花村校長のあきれた個人崇拝⑤ | 足尾鉱毒事件自由討論会

花村校長のあきれた個人崇拝⑤

田中正造の研究者の中では、古河市兵衛を高く評価している点で花村校長は特異な人で、市兵衛のことを次のように誉めています。


「古河市兵衛は、生涯を反公害闘争に捧げた田中正造に遜色のない、明治期を代表する大人物であった。」
「激動の明治期、徒手空拳、裸一貫から一代にして古河コンツェルンをつくりあげた市兵衛は、明治きっての大実業家である。」


ところが、彼はまたこの自説を、次のように完全に覆して恥じないのです。


「市兵衛は、無学であるがゆえに、足尾銅山の莫大な利益を優先し、何の鉱毒防止対策も講ずることなく、多大の鉱毒惨禍を招いたのである。」
「幼少期での苦難の体験が、市兵衛をして知と情のアンバランスをもたらし、金銭に異常に執着する人格を形成せしめたと思われる。」
「生涯を通して人間への不信感を持ち続けた、金銭万能主義者の市兵衛は、<ものいわぬ鉱石>のほうが、平気でうそをつき、人を裏切っても恬として恥じない人間よりも信用でき、愛着をおぼえたのではなかろうか。」


花村校長は、「市兵衛は予防工事のために、国家予算から勘案すると今日の8000億円に相当する巨費を投じた。」と自分で書いたことを、すっかり忘れているようです。その上で彼は、次のような心理分析までするのですから、驚くほかありません。


「とすれば、生涯をワンマンで通した市兵衛は<孤独の人>であり<淋しい人>だったといわざるを得ない。」


そして最後に正造をこう称えるのです。


「対する正造は、<愛の人>であり、自他ともに認める<可愛い人>であった。」


大企業の経営者であった市兵衛が、何千人という従業員に尊敬され、明治十二傑に選ばれ、五人の子供がいたのに反し、正造は妻ともずっと離れて暮らし、子供はおらず、反公害闘争の仲間だった農民からも見捨てられ、ついには一人で谷中村に行かざるを得ませんでした。いったいどちらが<孤独の人>だったのか。考えればすぐ分かることです。


ところで、「自他ともに認める可愛い人」とありますが、正造は自分で「可愛い人」と思っていたのでしょうか。不思議なことです。