立松和平の突拍子もないうそ① | 足尾鉱毒事件自由討論会

立松和平の突拍子もないうそ①

斉藤ディレクターは、足尾鉱毒事件をテーマにした『その時歴史が動いた』に、マスコミで大活躍する栃木県人、立松和平をゲストに起用しました。


立松は、足尾銅山の抗夫だった人を曽祖父に持ち、生まれ育ちは宇都宮ながら、夏休みになると足尾にあった親戚の家に遊びに行き、「子供の頃は足尾に住んでいたといっていいくらい」この地に縁があって、鉱毒事件に関する小説を2冊も書いている人だったからでしょう。

しかし、立松は、放送で「田中正造に唯一出来ることは直訴だった」と言っただけでした。直訴のその時すでに、公害防止工事の効果で被害農地が回復し始めていたのに、何も調べていない彼は、学校の教科書に書いてあるニセの解説程度のことしかコメントできなかったわけです。


足尾鉱毒事件をテーマにし、自らライフワークだとする彼の小説のひとつが『恩寵の谷』ですが、この中で、足尾銅山の所長(責任者)だった木村長兵衛を悪役にして、しかし立松は、次のように時間を勝手に逆回転しているのですから、あいた口がふさがりません。


「長兵衛は、渡良瀬川の下流で魚が大量に浮かび、殊にアユの量が減ったのは鉱毒が原因だというウワサを耳にした。もし漁民が失業したというなら、いつでも銅山で雇ってやる、と会議の席で彼は何度も何度も大声を出した。」

「もう何年も前から農作物の収穫が減少してきた。栗、栃、柿、梨、梅、桃も収穫がなくなり、木もしだいに枯れていく。田畑に作物が育たないのも、茸が生えなくなったのも、馬が死んだのも、母親の乳がでず赤子が夭折するのも、製錬所の煙のせいだという。つまり、すべての責任は長兵衛に帰すのだから、賠償金を払うべきだというのだった。」

公害が事件として顕在化するのは明治23年8月の大洪水からです。同年11月に谷中村が製錬所の移転を要求し、12月には吾妻村が採掘停止を求める上申をし、栃木県会も原因物質の除去を建議しています。

田中正造が帝国議会で最初の質問をするのは翌明治24年12月、原因は足尾銅山の排出物だと、東大教授古在由直が発表したのは25年2月です。

そして、立松がこの小説に利用した上記の被害状況が記録されるのは、間違いなく明治30年以後のことです。

ところが、木村長兵衛は明治21年4月に死んでいるのです。ですから、生存中に上のような公害の話が持ち上がるはずはありません。


彼は、田中正造を英雄にし、古河市兵衛を悪者に仕立てるために、意図的に歴史を捏造したのでしょう。

まったくペテン師的な行為ではありませんか。栃木県人らしさを売り物にする人気小説家の、これが現実です。