立松和平の突拍子もないウソ②    | 足尾鉱毒事件自由討論会

立松和平の突拍子もないウソ②   

立松和平が自らライフワークだというもう一つの小説が、『毒 風聞・田中正造』ですが、ここにも足尾鉱毒事件にかかわるとんでもないウソが見られます。

この小説の第2章は、庭田という被害農民が明治31年に作文した「鉱毒地鳥獣虫魚被害実記」をそのまま素材にしているのですが、それは次のような文章を並べることによって構成されています。


「マルタという魚の最盛期は、桜の花の盛りです。ハヤは、梨の花の盛りを旬(しゅん)といたします。渡良瀬川の川幅いっぱいに網を張りますと、慶応より明治12,3年の頃までは一晩に百貫以上はとれました。(中略)鉱毒被害以来、マルタもハヤもまったくとれません。」


しかし、この被害実記はすべて同じ調子で、上記のように「かつてはこのように豊かな自然があったが、鉱毒被害以来それがなくなった。」という書き方がされており、どの程度の被害があったのか、その具体的内容はほとんど書かれていないのです。つまり「被害実記」にはなっていません。よく読むと実にいい加減な資料だということがわかります。しかし、これだけではありません。


実は、鉱毒の被害が発生するのは明治17年頃からです。ですから、「明治12,3年頃を境に魚がとれなくなった」と書いているこの記録は、明らかに捏造された作文だということを証明しています。つまり、真実の記録ではないということができます。

庭田という農民が、いつごろから公害が発生したのかわからないはずはありません。それなのになぜわざわざこんな嘘を書いたのかといえば、田中正造が明治30年から「公害の発生は明治12,3年頃」と嘘を言い始めたので、この嘘に合わせる必要があったからです。


ということは、田中も嘘をつき、それに合わせて被害農民も嘘を言っているこの記録は、明らかに意図的な虚構であり、資料としての価値はないと言えます。


ちょっと調べれば、田中正造に重度の虚言癖があることがわかるはずです。しかし、立松は、正造の言うことを頭から信じ込み、その上、政府と古河の公害対策が成功した事実を読者に何一つ知らせず、逆に政府の無策を非難するような小説を書いて、読者をだましているわけですから、まさに大法螺吹きの栃木県人だということが出来ます。