足尾鉱毒事件自由討論会 -27ページ目

当ウエブログの現在

キーボードを打ったこともなかった私が、このブログを開設してから1年が経ちました。
それで何らかの効果があったかといえば、はなはだ疑問ではあります。


しかし、足尾鉱毒事件の舞台だった栃木県で少しずつ変化の兆しが感じられるのは確かです。
時を同じくして開館したのが足尾歴史館ですが、ここを訪れる人々のほとんどが、日本で最初の大規模公害防止工事のことを、銅山お抱えのカメラマンによる見事な写真を見て知り、衝撃を受け、これまで抱いてきた事件への認識を改めて帰るというのです。


3月中旬に、朝日新聞宇都宮支局の記者が歴史館を取材しましたが、19日付けの同紙栃木版に、「新・日光足尾の歴史を見直す住民」という見出しの記事が、写真入りで大きく載りました。3月20日に足尾町が日光市に吸収合併されたニュースに関連していますが、これまで誤解されてきた歴史の見直しが強調されていました。


館員の皆さんは、関心の高そうな来館者には、私の書いた『運鈍根の男』と『直訴は』の本を薦めていますが、つい先日、お蔭様で20冊の『直訴は』の追加注文がありました。


栃木県のある人が、「日光を漂ふ」という自分のブログに、私の本を読んで「鉱毒事件を誤解していたことがわかった」、といった記事を1月ごろから3回ほど書きました。「これはありがたい」と思ったので、「PRしてくれてうれしい」という意味のコメントをここに入れました。3月28日のことです。

ところがその翌日、足尾歴史館の I 女史から「きのう、ブログで砂川さんの本を宣伝してくれている人が来て、本も買っていきました。」というメールが入ったのです。どうやら彼は、私のブログを読んでこれまで記事を書いていたらしく、早速アクセスしてみると、今度は表紙の写真が大きく載っていました。


ともあれ、これほど真面目に『直訴は』のことを紹介してくれたことはこれまでなかったし、何よりも栃木県の人が、このように強い関心を寄せてくれたことに、私は無上の喜びを感じました。これからが非常に楽しみです。
関心のある方は、次のホームページにリンクしてみてください。


足尾歴史館( http://www.18.ocn.ne.jp/~rekisikn/ )

日光を漂ふ(http://dendo-annai.blog.ocn.ne.jp/nikko )


栃木の教師たちの不可解⑥

世の中のことは、公害を出したから悪者でこれに反対したから善人だ、といったように単純には分けられません。

しかし、現実は別で、「私が公害を出したように同県人から言われることがある。」と、私は足尾の人から聞いています。

明らかに、栃木県人の間でいまだに差別の観念が働いているのです。

『しもつけ物語』で足尾鉱毒事件を教えられたからこそ、栃木県人は洗脳され、事実を誤解して足尾の人たちを差別するわけです。


足尾銅山主の古河市兵衛がこの公害に誠実に対応した事実を、この副読本が正しく教えていれば、こんな誤解は生まれないはずです。

私は、この実態を放置すべきでないと思ったので、住所を調べて栃木県の県会議員全員に書簡を送りました。文末にはこう書きました。


「こんなごまかしの歴史を子供たちに教えていいのでしょうか。私は、この事件をありのままに正しく栃木県の子供たちに教えるべく、議員の皆さまが何らかの行動をとられることを願ってやみません。」


これは昨年の2月のことですが、反響はゼロ。だれ一人としてこれに何一つ反応してくれませんでした。栃木県のエリートたちは、子供たちが郷土の重大事件にウソを教えられていることに何の関心も持たないのでしょうか。

なんとも不思議でなりません。

栃木の教師たちの不可解⑤

栃木県連合教育会は、同県の教師の団体ですから、二人の伝記は、他県の人たちに頼らずに自ら調査して執筆すべきと思います。


ところが、『しもつけ物語』における二人の伝記は、左翼系の学者が意図的にねじ曲げた話をそのまま借用して書いているにすぎません。

資料を少し調べれば、次のような事実があることはすぐにわかります。


足尾の町は、今は日光市に吸収されるほどの存在に変わりましたが、かつては栃木県では宇都宮に次ぐ人口を擁する工業都市でした。
ですから、被害農民を含む多くの県民は、足尾銅山から多大の恩恵を受けており、田中正造らの公害反対運動に批判的で、田中派の陳情数の10倍に当たる、2万2千人以上の署名を集めて、政府に足尾銅山閉山反対の陳情をしています(明治30年)。


田中派の被害農民も、足尾銅山の閉鎖を求めて明治天皇に直訴した、正造の過激な行動には大反対で、彼から離反しただけでなく、その後の谷中村での彼の抵抗運動には、誰一人として協力しませんでした。


田中正造は、「公害防止工事は効果がなかった。」といい続けました。
しかし、直訴の前に新聞は「激甚被害農地以外はきわめて豊作」と書いていますし(明治34年10月6日、朝日)、政府が設けた専門家による調査委員会も、明治36年6月に、工事の効果はあったという結論を出しています(岩波新書の『田中正造』)。
『田中正造全集』の「田中正造年表」には、「明治36年10月、被害地の稲豊作」とあります。
反対運動のリーダーだった野口春蔵も、「この工事によって農民が救われた。だから、田中正造のご恩は忘れられない。」と語っています(柴田三郎著『義人田中正造翁』)。


今市、宇都宮北、宇都宮南の各高等学校を歴任した花村富士男氏は、古河が公害防止工事に投じたお金は、現在のお金に直せば8000億円になる、と書いています(『評伝・田中正造の生涯』)。
この数字はオーバーとは思いますが、工事期間は半年ですから、いかに想像を絶する大工事だったかがわかります。

明治時代の人々は、彼の勇気に非常に感激しました。だからこそ、総合雑誌の『太陽』が実施した読者の人気投票で、古河市兵衛は伊藤博文や大隈重信や福沢諭吉を押さえて最高の票数を獲得し、「明治十二傑」に選ばれたのです(明治32年6月)。


栃木県連合教育会が、以上のような事実を県内の子供たちに教えずに、事実ではないことばかり教えつづけるのは、いったいなぜでしょうか。不思議でなりません。


栃木の教師たちの不可解④

前回は、田中正造について改訂版がどう書き換えられたかをお伝えしましたが、今回は、古河市兵衛の部分がどうなっているかを報告します。


『しもつけ物語』の第7集(昭和63年発行)に載せられた古河市兵衛の略伝は、全面改訂前の『下野人物風土記』と同様、経営者としていかにすぐれていたかが強調されています。
しかし、一部だけですが、次のように大改訂がなされました。


「(政府は)厳しい工事をすることを足尾銅山に命じました。しかもそれは、ごく短い期間にやらなければなりませんでした。」
「<いくらなんでも、これでは無理だから、期間をのばしてもらえないだろうか>と周りの人はいいましたが、市兵衛は<どんなに期間が短くても、仕上げなければいけません>と言って、予防工事の命令を受けた会社に、亜硫酸ガスを吸収する脱硫塔を建設しました。」
「この工事によって、鉱毒への解消を図りましたが、鉱毒を防ぎきれないで、本山周辺に煙害が増大していきました。しかし、当時のわが国は国力増進の時代でしたので、銅山経営はつづけられました。」


意味が通じない欠陥文章ではありますが、「予防工事の命令を受けた会社に」を削除すれば、言いたいことはわかります。
しかし、この説明は事実とは全くかけ離れており、読者を完全にだましています。


まず旧版にあった「(工事の結果)長い間の鉱毒問題も、最後の解決に達したのである。」という事実認識を、理由もなく完全に否定しています。
更におかしいことには、当時の技術水準では不可能な亜硫酸ガス対策を持ち出し、これに失敗したから工事は無効だったかのごとく、古河鉱業を責めています。その上、当時の国情がやむなく足尾銅山を存続させたのだと説明していますが、いったい日本国民のうちの誰が足尾銅山の閉鎖まで望んだというのでしょう。


教育者たるものが、こんなウソやごまかしを子供たちに吹き込むとは、なんとも驚くべきことではありませんか。



栃木の教師たちの不可解③

栃木県連合教育会は、昭和60年代に、前述の『下野人物風土記』を絶版にし、同じ主旨の副読本『しもつけ物語』を編集・発行しました。


その第4集(昭和62年)に田中正造が取り上げられていますが、足尾鉱毒事件に関しては、前の本では「政府は何の対策もしてくれなかった。」となっていたものが、「政府もようやく重い腰をあげ、明治30年5月、足尾銅山に対して鉱毒を防ぐための工事をするよう命令しました。」と書きかえられました。


ところが、その続きは「しかし、(工事は)思うほどの効果はあがらないで、鉱毒による被害はなくなりませんでした。」とあり、いかに訴えても政府が対応してくれないので、田中正造はやむなく「明治天皇に直訴をしたのです。」と説明されています。


事実は、この工事によって「長い間の鉱毒問題も最後の解決に達した」(『下野人物風土記・第3集』)のですから、この説明は当然ウソで、連合教育会は栃木県の小・中学生に、今日までウソの歴史を教え続けていることになります。


それだけではありません。
『しもつけ物語』では、谷中村を救うために闘った田中正造が文句なしに称賛されています。
しかし、谷中村の遊水池化計画は、専門の学者15人による「鉱毒調査委員会」が全員の賛成で立案し、栃木県会も賛成の決議をし、谷中村を除く渡良瀬川沿岸の被害民も残らず賛同しているのです。


栃木県連合教育会は、議会制民主主義や多数派の意志を否定して、少数派を支持した過激な人物を称賛しているわけですが、こういう教育が正しいと考えているのでしょうか。


栃木の教師たちの不可解②

栃木県連合教育会は、昭和43(1968)年から、県内の生徒を対象に副読本の『下野人物風土記』を編集・発行しました。
小説家の吉屋信子や山本有三、農政家の二宮尊徳、ボクサーのピストン・堀口、関取の栃木山、日本の鉱山王といわれた古河市兵衛など、栃木県ゆかりの大人物の伝記集ですが、第1集(昭和43年発行)のトップには田中正造がとり上げられました。

ここには、次のように書いてあります。


足尾鉱毒事件に関しては、政府も古河も何の対策もしてくれず、正造が何をやっても問題は解決しなかった。
「残された道はただひとつの非常手段しかない。正造はそう思って天皇陛下に直接訴えようと決心したのである。けれども、直訴は死に当たることで、ほんとうに命がけの仕事だった。しかし、愛する農民のためには、命を捨てるのも本望だとひそかに思って」天皇に直訴した、と。

ところが、まことに不思議なことに、第3集(昭和45年)の古河市兵衛の伝記には、同じ足尾鉱毒事件の経過が、次のように正反対に説明されているのです。


「市兵衛は、この事件をとても重大に考えて、自分から宇都宮に出かけて、各町村の代表と会見したりして、円満に解決がつくように努力した。」
「予防策として粉鉱採集器をそなえつけたり、沈でん池の工事に取りかかったり、たくさんのばい償金を出したりした。」
「ところが、明治29年秋にまた大水害が起こって、鉱毒問題がやかましく論ぜられるようになった。」
「銅山がわでは、全力をあげて沈でん池を増設し、たい積場の完成をいそぎ、足尾全山に対して、鉱水、廃水、からみ、排煙の処理、護岸工事など、あらゆる方面に万全の努力をつくしたのである。」
「しかも、期限つきのきびしい命令なので、周囲の者は、<いくらなんでも、無理な期限だから、もう少し延ばしてもらってはどうでしょう。>と、しきりにいったが、市兵衛は頭をふった。<いやいや、いかに期限はきびしくとも、この工事は、ぜひとも早く仕上げなければならない。>」
かくして、予防工事は予定どうり完成し、長い間の鉱毒問題も、最後の解決に達したのである。」


つまり、栃木県連合教育会は、小・中・高の教科書に載っているこの重大事件を、虚実並べて一つの副読本にして編集・発行していたわけです。
なんと無茶なことをしていたのでしょう。子供たちがこれを読んでどう思うかを、考えなかったのでしょうか。なんとも不可解です。



栃木の教師たちの不可解・①

この本の発行から2ヵ月後の2004年12月中旬、栃木県宇都宮市に出かけて書店回りをしたのですが、その折、地元で読まれている雑誌に本を紹介してもらおうと考えたので、たまたま知った『下野教育』の発行元、「栃木県連合教育会」を押しかけ的に訪問しました。


この会は、同県の学校教師で組織する長い歴史を持つ団体で、『下野教育』はその機関誌。この雑誌を見て、同会が生徒向けの副読本として、同県ゆかりの人々の伝記を刊行していることを知り、訪問してみたのです。


しかし、「出来ればこの本のことを機関誌で紹介してほしい」と、来意を告げた途端に先方は拒絶反応を示し、「この雑誌は会員間の情報交換以外はしません。本の紹介はしないことになっています。」と、けんもほろろでした。「でもせっかくですから、この本は差し上げますのでどうぞ。」という私に、「いえ、要りませんから。」とますますかたくなになる始末でした。


どうしてこんなに強硬に拒絶するのか、よくわからないまま帰ってきたのですが,図書館で『下野教育』のバックナンバーに当たってみると、なんと同誌には、「私の読書ノート」というページがあって、毎号、会員の教師による読書感想文が載っていたのです。私の本もこのページで紹介できるのに、なぜうそをついてまで私の頼みを拒否したのでしょう。


この本は、栃木県で起こった事件をテーマにし、小・中・高の教科書にも取り上げられている重要問題を扱い、その上これまでの通説に疑問を提起しているのですから、栃木県の教師にとって無関心ではいられないはずです。にもかかわらず、こういう態度をとるのはなぜでしょう。この会が、会員の教師たちに、本当のことを知らせたくなかったからに違いありません。

著名人たちの反応   

マスメディアで活躍している新聞・雑誌の書評欄から無視されましたが、これであきらめるわけにはいかないので次の方々に、力を貸してほしい旨手紙で直接訴えてみました。
しかし、その反応は以下のとうりで、私が足尾事件の真実を追究していることには、一人を除いて何の関心も持たないのだということを知りました。


永六輔:彼が司会しているTBSラジオの土曜ワイドで、過去に私のクレームに対してとても気持ちよく対応してくれたので、当たってみたのですが、今回は空振りでした。


不破哲三:彼の著書『私の南アルプス』に、私の著書の引用文が載った関係から、過去に献本を受けたので頼んでみたのです。しかし、返事はありませんでした。


御厨貴:読売新聞で私の著書の書評を担当した、政治外交史専攻の東大教授で、私の本を読んでいることから期待したのですが、反応はゼロでした。


今谷明:朝日新聞で同じく書評を担当した、日本中世史専攻の横浜市立大学教授ですが、同じように返事は来ませんでした。


藤岡正勝:歴史教科書の間違いを正す「新しい歴史教科書を作る会」を推進する教育学者。拓殖大学教授。同会は、南京大虐殺などに特定せず、間違いがあれば採り上げる、と言明していたのでお願いしたのですが、「本を読みたい」というので献本したにも拘らず、以来何の反応もきませんでした。


本多勝一:以前から尊敬するジャーナリストなので、試しにお願いしてみたところ、「あなたの言うとうりなら大問題です。調べてみたいが70歳を過ぎたので、もうそのエネルギーがありません。」という返事がありました。


メディアの徹底した無関心

この本は、原稿が出来てから1年後に出版が決まり、それから5ヵ月後にやっと発刊できるありさまでした。
これまで20数冊の本を出してきましたが、こんな経験は初めてです。


しかし、異常な経験は、それからが本格的で、主要新聞や週刊誌その他に、わざわざ編集責任者に宛てて書評依頼のための本を贈ったのですが、反応はゼロでした。のみならず、歴史関係その他の専門雑誌すら何一つ関心を示さず、この本の紹介は一切なかったのですから驚きでした。


一般向けに私が書いてきた伝記その他の著書は、全国紙や週刊誌によく紹介され、全国紙の著者インタビューも4回経験していましたから、メディアからの受けは比較的いいはずでした。

それに、小学校の国語や中学・高校の社会や歴史の教科書にも出てくる有名な事件について書いていて、しかも、一般によく知られた通説を破っており、話題性は十分あると確信していました。ですから、結果の意外性には本当に驚かざるを得ませんでした。


ともあれ、メディアから全面的に無視されれば、当然本は売れるわけがありません。
本屋さんには、毎日次々と出版される新刊書であふれているため、棚に並べられてもすぐに返本されます。もともと印刷部数がわずかだったため、上のような事情で、私の新刊書は、これまで経験したことのない小部数の販売実績を記録してしまったのです。

地方出版社の反応   

下野新聞社に拒絶された後、東京よりも反応があるかもと考え、敢えて地方出版社に当たりました。しかし、結果は同じでした。


一つは京都のミネルヴァ書房で、十分な検討をしてくれたあと、次のような丁重な断り状が来ました。
お送りいただいたご著書、今回のご企画とも着眼点のすばらしさ、構成力など感服いたしました。しかし、今回のご企画に関しましては、小社の出版傾向や販売力を考え合わせますと、少々力不足という結論に達しました。誠に申し訳ないのですが、昨今の出版状況もご理解いただき、ご寛容のほどお願い申し上げます。お役に立てなかったこと本当に心苦しく思っています。」


もう一つは秋田の無明舎出版で、次のようなFAXで断ってきました。
「このネガティブなテーマでは、出版は無理かと思います。なぜ今このテーマなのか説得力がなく、ほとんど魅力を感じません。なぜ私どものような地域のこだわる小出版社が出版しなければならないかの必然性もありません。お力になれず申し訳ありません。」


私は、歴史の解釈の間違いは訂正されるべきだから、地方の出版社ならばきっと大いに気にしてくれるはず、と期待していたのです。
しかし、それは私の思い違いだったことがわかりました。
そこで、その後何かに期待をすることは止して、無作為にさまざまなところと交渉を重ねていって、今の勉誠出版と出会えたわけです