ブログラジオ ♯150 Hotel California | 浅倉卓弥オフィシャルブログ「それさえもおそらくは平穏な日々」Powered by Ameba

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フライ、ヘンリーときて、

やらないつもりも当然ない。

 

本体といって

しまってもいいのかどうか。

 

とにかくイーグルスである。

 

 

 

 

しかしこの曲ばかりは

正直いって別格である。

 

まあだからこそ、

150というキリ番に

持ってきていたりも

するのであるが。

 

いずれにせよこの

Hotel Californiaは、

 

ツェッペリン(♯4)の

Stairway to Heavenと並んで

 

ロック/ポピュラー・ミュージックと

呼ばれる種類のジャンルの音楽が

この世界に産み落としてくれた

 

最も重要な楽曲と呼ぶべき

その双璧だろう

くらいにまで思っている。

 

それほどこの二曲は突き抜けている。

 

ロックのスタイルと方法論に

忠実に則って作られながら、

 

期せずしてどこか

別の次元にまで

たどり着いてしまった、

 

たぶんそういうレヴェルの

存在であるといっていい。

 

ではどんなレヴェルかと

改めて問われてしまえば

すぐには言葉に詰まるのだが、

 

神話とかバイブルとか

そういう種類の物語群と

 

おそらくは並列に語られて

しかるべきような

 

そういった位置にまで

十分に手が届いていると

 

それくらいいってしまっても

いいのではなかろうかと思う。

 

だからもう、いわば、

個人の手による作品として

評価を試みるような域など、

すっかり超えていて、

 

そこにあるそういうものとして

受け取るしか術がない、みたいな

いってみればそんな感じである。

 

少なくとも僕の知る限り、

ここまでの形容を

受け止められるような楽曲は、

 

もちろん異論は認めるけれど、

古今東西たぶんこの2曲しか

存在しないのではないかと思う。

 

次点でクィーン(♯33)の

Bohemian Rhapsodyが

挙がってくるくらいではないか。

 

ソングライティングに秀でた

レノン/マッカトニーや

E.ジョン(♯5)の作品群にも

ここまでのものは見つかってこない。

 

ストーンズ(♯3)の

Sympathy for the Devilになら

近い手触りを

感じないでもないのだけれど、

 

あれはまあ、

元ネタがあるからなあ。

 

でもこの感じ、なんとなくでも、

わかっていただければ嬉しい。

 

だから現実の地平に

とどまってしまうようなことは、

 

曲そのものが

決定的に拒んでいる。

 

そんな気がしてしまうのである。

 

歌詞と旋律とそして音楽と

そのすべてが相俟って、

 

僕らをどこか違う場所へと

無理やりにでも

連れて行こうとしている。

 

この二曲を聴く時に

いつも感じるのは、

そういった種類の手触りである。

 

 

ちなみにここで

ツェッペリンを取り上げた際には

 

Stairway to Heavenを

やろうかどうしようか

ずいぶんと迷ったものである。

 

企画を始めたばかりだったと

いうこともあったのだけれど、

 

ちゃんと書き切る自信も

まだ到底なかったし、

 

それにちょっとだけ、

普通の選曲にはならない方が、

 

いいんじゃないかみたいなことも

考えないでもなかったので、

 

あの時は結局

Thank Youにしてしまった。

 

やっぱりちょっと頑張って

ちゃんとやっておけばよかったなと、

少なからず後悔している。

 

いや実際、同曲に関しては、

エクストラできちんと

取り上げておこうと、

何度かトライしてもいるのだが、

 

上手くまとめきれないまま、

今に至ってしまっていることも

また本当だったりする。

 

でもまあ、いずれ必ず。

 

エルトン・ジョンもまだ

予告めいたこと

 

ここで書いたにもかかわらず

全然扱えていないしね。

 

 

まあとにかく実際

この2曲のリリクスは

 

今までにどれほど

読み返しているかもわからない。

 

読むたびになんか、

違った意味が現れてくるというか、

ありていにいえば発見がある。

 

逆にいえば、

完全に理解することなど、

決して許さない、

そういう迫力なのだと思う。

 

それはやはり、

テキストの強さといって

差支えない種類の力であろう。

 

もちろんどちらも

メロディーもアレンジも録音も

本当に素晴らしいのだけれど、

 

でも歌詞を抜きにしては

少なくともたぶん僕は

 

ここまで打ちのめされることは

なかっただろうと思う。

 

 

さて、Hotel Californiaの開幕は

砂漠の薄暗いハイウェイの光景である。

冷たい風が、主人公の髪を揺らす。

 

続いて登場するColitasの語が、

昔から色々と

話題になってもいるのだけれど、

 

当時のイーグルスの

マネージャーの証言によれば、

 

同曲の制作中にフライとヘンリーとが、

小さなつぼみっていうことを

 

メキシコではなんて表現するんだと、

たぶんローディの一人に聞いたところ、

 

彼が答えた言葉が

この語だったいうことらしい。

 

ところがこのコリタスなる言葉は

そのメキシコでは時に

 

大麻の隠語として使われる

場合もあるらしいこともまた

どうやら本当の模様である。

 

だから、なんかこういうのに

ある種のシンクロニシティ―

めいたものを

感じないでもないのである。

 

物語の方が、その言葉を

どうしても必要とした、

 

いうなればそんな感覚である。

 

もちろんフライとヘンリーとが

上の質問を放った際、

 

麻の花のつぼみを

指していたのだという可能性も

 

まったく排除してしまうことは

実はできないのかもしれない。

 

そしてしかも、この語と結ばれた

Warm smellという表現が、

 

消えきっていない

煙草の吸いさしのようなイメージを

 

容易に想起させることも

またどうしたって間違いではない。

 

でも、それでもなお

この時この語を選んだ

たぶんヘンリーの方だと思うが、

 

その人物は、この箇所で

薬物の存在を暗示することなど、

 

決して最初から意図していた

訳ではなかったのではなかろうか。

 

なんとなくそんな気がするのである。

 

詩作の全体において、物語というか、

ドラマはむしろ整然と展開しているし、

 

大麻から容易に連想されるはずの

サイケデリックとでもいおうか、

 

そういう色彩感が

ことさら強調されている訳でもない。

 

確かにこのホテルの

そこかしこから聞こえる声は、

 

どこか幻聴めいてもいるが、

少し性質が違うかと思われる。

 

いずれにせよ開幕直後のこの箇所で

このColitasの語が導入されたことで、

 

結果として砂漠のハイウェイで

大気に漂ってくる匂いが、

 

この世界には実は

本当には存在していない

 

そういう種類のものに

なってしまっていることが

なんというか、非常に興味深い。

 

さて、そしてこの主人公は、

目の端に見つけたかすかな明かりに

 

導かれる、あるいは

誘われるようにして、

 

ついにこの

ホテル・カリフォルニアへと

迷い込んでしまうのである。

 

もっともこのホテルは

決してカリフォルニアのどこかに

建っている訳ではもちろんない。

 

そんなことはたぶん昔から

誰の耳にも明らかであろう。

 

この辺りでもう

結論めいたことを書いてしまうと、

 

たぶんこの場所は、

いわば死者の国への入り口の

そのすぐ手前なのではないかと思う。

 

主人公の到着直後の場面で

無造作といっていいほどの

気安さで放り込まれてくる

 

This could be heaven or

This could be hellのラインが

 

すでにこの彼の状態を、

いわば過不足なく

暗示しているといっていい。

 

たどりついた場所が

天国か地獄かを

訝らなければならない、

 

この彼はだから、

本人が気づいているかどうかは

ともかくとして、

 

すでにもう後戻りの効かない

そういう存在になって

しまっているはずなのである。

 

僕自身、いったいいつ自分が

こういう見方にたどりついたかは

正直はっきりとは覚えていない。

 

実際最初に聴いた中学の時や

高校大学くらいの辺りでは

 

単純に、いや、いつ聞いても

本当にカッコいい歌詞だなあ、

くらいにしか

考えていなかったと思う。

 

もっと正直なところをいえば、

自作『北緯~』に

同曲を引用した際にもまだ、

 

こういう視座には

至ってはいなかったはずである。

 

わかっていれば

あそこでの登場のさせ方は

たぶんできなかったと思う。

 

でもある時どこかで、

ああ、こういうふうに見るんだ、と

思いがけずに気がついて、

 

それであのラストを含め、

様々なものがいわばすっかり

腑に落ちたことも本当である。

 

鐘の音、ローソク、

そして部屋へと案内してくれる女性。

 

そういったファクターを

点描のように張り付けて、

 

ワン・コーラス目は終わり

曲はまず最初のサビへと突入する。

 

 

ホテル・カリフォルニアへようこそ

ここはとても素敵なところ――

 

 

このいわば紋切型の一節が、

これほど不気味に響く場面は

 

世界中のどこを探しても、この

ホテル・カリフォルニアのほかには

見つからないといっていい。

 

Such a lovely placeのラインが

物悲しいとしかいいようがない。

あのメロディーに

載ってくるところがまたすごい。

 

僕なんか最初に聞いた時は

絶対lonelyだと思った。

 

ちょっと発音が変だよなと、

首を傾げながら歌詞を見て、

へえ、と思ったものである。

 

こういう具合に旋律の手触りと

あえて印象のまったく異なる

言葉がぶつけられてくることで、

 

そこにある種新しい

意味の形が生まれてしまう。

 

こういう手法は

歌にしか許されていないし、

 

またここまでの試みが

為されている曲も滅多にない。

 

 

余談ながら佐野さんの最新作

『BLOOD MOON』の収録曲には

 

実はよく似たアプローチが

一つ二つでなく見つかってくる。

 

いや、この中の幾つかも

エクストラでやりたいな、と

ずっと思っているのだが、

 

そちらもなかなか

手が回らないままでいる。

 

そのうち必ずやるけれど

もし興味を持たれた向きがあったら

 

是非まずは「TOKYO SKYLINE」を

聴いて下さい。

 

今回のHotel Californiaとは

向いているベクトルが

まったく違ってこそいますが、

 

こちらも掛け値なしに

名曲の名に相応しいトラックです。

 

 

いや、横道はそろそろ

これくらいにしておこう。

 

そそくさと本筋の

Hotel Californiaへと戻ることにする。

 

2コーラス目に入ってもまた、

印象的な表現が続々と出てくる。

 

中でも僕は個人的に

 

Some dance to remember

Some dance to forgetなる

 

この対句が大好きである。

 

覚えているためのダンス、

忘れるためのそれ。

 

こんな表現、

自分でも書きたいよなあ、と

心底思う。

 

でも、踊っている彼女を含めた

このホテルにいる誰も彼もが、

 

先述したような、この主人公と

同じ立場にあるのだと

視点を変えて眺めてみると、

 

この二行もまた、

なんともいえぬ切なさを帯びて

聴こえ始めて来るのである。

 

夏のような汗を

かいてしまうほどのダンス。

 

たぶん彼らはそうやって、

次の場所へ持っていくものと

 

捨て去っていくものを

選び分けているのであろう。

 

――。

 

いや正直、間違っているというか

見当違いというか

牽強付会に過ぎる可能性も

決してなくはないのである。

 

本当のところは

作者であるヘンリーとフライ、

それから当時参加していた

 

ほかのメンバーにしか

基本的にはわからない訳だし、

 

僕は当然、彼らにこの解釈を

直接ぶつけてみたことなどない。

 

それからこんなことを書いてある

二人なりあるいは

フェルダーなりのインタビューを

 

どこかで見つけた訳でもないまま、

このテキストを起こしている。

 

でもこういうふうにも

読めるんじゃないかな、と

ある日ふと気がついた時に、

 

この曲の今に至るまで

微塵も揺るがない訴求力の

 

その秘密が見えたような

気持ちになったことは本当である。

 

ティファニー、メルセデス。

 

上の対句の直前に

巧妙に挿し込まれている

これらの語が、

 

いわば現世的な欲望を

象徴するように

機能していることも

たぶん間違ってはいないだろう。

 

そう考えることで、

三コーラス目に登場してくる、

 

彼らがどうしても

殺すことのできない獣の

 

その正体がなんとなく

見えたような気にもなった。

 

私たちは皆、

私たち自身という装置によって

この場所に囚われている――

 

昔は意味不明だった

三コーラス目のこの一節もだから、

 

これほどモータリティなるものを

ストレートに表現している

 

センテンスもなかなかないな、

くらいに思えるようになった。

 

念のためだが

上のモータリティとは

 

死すべき運命と

だいたいの場合訳される、

 

そういうだから

生き物としての

避けられない宿命のことである。

 

おそらくはそういう一点を

通過してしまった

このホテルにいる人たちに

 

本当の意味で

眠りが訪れることはないのだろう。

 

故にどんな真夜中でも

声は聞こえ続けるのである。

 

 

三コーラス目の後半で、

元の世界に戻る道を

 

見つけなければならないと、

焦り駆け回る主人公に

 

大丈夫だと、Night man

つまりは夜警が告げてくる。

 

 

我々は皆、これを受け入れられるように

最初から作られているのだから――

 

 

そしてあの、断末魔にも似た

それこそ出来のいい怪談の

 

まるでそのラストの一行のような

You can never leaveの一言で

 

物語は唐突に断ち切られてしまう。

 

言葉はそれ以上登場せず、

フェイドアウトが終わるまで

 

あとはあの有名な

ツイン・ギターが続いていく。

 

このラインもまた、

なんとも雄弁なのである。

 

それにしても、

 

チェックアウトはいつでもできるが

立ち去ることは決して叶わない――

 

なんて、なんと鮮烈で

強烈なクロージングであることか。

 

そしてこのラインがあることで

その話者であるNight manが

 

いわば字義通りの

おそらくは決して明けることのない

 

夜そのもののような存在にも

思えてくるから不思議である。

 

 

もちろんこういった何もかもは

決して曲中で

明言されている訳ではない。

 

むしろ言葉は全編を通じ

断片的に過ぎるくらいでさえある。

 

それでも浮かび上がってくる、

それどころかむしろ

 

ひしひしとこちらに

迫ってくるような景色がある。

 

これが僕がこの曲の歌詞を

神話の域と、

最初に断じた所以である。

 

 

最後にもう1カ所だけ、

やはり有名なラインに触れておく。

 

二コーラス目の後半で、

中庭のダンスを眺めながら

 

ワインを求めた主人公に

キャプテンと呼ばれる人物が答える。

 

 

残念ながら私どもは1969年以来

その手の酒を置くことを

止めてしまっているのです――

 

 

この箇所も発表以来

実に様々な解釈を呼んできた。

 

西海岸のレコード産業の

堕落を揶揄しているのだと、

 

つまりはこの年以来、

業界や音楽シーンが、

 

志みたいなものを

失いつつあるのではないかという

 

そういうイーグルスからの

シーンへの警鐘なのだと

そういう読み方ができるだろうと

 

どこかに書いてあったのを

確かに目にした記憶がある。

 

まったく首肯する訳でもないが、

その可能性を

排除できる訳でもないだろう。

 

僕自身にも正直まだ、

ここの上手い解釈は

まるで思いつけていない。

 

僕がまだ三つでしかなかった

1969年という年が、

 

本当はいったい

どういう年だったのか。

 

そんなことが今よりもう少し

わかるようになったとしたら、

 

ひょっとしてまた、何か別のものが

目の前に見えてくるのかもしれない。

 

だからこの曲は、出会ってから

35年かあるいはそれ以上の

長い時間を経てもなおまだ僕に

 

新たな発見の余地を

残してくれたままでいるのである。

 

本当、すごいよね。

 

 

さて実はドン・ヘンリーは、

00年のソロ作品INSIDE JOBの

発表に伴われたツアーで、

 

このHotel Californiaを

自身のセット・リストに

載せてくれてもいるのだが、

 

この時は

ラテン・ロック調にアレンジした

ヴァージョンでの披露だった。

 

これが正直、

あまりいただけないのである。

 

声は同じだというのに、

なんだか重要なエッセンスが

 

すっかり抜け落ちて

しまって聴こえる。

 

改めてこのオリジナルの

トラックの完成度というものに

 

思い馳せたことは

もちろんなのだが、

 

だからやっぱりこの

Hotel Californiaにおいては、

 

曲の全体を通じて

リリクスと同じほどの重みを、

 

ギター・ワークのすべてが

保持しているのだと思う。

 

イントロ、コーダはもちろん

バッキング・パターンのすべてが、

 

このHotel Californiaの

世界観というか、

描き出す光景の

すべてを支えているといっていい。

 

だからまあ、

フェルダーがこの曲に関し、

 

自負みたいなものを持つことは

至極当然のことだと思う。

 

むしとフェルダーの作った

いわゆるデモ・トラックが

どうにか近づこうとしていた領域を、

 

ヘンリーが見事に

言葉にすることに成功した

 

この曲はたぶん、そんな感じに

できあがったのだろうと

個人的にはそう想像している。

 

それ故にこそ、この前触れた

フェルダーとバンドとのトラブルが

惜しまれて仕方がないのである。

 

 

では締めの小ネタに行く。

 

今回は久し振りに手前味噌。

 

09年に僕は別冊カドカワさんの

井上陽水特集号で、

 

僕自身にとっても

生まれて初めての

 

ライヴ・レポートという形の

テキストを書かせて

いただいているのだけれど、

 

その中でも実は

このHotel Californiaに

ちょっとだけだけれど触れている。

 

同曲に関する僕の理解の

基本のところは、

今回起こした通りなのだが、

 

だからこの時もこの陽水さんの

「リバー・サイド・ホテル」って

 

実はたぶん

あのホテル・カリフォルニアと

同じ場所に建ってるよね、

 

みたいなことを

ほんのわずかだけれど、

持ち出していたりするのである。

 

寝顔を見せるだけで、

チェック・インできるのは、

 

まあそんな場所なんじゃ

ないかな、みたいなことを

数行だけれど書いている。

 

それこそもう、7年も前の

テキストになる訳だけれど、

 

面白く読んでいただいて、

ご自身のブログなどでも

 

言及して下さっている方が、

ちらほらと見受けられるのは、

 

本当、喜ばしい限りである。

 

ついでなので、

改めて書影も貼っておく。

 

 

 

 

 

お目に留まりましたら幸甚です。