公害学者・宇井純の大誤認② | 足尾鉱毒事件自由討論会

公害学者・宇井純の大誤認②

東京大学の助手だった頃の宇井純は、しかしまた、小・中・高の教科書には書かれていない重要な事実を「公害原論」で講義していました。


それは、政府が古河に公害防止工事を命令したことで、彼はこれについて次のように踏み込んだ話をしました。


「この命令は、政府が企業に対して厳しい態度をとった、おそらく唯一の例だろうと思います。」
「これを受けて、古河市兵衛のほうも覚悟を決めまして、あえてこの命令を受けて、6ヶ月以内に工事を全部完了します。」
「工事のために資材をかたっぱしから買い付けて突貫工事をやったんでして、おそらく東京オリンピックくらいの騒動が、足尾であったという風に考えていいんじゃないか。」


これで、1970年代に彼がこの事件にどんな認識を持っていたかがわかります。
しかし、なんと不思議なことでしょう。2002年刊の『岩波講座 環境経済・政策学 第2巻』に、彼は次のように書くのです。


「日本の工業化初期の深刻な公害紛争の多くは鉱山が関係し、鉱毒と呼ばれていた。明治時代を通じて最大の社会問題の一つと言われていた足尾鉱山の鉱毒事件はその典型である。」

「日本政府は強力な鉱山保護政策をとり、農民の被害の声を圧殺した。不世出の政治家・田中正造のもとに結集した農民は、粘り強い陳情運動を繰り返したが、結局その運動は中央政府の弾圧に敗北した。」


しかし、同じ岩波版の『田中正造全集』には、宇井の言う突貫工事の効果で、「明治36年10月、被害農地の稲が豊作」(別巻の「年表」)と明記され、イギリス人のK・ストロング著『田中正造伝』には、「明治37年には多くの田畑が通常の水準近くまで生産性を取り戻した。」と書かれています。


田中正造が亡くなった大正2年、反対運動のリーダーだった野口春蔵は、「先祖伝来の土地がこれほどまで救われたご恩(田中正造への)は、神仏の及ぶところではありません。」と言い(柴田三郎『義人田中正造翁』)、前記の公害防止工事を命じた大隈重信は、「家を忘れ身を献げてよく渡良瀬沿岸数十万無告の民を救済せり。」と、正造を称える弔辞を送りました。


それから60年後、昭和40年代に刊行された『下野人物風土記』の古河市兵衛の章には、「工事が成功して、長い間の鉱毒問題も解決した。」と明記されています。

それなのに、宇井純は、なんで前言を翻してまで「弾圧で運動は敗北した。」などと決めつけたのでしょう。誤認どころか明らかに大嘘ではありませんか。