな変な理由で遊水池を計画するはずはありませんし、防除工事が成功して、洪水があっても鉱毒に侵されなくなったので、この説明はあまりにもお粗末な作り話になってしまいます。おそらく彼の頭の中には、「政府も古河鉱業も誰がなんと言っても悪である」といった観念しかなかったのです

公害学者・宇井純の大誤認②

東京大学の助手だった頃の宇井純は、しかしまた、小・中・高の教科書には書かれていない重要な事実を「公害原論」で講義していました。


それは、政府が古河に公害防止工事を命令したことで、彼はこれについて次のように踏み込んだ話をしました。


「この命令は、政府が企業に対して厳しい態度をとった、おそらく唯一の例だろうと思います。」
「これを受けて、古河市兵衛のほうも覚悟を決めまして、あえてこの命令を受けて、6ヶ月以内に工事を全部完了します。」
「工事のために資材をかたっぱしから買い付けて突貫工事をやったんでして、おそらく東京オリンピックくらいの騒動が、足尾であったという風に考えていいんじゃないか。」


これで、1970年代に彼がこの事件にどんな認識を持っていたかがわかります。
しかし、なんと不思議なことでしょう。2002年刊の『岩波講座 環境経済・政策学 第2巻』に、彼は次のように書くのです。


「日本の工業化初期の深刻な公害紛争の多くは鉱山が関係し、鉱毒と呼ばれていた。明治時代を通じて最大の社会問題の一つと言われていた足尾鉱山の鉱毒事件はその典型である。」

「日本政府は強力な鉱山保護政策をとり、農民の被害の声を圧殺した。不世出の政治家・田中正造のもとに結集した農民は、粘り強い陳情運動を繰り返したが、結局その運動は中央政府の弾圧に敗北した。」


しかし、同じ岩波版の『田中正造全集』には、宇井の言う突貫工事の効果で、「明治36年10月、被害農地の稲が豊作」(別巻の「年表」)と明記され、イギリス人のK・ストロング著『田中正造伝』には、「明治37年には多くの田畑が通常の水準近くまで生産性を取り戻した。」と書かれています。


田中正造が亡くなった大正2年、反対運動のリーダーだった野口春蔵は、「先祖伝来の土地がこれほどまで救われたご恩(田中正造への)は、神仏の及ぶところではありません。」と言い(柴田三郎『義人田中正造翁』)、前記の公害防止工事を命じた大隈重信は、「家を忘れ身を献げてよく渡良瀬沿岸数十万無告の民を救済せり。」と、正造を称える弔辞を送りました。


それから60年後、昭和40年代に刊行された『下野人物風土記』の古河市兵衛の章には、「工事が成功して、長い間の鉱毒問題も解決した。」と明記されています。

それなのに、宇井純は、なんで前言を翻してまで「弾圧で運動は敗北した。」などと決めつけたのでしょう。誤認どころか明らかに大嘘ではありませんか。

公害学者・宇井純の大誤認①      

これまで、栃木県連合教育会が郷土の歴史を知らないだけでなく、ウソ偽りの歴史を子供たちに教えている事実をお知らせしました。


同会にもこの記事のことを伝えていますが、これまでに全く何の反論もありません。

今度は、栃木県関係者が事件をどう説明しているかをお伝えしましょう。


下都賀郡壬生町出身で昭和7(1932)年生まれの栃木県人に、世界的に著名な公害学者の宇井純(沖縄大学名誉教授)がいます。

東京大学都市工学科の助手で、大学の古い体質に反抗して、市民向けの公開自主講座「公害原論」を講義していた1970年代において、彼は東大教授よりもはるかに高い人気を持ち、時代の旗手といった印象を世間に与えていました。

真に輝かしい学者として、毎日出版文化賞、フィンランド自然保護協会特別大賞、スモン基金奨励賞その他を受賞し、助手の彼は、沖縄大学からそのまま教授として迎え入れられました(昭和60年)。


ところで、自主講座「公害原論」において、彼は足尾の事件についてどんな話をしていたでしょうか。
「明治11年には魚の死骸が見られ、明治13年には知事が布告を出した。」と講義で語っていますが、このことから、彼は田中正造の捏造話を真に受けて、公害の発生年すら誤認していたことがわかります。


田中正造は、「公害が発生したのは明治12,13年ごろで、栃木県知事は渡良瀬川で獲れた鉱毒汚染魚を売ることを禁じた。」という話をでっち上げていたからですが、このウソは今でも多くの人が信じており、一番権威のある日本史の事典である『国史大辞典』(吉川弘文館)にすら堂々と載っています。


しかし、足尾銅山が本格操業を始める前に公害が発生するはずはなく、大学の教師でも学者でもない研究者の一人がこれに気づいて、昭和50年に「この話は田中正造の戦略的虚構だった。」と発表して、その後これが定説になっているのです。


古河鉱業の社史を見ればこんな嘘はすぐわかるはずですし、県会議員だった田中正造が、公害が起きているのに反対運動をしなかったことに、疑問を持って当然ではありませんか。にもかかわらず、正造の発言を何も疑わずに鵜呑みにして講義した宇井純という人は、なんと不勉強で無責任な学者だったのでしょう。あきれてものが言えません。