ブログラジオ ♯33 Bohemian Rhapsody | 浅倉卓弥オフィシャルブログ「それさえもおそらくは平穏な日々」Powered by Ameba

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説明不要。クィーンである。
フレディー・マーキュリーである。
その死をこのうえなく惜しむべき天才である。

Night at the Opera/Queen

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ボヘミアン・ラプソディ――漂泊者たちの狂詩曲。
こんなポピュラーソングは、この曲以前には
一曲たりとて存在してはいなかった。


あるいは遡ればレノン/マッカートニーの
A Day in the Life(Sgt. Peppers~所収)に
その萌芽を認めることができるのかもしれないけれど、
様式として完成させたのは間違いなくフレディーだった。


これがラジオから流れてきた時、リスナーは皆、
相当驚き、唖然とし、ある意味すっかり
途方に暮れてしまいさえしたのではないかとも思う。
それくらい強烈なトラックである。

何よりも、普通のポップ・ミュージックの様式論では
全体を把握することが難しい、というかできない。
Aメロ/Bメロ/ブリッジ/サビ、みたいな構造に
還元されてしまうことを徹底的に拒むのである。


アカデミックな述語を用いて説明するならば、
ポピュラーソングの領域における、ある種の
ディコンストラクシオン的な試みだったとでも
形容できるのかもしれない。


いや、もちろんこれ真面目にいっている訳ではないからね。
昔、構造主義とかポストモダンとかいったアプローチが
アカデミズムの世界で凄くもてはやされていた時期があって、
そこに登場してきて、脱構築と訳されていた用語がこの
ディコン云々という奴です。デリダとかあの辺。
まあ詳しいことは詳しい人に譲ります。僕専門外なんで。

という訳でそそくさと音楽の話に戻ることにする。
試みに、Aパート、Bパート、Cパートという具合に、
この曲を便宜的に把握して以下を続ける。
まあ大体の場合、そういう構造に理解される。
というか、それしかたぶんできないと思う。


インパクトのあるアカペラのコーラスで開幕し
続く印象的なピアノ演奏で始まるAパートは、
一言でいって極めて美しいバラードである。


ママ、と呼びかけたフレディーは、そのまますぐ
今日僕は人を殺してしまったんだ、と告解する。
その切々とした訴えがピークに達したところで
ところが曲は突然、半端でなくその姿を変えてしまう。

厳密には先行シングルとして登場しているけれど、
同曲は、アルバムA Night at Operaの収録である。
ちなみに邦題を「オペラ座の夜」という。まあそのまんま。


そのタイトルに相応しく、RhapsodyのBパートは
ほとんどコーラスのみで展開されてくる。


聞こえてくる言葉もガリレオとかフィガロとか、
あるいはファンタンゴとかちょっと大仰なくらいに
ある意味時代がかった単語が目立つ。
蝿の王ことベルゼブブまで登場してくるし。

もちろんこれらが、オペラという様式美に対する
フレディーの敬意の発露であることはいうまでもない。


そしてブライアン・メイのギターを前面に押し出しながら
展開されるCパートは、うって変わって
完璧なハード・ロックのスタイルである。
普通なら、このパターンだけで一曲作ってしまっても
おかしくはない格好良さである。


ここまで押さえ気味だったフレディのヴォーカルも
なんというか、ロックンロール全開である。

だからこれ、たぶんむしろ
ピアノソナタの様式なのである。


それぞれ独立した曲として成立し得る強さを
十分に備えたAパートとCパートを
やや簡略なBパートが巧妙に接続し、
全体として一つのドラマを作り上げている。
この着想には、もう唸るよりほか為す術がない。


そしてもちろん、この人の声量と音域と
それから歌唱力、表現力がなければ、決して
パフォーマンスすることのできない
トラックでもあることもまた揺るぎがたい事実である。

――どの道風は吹いているのさ。

全編にさりげなく繰り返されるこの一節が極めて効いている。
まったくばらばらにも見えるこの三つのいわば楽章らを
このモチーフが見事に統御しているのである。


だからおそらくボウイは、この曲に触発されて
Station to Stationを書いたのではないかと思っている。
まあ残念ながら、そんな発言を留めた資料は、
僕自身は見ていないのだけれど。

ちなみにボウイとクィーンとの競演は、
81年のUnder Pressureというトラックで実現している。


さらにちなみに、後年ボウイは自身のツアーでも
同曲をセットリストに入れているのだけれど、
その際フレディーのパートを任されるのは、
必ず女性ヴォーカリストである。
この一事をとってみても彼のすごさが伝わってくる。


もしBohemian Rhapsodyに一点だけ文句を
つけさせてもらうとするならば、
発表が75年だったことである。
些かどころでは到底ないほど早過ぎた。個人的に。

まだ小学生だったよ、僕。
それどころか十にもなってなかったよ。
本当、こういうエポック・メイキングなトラックの誕生は、
リアルタイムで刮目し、一緒に楽しみたかったなあと思う。


ちなみに僕がラジオから、クィーンの新曲ですと、
初めて紹介されてそういう意識で耳にしたのは、
遺憾ながらFLASHでした。正直ちょっと悲しいです。



さて、今回はトリビアの代わりの言い訳。
このクィーンから少しの間、メインの活動時期が70年代である
アーティストたちがしばらく続くことになる予定である。

正直僕の専門からはわずかに外れてしまうので、
あるいは不勉強ゆえの誤解や、正当でない評価がひょっとして
紛れ込んでしまうかもしれない。可能性はかなりある。


例によって、まあブログだからっていうエクスキューズで
押し通すのもありかなとも思わないのでもないのだけれど、
でも、万が一目に余る誤解があったら、
むしろご指摘いただければ、これは大変有り難く思う。