ブログラジオ ♯149 The Boys of Summer | 浅倉卓弥オフィシャルブログ「それさえもおそらくは平穏な日々」Powered by Ameba

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では今回は、ヴォイス・オブ・

ホテル・カリフォルニアこと

 

ドン・ヘンリーの登場である。

 

 

 

 

正直なところをいうと、

前回のグレン・フライ(♯148)の

ソロ・アルバムに関しては

 

発売当時は

手を出さなかったのだけれど、

 

このドン・ヘンリーの方は、

割ときっちり追いかけていた。

 

それは何より、この84年の

The Boys of Summerが

 

相当カッコよかったが故である。

 

どこかあの

Hotel Californiaにも

通じる種類の

 

ある種の切迫感に似た感覚を

強烈に喚起してくる曲だった。

 

いや、正直に告白しておくと

むしろドン・ヘンリーの名前が

きちんと頭に入ってきたのは、

 

僕なんかは実際この曲の

おかげだったといっていい。

 

もちろんイーグルスの

名前と音こそ知ってはいたが、

 

前回もいったように当時は

同バンドはすでに

解散してしまっていたから、

 

さすがにメンバーの名前まで

きちんと覚えてはいなかった。

 

だからこの

The Boys of Summerが

プロモーションされる際に、

 

元イーグルスのドン・ヘンリーとの

紹介が随時入ってきて、

 

ああ、いわれてみれば、

Hotel Californiaの

声の人だ、みたいな感じで、

 

フライと一緒にようやく

そういった認識が

 

できあがっていったとでも

いったような感じであった。

 

 

厳密なところを記しておくと、

イーグルスの最後のツアーは

79年から80年にかけて行われ、

 

その後バンドは

いわゆる休眠状態に入り、

 

82年になってようやく

正式な解散が表明された。

 

そして同じ年、このヘンリーがまず

最初のソロ・アルバムを発表し、

 

その中からもうすでに

Dirty Laundryなるトラックが

全米三位のヒットとなっていた。

 

そして84年に今回の

BUILDING THE~が登場し、

 

それから五年後の89年に

ソロとしての三作目、

 

THE END OF THE INNOCENNCEが

見事グラミーを射止めている。

 

だから前回のThe Heat is On、

そしてその直後の

You Belong to the Cityと

 

80年代の中盤に

シングル・ヒットを連発した

フライと並んで、

 

80年代のシーンを通じてもまた

彼らは終始、圧倒的な存在感を

誇っていたといっていい。

 

これもまた僕がこのイーグルスを

アメリカが産んだ

最も重要なバンドだと

断言してしまう所以である。

 

 

しかもこのドン・ヘンリーの

アルバム作品は

本当に充実しているといっていい。

 

イーグルスのレコードからも

十分わかると思うのだけれど、

この人の音域は相当広い。

 

なのに苦し気になる場面が

ほぼまったくなくて、

しかも表現力がまったく揺るがない。

 

そのヴォーカルが、

様々なタイプの楽曲に載ってくる。

 

しかも同時に、

彼の声が歌うその言葉たちが

非常に魅力的なのである。

 

 

たとえば今回のチョイスである

The Boys of Summerには

 

冒頭から終始、

何ともいえない哀切な空気が

弛緩なくまとわりついている。

 

誰もいない道、

誰もいない浜辺――。

 

こんなシンプルで

かつ強力なイメージが

 

夏の少年たちというタイトルとは

微妙な祖語をはらんだ光景を

開幕から過不足なく描き出してくる。

 

この違和感の作り方もまた

どこかHotel Californiaの

アプローチと

通じるものがあるといっていい。

 

しかも実際このタイプの曲には、

彼のヴォーカルが

見事なほどにはまるのである。

 

さらにはリリクスによって

メロディーが微妙に変化してくる

 

その揺らぎ加減とでも

いうべきものが

非常に魅力的なのである。

 

これはもちろん

イーグルス時代からぶれることのない

この人の最大の特徴だといえよう。

 

同曲の中でとりわけ僕が

気に入っている一節は

終盤になってから登場してくる

 

Dead head Sticker on a Cadellacという

いかにも奇妙な表現と、

そこから続いていくラインである。

 

頭の中の小さな声が、

振り向くな、

本当に振り返ることなど、

実際にはできはしないんだ――

 

こんな表現というか

展開の仕方というのは

 

この人の作品にしか

登場してこないような気がする。

 

字義通りこれは、

たぶんドクロ・マークの

 

ステッカーを貼った車が

通り過ぎていく

 

その一瞬の光景を

ただ描写している訳なのだが、

 

この一節が乱暴に挿入され、

さらに次のラインを導き出すことで、

 

過ぎ去っていく夏に重ねて

別れた恋人を惜しむ、

 

それだけの歌だったはずの

リリクスの全体が、

 

何かこうもっと

不気味としか形容しようの

ないような場所へ、

 

一気に放り込まれてしまう

そんな気がしてたまらない。

 

この頭の中の小さな声というやつは、

たぶんHotel Californiaの

天井から響いていたあの声と

 

同じ種類のものなのだろうと

そこまで断言してしまったら

 

あるいはいい過ぎに

なってしまうかもしれないけれど、

 

いずれにせよこの

The Boys of Summerが

ある意味では

Hotel Californiaとも呼応する

 

ヘンリーのソロ・キャリアの中で

もっとも重要な一曲であることは

たぶん揺るがないに違いない。

 

ちなみに同曲のPVでは、

少年が黙々と

ドラム・セットを叩いている。

 

このモノクロームの映像もまた、

単なる未練や

ノスタルジーに留まらない

 

この曲の隠し持つテーマを

適格に表現して

いたようにも思われる。

 

 

しかしながら個人的に

このBoys of Summerにも

負けず劣らぬほどの

 

強烈なインパクトを

受け取ったのは、

 

タイトル・トラックである

Building The Perfect Beastという

一曲からだった。

 

この曲、手触りが相当異質である。

少なくとも

オン・エア向きでは決してないし、

 

ベスト盤などに

ピック・アップされてもいない。

 

それもまあ、道理であろうとしか

いいようがない気も確かにする。

 

コナン・ドイルあたりの原案による

アドベンチャー・ムービーの

そのサウンド・トラックのような

 

不思議な気配のイントロで

B面の頭の

配置である同曲は開幕している。

 

たとえるなら、恐竜の

シルエットだけが見えている。

そんな感じであろうか。

 

もちろんこのギミックは、

曲のテーマと

寸分の狂いもなく呼応している。

 

完璧な獣を作り上げる。

 

曲のいわんとしていることは

だいたいまさにこの通りで、

 

なるほどなんだか

マッド・サイエンティストの

ひそかな企みのようなもの、

 

そしてその基盤を成す

衝動みたいなものが

 

同トラックが描き出そうとしている

核心であるといっていい。

 

もちろんそれは

基本的には糾弾の対象でしかない。

 

でもここで繰り出されてくる

短いフレーズたちがいつしか、

 

人類の歴史そのものみたいな

そういう何かを

ヴィヴィッドに描き出してくるのである。

 

こういった特殊な手応えが

このドン・ヘンリーの詩作に関して、

 

批評性という言葉が

もっぱら用いられている所以であろう。

 

しかも異質さは

これだけにとどまらない。

 

この曲のリズムは

非常に変則的である。

 

基本使われてる打楽器は

アフロ・ビートと呼ばれる

種類のものに極めて近い。

 

このプリミティヴさ加減が、

我々人類の起源から、

 

現在に至るまでの歴史という

ある種の俯瞰の構図と

 

まったく絶妙に

反響してくるのである。

 

さらにこの曲、Aパートが

七拍子でできている。

 

たぶんポップ・ミュージックで

こういったポリリズムを

耳にしたのはこの時が最初だった。

 

ポリス(♯33)にも

似たアプローチのトラックが

あった気もするが、

聴いたのはこちらが先だった。

 

もちろんEL&P(♯100)や

イエス(♯35)辺りの

純正のプログレにまでいってしまえば、

 

もっと不可解なリズムも

使われているのだろうけれど、

 

とにかくなんといおうか、

七拍で演奏のリズムが

まるで乱れていないところが

当時も今も

実に不思議でたまらなかったりする。

 

そして考えてみれば、

このアイディアが

同曲の不気味さを

巧妙に助長してもいるのである。

 

もうね、ただ唸りました。

 

では完璧な獣とは

いったいなんなのか。

 

もちろんそれを迂闊に

断じてしまうような

野暮なことは

ドン・ヘンリーは決してしない。

 

ただそれが解き放たれる日が

間近に迫っていることを

高らかに告げるだけである。

 

そしてある種乱暴でもある、

マイナー・スケールのラインの上に

 

あえてGlory Hallelujahの

フレーズを載せて繰り返して

この予言を補強する。

 

この辺りがいかにも

この人らしいよなあと

 

当時も今も変わらずに

そう考えてしまうのである。

 

 

それから僕がこのアルバムを

非常に気に入ったのには

実はもう一つ理由があって、

 

全10曲中4曲で

僕が割と偏愛している

女性シンガーである

 

パティ・スマイスのコーラスが

聴けるからだったりもしたりする。

 

ついでながら現行のCDでは

本作は全11曲に

なってこそいるのだが、

 

LPでの発表時は

一曲収録が少なかった。

 

正直にいうとちょっとだけ、

曲順に違和感があるのだが、

 

まあこればかりは

いっても仕方がない。

 

いや、いってしまっているけれど。

 

まあとにかく

このパティ・スマイスは

 

アメリカ編の頭(♯136)から

すでに名前を出している通り、

 

あのエディ・ヴァン・ヘイレンが

D.L.ロスの後釜にと

 

一時期は獲得を画策した

ヴォーカリストなのである。

 

そのうえこの

ドン・ヘンリーまでもが

結構彼女を贔屓にしている。

 

彼はこのパティを

次作でも一曲

コーラスに起用したのみならず、

 

後には彼女の作品に

デュエットで参加して、

 

Sometimes Love Just

ain’ t Enoughというトラックを

 

全米二位にまで

引っ張り上げてもいるのである。

 

まあ彼女については、

もう少し回数が進んでから

 

改めてちゃんと

取り上げる予定でいるので、

 

詳しいことはそちらに譲る。

 

 

ほかにも彼のアルバムでは

実はいろんなゲストが聴ける。

 

本作の二曲目には当時

フリートウッド・マック(♯46)の

リンジー・バッキンガムが

 

ギターとコーラスで

参加しているし、

 

それから三曲目の

Man with a Missonの

 

ワン・コーラス目の中盤に

Drop deadという一言の箇所だけ

 

コーラスが追いかけて

同じ言葉を繰り返しているのだが、

 

ここに聞こえているのは

べリンダ・カーライルの声である。

 

さらに同曲のギターは、

デビュー直前の

チャーリー・セクストンだったそうで。

 

ほか、ハートブレイカーズや、

TOTOの主要メンバーが、

本作のクレジットには

名前を連ねている。

 

さらに次作にはシェリル・クロウや

エディ・ブリケル、

 

さらにウェイン・ショーターに

あのアクセル・ローズの名前も

クレジットされているので、

 

その辺りも

楽しめる人には楽しめるはずである。

 

 

さて、89年に発表されたその次作

THE END OF THE INNOCENCEも

 

前述のグラミー獲得の

実績が示している通り、

 

やはり極めて充実した一枚である。

 

ブルース・ホーンズビーと

共作したタイトル曲は

もちろんのこと

 

The Last Worthless Eveningと

The Heart of Matterを併せて

本作所収の計三曲のバラードは、

 

イーグルス時代の

DesperadoやWasted Timeといった

名バラード群に

十分比肩する出来であるといえよう。

 

とりわけアルバムの

クロージングである、

 

The Heart of Matterのサビで

Forgivenessの語が、

何度も繰り返されてくるのだが

 

ここがなんともいえずいいのである。

 

この曲は一本の電話から始まっている。

 

それはたぶん、

昔の恋人からの連絡で、

 

おそらくは互いの人生が、

もう二度と交わらないだろう、

 

そういう彼女の決断を

告げてくるものである。

 

たとえ君がもう

僕を愛していなくても、

 

許すということがたぶん

肝要なんだと思うんだ――

 

まあニュアンスとしては

大体こんな感じであろうか。

 

ところがトラックの

最後の最後になって、

リリクスはやはり唐突に

その趣を変えてくる。

 

 

肉体は衰え、

灰は宙に撒かれてしまう

 

だから僕は

容赦ということを考えるんだ――

 

 

つまりここでもまた容易に

死というものを想起させてくる

 

二つのラインが

登場してくることによって、

 

Forgivenessの語が

人の域に留まる種類の用法から

 

神が人へとたもうそれへと

一瞬にして変貌してしまったような

 

そういう手触りが

起きてくるのである。

 

異化作用といってしまえば

単純なくくりに過ぎるとも思うが

 

これがやはりこの人の詩の

大きな特徴なのである。

 

さらにいえば

このニュアンスはたぶん

 

アルバムの開幕であり、

全体のタイトルにも掲げられている、

 

無垢の終わりというフレーズと

絶妙に呼応してもいる。

 

少なくとも僕には

そのように思われて仕方がない。

 

いずれにせよ、こういう思索を

引きずりだして

くれるような歌詞には

なかなか出会えることがない。

 

 

しかしながらこの

END OF THE INNOCENCEの後、

 

ソロとしてのヘンリーの活動は

長い沈黙期間に入ってしまう。

 

94年にはイーグルスの

最初の再結成と

それに伴うツアーがあったから、

 

その影響だろうと

勝手に思い込んでいたのだけれど、

 

どうやらこの時期ヘンリーは

当時の契約レーベル、

ゲフィン・レコードとの

 

係争状態に

入ってしまっていたらしい。

 

正式な詳しい記述を

参照した訳ではないので、

半ば推測ではあるのだが、

 

問題の根幹には、アルバムの

参加ミュージシャンたちへの

ロイヤルティーの支払いが、

 

厳正になされなかったという

状況があった模様である。

 

なんだかいかにも、

らしいな、という気が

しないでもなかった。

 

なるほど00年の

11年ぶりとなったソロ作品

INSIDE JOBは

 

どうやらワーナーから

発売されている模様である。

 

さらにいうと

昨年のさらに15年振りの新作は

キャピトルからの

リリースとなっているようで、

 

いや、なかなか大変である。

 

 

さて、本年のグラミー賞の授賞式で、

ヘンリーとイーグルスの面々は、

 

ジャクソン・ブラウンを

ゲストに迎え

 

フライ追悼のために

Take it Easyを演奏しているらしい。

 

その後、もうイーグルスが

実際にプレイすることは

 

おそらくないだろうという趣旨の発言が

ヘンリーの口から出ている模様でもある。

 

これはでも

首肯するしかないよなと思う。

 

今年はだからやはり、

72年に登場した

イーグルスというバンドが、

 

本当にその存在に

終止符を打った年として

記憶するしかないのだろう。

 

 

ではそろそろ締めの小ネタ。

 

今回は我ながら

結構トリビアっぽいかと思う。

 

02年に、ディズニーによって

『カントリー・ベアーズ』なる映画が

制作、公開されている。

 

お察しの向きもあろうと思うが、

この元ネタは

 

ディズニー・ランドのアトラクション

カントリーベア・ジャンボリーで

 

まあだからいわばあのJ.デップの

『パイレーツ・オブ・カリビアン』と

同じ着眼で発想されたものである。

 

もっともこちらはいまだに

パート2なりが

作られたような噂は聞かないから、

 

さすがにここには泥鰌は

いなかった模様ではあるのだが、

 

元ネタが元ネタだし、

制作がディズニーであることからも

大方予想がつく通り、

 

本作も半ばミュージカル仕立てで、

作中では随所に

登場人物が歌い出す場面があった。

 

いや、厳密にはこの場合、

登場熊物と書くのが

あるいは正しいのかもしれないが、

 

まあ脱線はともかくとして、

だからこの

キャラクターの一人の歌唱を

 

なんとこのドン・ヘンリーが

当てていたりしたのである。

 

ずいぶん昔にケーブルで

放映されているのをたまたま見て、

 

聴いたことある声だなあと思って

エンド・クレジットまで

頑張って見て確かめたら、

 

なんと、この方だったのである。

 

いやあ、こんな仕事も

してるんだなあ、と

思ったことを覚えている。

 

まあ映画の出来の方は

なんとなくお察しください。

 

そういうわけで

真剣に腰を据えて

見ていた訳では

決してないので、

 

僕自身はあまりよく

覚えてこそいないのだが、

 

同作にはこのヘンリーのほかに、

エルトン・ジョンや

ブライアン・セッツァー、

 

ボニー・レイットなんかが

半ばカメオ的に

顔を出していたらしいから、

 

当時はそれなりに力を入れて

作られたのではないかと思う。

 

本家のアトラクションの方は

あの古典的な

カートゥーンみたいな手触りが

正直割りと好きなので、

 

映画もちょっともう一回

ちゃんと見てみようかな、と、

書きながら多少はそんな気に

 

なってしまったことは

実は否めなくもないのだが、

 

でもなあ、

実写とアニマトロクスの競演は、

 

さすがにこの年になると

時にちょっときついこともまた、

嘘偽りのないところなのである。