花村校長のあきれた個人崇拝④ | 足尾鉱毒事件自由討論会

花村校長のあきれた個人崇拝④

明治36年、古河市兵衛に命じて造らせた公害防除施設の有効性を確認した明治政府は、渡良瀬川の洪水防止(治水)対策として、下流の谷中村を遊水池にする計画を立てます。


実際、この年の秋には、沿岸の田畑は豊作になりましたが、この事態に対して花村校長は、『田中正造の終わりなき戦い』(1998年)にこう書いています。


「激甚被害地が大豊作となったことは、鉱毒被害農民の意識を大きく変化させた。農民は本来、自己の耕作田畑に対して異常ともいえる執着心を持つものであり、守旧意識が強いのである。」


「農民たちは、自分たちの田畑が大豊作となったことで大いに満足し、渡良瀬川の大改修が竣工すれば、鉱毒被害に二度と見舞われないという保守的観点から、政府が推進する治水事業に賛成し、多数の農民の生存権が抹殺されること(谷中村廃村)に同情を寄せたものの、なんらの支援活動を行うことなく、それを見殺しにしたのである。」


花村校長は、農民は意識が低く保守的で、谷中村の農民を見殺しにしたと批判していますが、農民が農地に執着するのも、他人よりも自分の利益を優先するのも当然の理ですから、この批判は全くの的外れです。この偏見の原因は田中正造を絶対視していることにあります。


鉱毒の被害者は農民ですから、主役は農民であり、彼らの行動を理解することが大切なのに、花村校長は、脇役でしかない一人の政治家の言動だけを基準にして正邪を判断しているのです。全く主観的な歴史観だということができます。