ブログラジオ ♯199 Tom Traubert’s Blues | 浅倉卓弥オフィシャルブログ「それさえもおそらくは平穏な日々」Powered by Ameba

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トム・ウェイツと仰る。

アサイラム・イヤーズ/トム・ウェイツ

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まったくもって
実に不思議なサウンドである。

ジャズかあるいはブルースか
どちらの形容も非常によく
似合いそうなのだけれど、

かといってそのどちらにも
絶対に括りきれてしまわない。

なんともいえない世界なのである。

この方のレコードでしか、
味わうことのできない手触りが

どのトラックにも見つかってくる。
そういう希有な才能の持ち主である。

この点は断言してしまって
たぶん差し支えないだろう。

もっとも、僕がここまで
きちんと耳を通しているのは、

デビューからの三枚のアルバムと、
それから上にジャケットを掲げた


それらを含むアサイラム時代の
コンピレーションのほかは、

Burma Shaveのタイトルで
たぶん非公式に
リリースされた
ライヴ映像だけなので念のため。

だからまあ、わかる人には
このいい方でわかるかと思うが

アイランド移籍以降には
全然手を出していないのである。


いやしかし、初めてこの方の声が
自分の部屋のオーディオの
スピーカーからこぼれ出してきた時の


衝撃というか驚きというか
あるいは当惑ともいうべきか、

とにかくその瞬間の感情は
今なおなかなかに忘れがたい種類の
体験であったといっていい。

そもそもがこの
トム・ウェイツなる方の名前が
まずちゃんと頭に入ってきたのは、

パティ・スマイス(♯160)が
最初のソロ・アルバムで
Downtown Trainという

彼の曲をカヴァーして
収録していたからだった。

このDowntown Trainは
EBTG(♯20)も取り上げていたし、

何よりあの
ロッド・ステュワート(♯41)が

80年代がまさに終わりを
告げようかという時期に

カヴァーしてシングルカットし
大ヒットさせたりもしていた訳だが、

そのロッドがこれまた
今回標題にした
このTom Traubert’s Bluesの方も


別のところで
レコーディングしていて、

それがまあ、本当に
心に染み込んでくるタイプの
仕上がりだったものだから、

確かそのくらいの段階で
本家を聴いてみる気に
なったのではなかったかと思う。

そこでまあ、最初に手を出したのが、
このコンピレーションだったという
次第なのだが

いや本当、この声いったい
何なんだろうなと思った。


――濁み声。

ほかに形容のしようがない。

それも、わざと酒と煙草で
徹底的に潰したんじゃないかと
思われるくらいの代物である。

美しいとか、伸びるとか
そういう形容を一切許さない。

ところがこれがまた、
彼のトラックが
描き出してくる世界に
見事にマッチしてしまうのである。

この方の曲を聴きながら
自ずと浮かんでくるのは、
場末の酒場とでもいおうか、

本当にほとんど
日光の当たっていないような
光景ばかりなのである。

代表曲のほとんどで
リズム隊がまったくといっていいほど
前に出てこないのみならず、

ギターにせよピアノにせよ
あるいはほかの楽器にせよ

ほぼ生音といっていい
そういう音色で
基本すべてが構成されている。


ある意味極めてクラシカルだと
いってもいいようなその音像に

ほとんど場違いといっていい
濁りきったあの声が

訥々と言葉を
載せていくものだから、

彼の曲をずっと聴いていると、
成功者といおうか、あるいは
勝者と呼ぶべきか、

そういう存在の
一切登場してこないような種類の


モノクロームの映画を
延々と観ているような
そんな気分になってきてしまう。

実際このトム・ウェイツは
後年映画監督の
フランシス・コッポラと

仕事の上でも良好な関係を
築くことになるのだけれど、

だからそのコッポラの映画とか
あるいはヘミングウェイの
作品みたいな手触りが
一気呵成に押し寄せてくるのである。

いや本当、
言葉だけで形容するのが
非常に難しい種類の
音楽だなあと思うのだけれど、

精一杯頑張ってみて
こんな感じである。


さて、このトム・ウェイツは73年に、
あのイーグルス(♯150)や
この前のジュディ・シル(♯197)と同じ

デヴィッド・ゲフィンの起こした
アサイラムなるレーベルから
デビューを果たしている。

――当時弱冠二十六歳。

その当初からもうこんな
潰れたとしか形容しようのない
声をされていらっしゃった模様。


まったくなんといえばいいのだろう。

だからどのトラックもどのトラックも
レイ・チャールズ(♯168)が

徹頭徹尾唸っているとでも
いったような感じなのである。

だからまあ、もしこれから
手を出してみようと
思ってくださる方が
万が一いらっしゃったとしたら、

そこはなんというか
そういう予測を十分した上で
針を落としていただいた方が
よろしいのではないかと思われる。


まあこの表現も
とっくに死語だとは
十分わかってもいるのだけれど、

特にこの人の録音に関しては
このいい方こそが相応しい。

本当、スクラッチ・ノイズの
このうえなく似合ってきそうな
サウンドである。

そしてたぶんだから
レーベルの関係というか、
施策でもあったのかなとは
思わないでもないのだけれど、

とにかくこのデビュー盤収録の
Ol’ 55という曲を
翌74年にイーグルスが採り上げて、

トムの知名度は
一気に上がることになったようである。

もっともまだ若かりし頃のトムは
この事態もあまり素直には喜ばず、

むしろイーグルスの音に
噛みつくような発言をして、

後にはドン・ヘンリー(♯149)に
謝罪を入れたなんてエピソードも
見つけてしまったのだけれど。

まあ横道はさておくとして、
やはりこの実績があったが故
だったのだろうとは思われるが、


このデビュー作、セールス的には
さほどの成功を収めたとは
なかなかいえなかったにも関わらず、

80年代の開幕までに彼は
計六枚のアルバムを

同じアサイラムから
発表することができている。

それらのカタログからの
コンピレーションが
今回掲げた一枚だという訳である。

なるほどゲフィンだからこそ
リリースできたのかなと
ちょっとだけ思わないでもない。


どこがどうだから
そう感じるのかという点までは

自分でもまだきちんとは
説明できないでいるのだけれど、

70年代という時代すら
ほとんど感じさせないような、

そういうものを
市場に出し続けられる
レコード会社というのも、

なかなかないような
気がしないでもないのである。


しかしまあこの人の書く曲には
まったく不思議な美しさがある。

時折このまま
映画のBGMになるよなあくらいの

ロマンティックでかつ
技巧的な旋律や展開が
随所に登場してくるのである。

それが決して甘美とか
流麗といった普通の形容を

よしとしてこないのは
ひとえに彼の声の故である。


随所で効果的に導入される
サックスやトランペットが

派手さを添えるのではなく
むしろある種の倦怠感の

記号として機能していることも
また特筆すべき特徴であろうか。

ところでこのトム・ウェイツ、
なんとなくありがちといえば
ありがちなのかも知れないが、

それこそジュディ・シルと同様
離婚家庭の出身で、


十五くらいの時からもう
ピザ屋のバイトに勤しんでいて

しかもそれも
明け方の三時とか四時とか
そういう時間に

ようやく終わりになるという
ハードな仕事だった模様。

そんな生活を、
ほとんどハイティーン時代の
全部といっていい期間
続けていたのだそうで、

この時期の経験が
彼の独特の世界観を

形成したと捉えるのがやはり
妥当なところだとは思われる。


さて、このASYLUM YEARS収録の
どの一つのトラックをとっても、

まるで的確に圧縮された
上質の短編小説を
じっくりと読んでいるような

そんな手触りと
心地よさとがあるのだけれど

中でも白眉がやはりこの
Tom Traubert’s Bluesなのである。


もちろんタイトル通り、
このトム・トルバーツというのが

同曲の語り手であり、
主人公である。

舞台はたぶん灯りさえもう
ほとんど消えてしまったような
真夜中の裏路地辺りであろうか。

とはいえ物語というものが
決して明確にある訳ではない。

全編は愚痴めいた言葉の
羅列でしかないとも取れる。


ただし言葉の数は
やたらと多い。

うらぶれた景色や人々の描写。

虚実もすぐには判然としない
幾つかの過去のフラッシュバック。

そういったものが渾然となって
Waltzing Matildaという

実は他の楽曲からの引用である
サビの一節へと
連なっていくのである。

このWaltzing Matildaというのは
元々はオーストラリアのいわゆる唱歌で

何度か国歌に採用することを
検討されたりしたこともある
有名な曲なのだそう。

ここでいうWaltzは
いわゆる三拍子の
ダンスミュージックのことではなく、

放浪するという
意味なのだそうで、

そもそもこの元歌はどうやら、
家族も仕事もない流れ者が、


ただ一つ夜を共に
明かしてくれる存在である
一枚の毛布に

マチルダという名前を
つけていたというところから
まずは始まっているらしい。

この放浪者がある時、
空腹のあまり、
群からはぐれた羊を見つけ

誰かの所有物であるとは
重々知りながら
殺してそのまま食べてしまう。

食べきれなかった残りの肉や骨は、
たぶん例の毛布と一緒に
袋の中にしまっておくのだけれど、


やがて警官がやってきて、
この男にその袋の
中身を見せろと詰め寄ってくる。

命令に従えば
捕まってしまうとわかっていた
この放浪者は

袋ごとそばにあった
池へと身を投げてしまう。

以来この岸辺を人が通るたび、
誰か俺と一緒に
このマチルダを連れて

放浪の旅に出てくれる者は
いないのかよという歌が
聴こえてくるようになったのだと

どうやらそんな感じの
内容であるらしい。

さすがにどれほど美しくても
これでは国家にはならないよなと、

まあ、まずは僕も
そう思った訳なのだが、

この、悲劇というには
なんとなくしょぼいといおうか、

ただただ哀れを誘われるしか
反応できないようなこの物語の
呼び起こしてくる種類の感情に、


外枠というか本体といおうか
とにかくこの

トム・トルバーツなる主人公が
紡いでくる物語たちが絶妙に
オーヴァーラップしてくるのである。

あるいはそれは
敗者の矜持なのかもしれないし、

逃げ道のない
閉塞間なのかもしれない。

それらが言葉だけでなく
音楽からにじみ出てくるところが
やはりすごいのだと思う。


そもそもこういう
複雑な組み立て方だけでも、
この人の作品の作り方が

非常に技巧に富んでいることが
察せられるかと思うのだが、

そういう側面が決して
鼻につくような出方をしてこない

むしろ音楽の醸し出すものは
結局は暖かみのある
穏やかさのようなものへと
収斂していくところが

他には簡単には見つからない
最大の魅力なのだと思う。

これもまたどうしても
陳腐ないい方になってしまうが、

たぶんこのトム・ウェイツが
世界へ向けている眼差しは
どこまでも優しいのであろう。

正直僕も、本稿を起こすに当たり
ずいぶんと久し振りに
彼のレコードを聴いたのだが、

改めていろいろと
感じ入ってしまった次第。

なんかこのまま、またしばらく
続けて聴いてしまいそうである。


Grapefruit Moonなんかも
すごくいい曲だしね。


では小ネタ。

今回のTom Traubert’s Bluesの
初出となるアルバムは

SMALL CHANGESという
彼の三枚目の作品なのだけれど、

このアルバムには
同曲ではないのだが、


一曲だけスリーヴに
歌詞が掲載されていない曲があり、

その代わり、
歌詞が書かれているべき場所には、

もし同曲の歌詞をご希望の方は、
御自身の写真とそれから

クリーピング・チャーリーという
あちらの紫蘇のような植物の
枯れた葉っぱを二枚、

それにちゃんと切手を貼って
住所を明記した
返信用封筒を同封し、

ハリウッドにある
トロピカーナ・モーター・ホテル
気付で

トム・ウェイツ宛てに
送ってくれれば、

折り返し歌詞を返送する旨の
メッセージが記載されている。

当時本当に試みた人が
どれくらいいたのかまでは
さすがにわからなかったのだけれど、

でもゼロでは
なかったんじゃないかなあ。


アメリカだしね。

ちなみにこのコメントの最後には
返送まではおおよそ

一ヶ月の猶予を戴きたいとの
注意書きまでついている。

なんか、すごく
この人らしい悪戯である。


さて、次回でいよいよ
この企画も第200回。


相応しい大物を
採り上げる予定でいる。