公害学者・宇井純の大誤認①       | 足尾鉱毒事件自由討論会

公害学者・宇井純の大誤認①      

これまで、栃木県連合教育会が郷土の歴史を知らないだけでなく、ウソ偽りの歴史を子供たちに教えている事実をお知らせしました。


同会にもこの記事のことを伝えていますが、これまでに全く何の反論もありません。

今度は、栃木県関係者が事件をどう説明しているかをお伝えしましょう。


下都賀郡壬生町出身で昭和7(1932)年生まれの栃木県人に、世界的に著名な公害学者の宇井純(沖縄大学名誉教授)がいます。

東京大学都市工学科の助手で、大学の古い体質に反抗して、市民向けの公開自主講座「公害原論」を講義していた1970年代において、彼は東大教授よりもはるかに高い人気を持ち、時代の旗手といった印象を世間に与えていました。

真に輝かしい学者として、毎日出版文化賞、フィンランド自然保護協会特別大賞、スモン基金奨励賞その他を受賞し、助手の彼は、沖縄大学からそのまま教授として迎え入れられました(昭和60年)。


ところで、自主講座「公害原論」において、彼は足尾の事件についてどんな話をしていたでしょうか。
「明治11年には魚の死骸が見られ、明治13年には知事が布告を出した。」と講義で語っていますが、このことから、彼は田中正造の捏造話を真に受けて、公害の発生年すら誤認していたことがわかります。


田中正造は、「公害が発生したのは明治12,13年ごろで、栃木県知事は渡良瀬川で獲れた鉱毒汚染魚を売ることを禁じた。」という話をでっち上げていたからですが、このウソは今でも多くの人が信じており、一番権威のある日本史の事典である『国史大辞典』(吉川弘文館)にすら堂々と載っています。


しかし、足尾銅山が本格操業を始める前に公害が発生するはずはなく、大学の教師でも学者でもない研究者の一人がこれに気づいて、昭和50年に「この話は田中正造の戦略的虚構だった。」と発表して、その後これが定説になっているのです。


古河鉱業の社史を見ればこんな嘘はすぐわかるはずですし、県会議員だった田中正造が、公害が起きているのに反対運動をしなかったことに、疑問を持って当然ではありませんか。にもかかわらず、正造の発言を何も疑わずに鵜呑みにして講義した宇井純という人は、なんと不勉強で無責任な学者だったのでしょう。あきれてものが言えません。