浅倉卓弥オフィシャルブログ「それさえもおそらくは平穏な日々」Powered by Ameba

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さて、前回前々回と、
個人的にはある意味で、

必死になって
古典をひも解いているような、
いわばそんな作業が


実は重なって
しまってはいたのだけれど、


でも今回のこの人たちのことは
たぶんちゃんとリアルタイムで

知っているといって、
大丈夫ではないかと思う。


まあ、実働期間が
だいぶ短かったことも
同時に確かではあるのだが。


ワーク・ソングス/メン・アット・ワーク

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メン・アット・ワークという。

仕事中の男たちがいますってことで、
工事中を表す意味の


看板なんかに表示される
あちらのいい回しが、
どうやら元ネタであるらしい。


音楽なんて、ある意味では、
たぶん勤労という語の
背負わされているイメージからは

一番かけ離れた場所にある
行為だといえるのかもしれない。


それをやっている
自分たちのことを
こんなふうに名乗ってしまう。


まずこういうところが
たぶんこの人たちの、

最大の魅力というか、
一番ユニークな
特徴だったのではないかと思う。



そもそもが、この
アルバム・タイトルにしたって
相当人を食っている。


――BUISINESS AS USUAL.

普段通りの仕事だよって、
そういわれてしまうと、


この一枚にちゃんと期待して
しまっていいのかどうかさえ、
一瞬わからなくなりそうである。


しかもこれ、彼らの
デビュー作なのである。

それなのに、
いつも通りだよって
しれっといわれてしまえば、


いやそこ、
突っ込むしかないだろう、


みたいな感じにならざるを
得ないのではなかろうか。

その辺りを鑑みての
判断だったのかどうかまでは
さすがにわからないけれど、


本作、国内盤発売時には
『ワーク・ソングス』なる
邦題がつけられていた模様。


もっとも、こちらはこちらで、
突っ込みどころがなくもない。

少なくとも単純作業のBGMに、
適しているともあまり思えないし、


彼らが一時期のパンクのように
労働者というか中産階級の
ある種の鬱屈した感情を、


自ら代弁しようという姿勢を
標榜している訳でも決してない。

さらに個人的なことをいえば
ワーク・ソングスなんて具合に
いわれてしまうと、


なんとなく、南北戦争以前の時期に
黒人が綿を摘みながら
歌っていたような


そういう音楽のイメージが
浮かんできてしまったりもする。

この人たちの音にそういう部分、
つまりは黒人音楽からの影響が
決してない訳でもないのだが、


それでも基本的には、
とりわけヴォーカリストの
コリン・ヘイの唱法には


ソウルフルという言葉は
あまりしっくりとはハマらない。

むしろ全編にわたって、
どこかが飄々としている。


まあとにかく、この
オーストラリア出身の労働者たち、


何もかもがこんな具合に
ある種の鋭さを伴った、
捻くれ方をしていたのである。


そもそもが、
『ノックは夜中に』の
邦題で紹介されている、


このWho Can it Be Now?からしてが
一筋縄では把握できない。


黎明期のニュー・ウェーヴの
代表曲みたいな感じで

取り上げられることが
しばしばある同曲だけれど、


確かに82年頃、
いきなり登場してきたかと
思う間もなく、


それこそ飽きるほど、
耳に入ってきたものである。

タイトル通りのサビのラインと、
同じ旋律を追いかけて鳴る


ちょっと割った音色の
サックスのブロウが、
強く印象に残ったものだった。



さて実はこの曲、今回改めて
歌詞をよく読んでみて、

ひどく奇妙な手触りに
気がつかされることとなった。


あの当時はほとんど
またかかってるや、くらいな感じで、


聴き流していただけだったので、
まあ発見といえば発見だった。

なんとなく、
あの爆発的大ヒットの、
一つの秘密を


30年あまりの時を経て
垣間見たような気にもなっている。



この歌、基本の内容はだいたい
洋邦両方のタイトルから、
想像できる通りのものである。

真夜中、ドアにノックの音がする。

主人公は一人家にいて、
もう遅いし、疲れているんだから、
どこかへいってしまってくれと


まあ、そんな文句を重ね続ける。

このシチュエイションが
同曲のいわば
骨格であるといっていい。



こんな時間にいったい誰ならば
そこにいられるっていうんだ――



少し無理矢理で、
しかも無駄に長い訳になって
しまったようではあるけれど、

ここまで御覧いただいている通り、
英文は極めてシンプルで、
サビのラインにもよく載ってくる。


同じリフを重ねる、
コーラスも決まっているし、


最初に多少触れたように
サックスもきっちりと
いいアクセントになっている。

一言でいえば、
極めてキャッチーなサビである。


ところがこの主人公の一人語りが

先へ行けば行くほど
微妙な匙加減で
歪んできてしまうのである。

2コーラス目の冒頭、
主人公はこのノックを嫌って、


部屋の中を
忍び足で歩き回り、


万が一自分が
ここにいることを気づかれたら、

あいつはきっといつまでも
ノックを止めないに違いない、
なんてことまで口走り始める。


そしてさらにはこんなことを
続けさえもするのである。



僕は誰も傷つけたことはないし、
そもそも僕の精神の健康状態に
おかしいところはどこにもない

ただここに座って
子供の頃の友達と
一緒にいるのが好きなんだ――



この辺りのニュアンスを
きちんと書こうとすると、


表現がどうしても
ギリギリになってくるのだけれど、

まあだから、
口さがなくいってしまえば、


おかしいところの
まったくない人は


むしろこんないい方は
絶対にしないはずなのである。

だから、自分は正常だと
断言しようとする、
その行為そのものが


実はどうしようもない違和感を
こちらにかき立ててくるという


ある種パラドキシカルな事象が
非常にシンプルなやり方で、
ここに成立してしまっているのである。

なるほどなあ、
確かにこれは、
引っかかってくるわ。


しかもまた、
このコリン・ヘイという人の
ヴォーカル・スタイルが、


こういうある種の異質さと
ほどよくエコーするのである。

そして極めつけは
ラストのリフレインの直前に
登場してくる
こちらのラインである。



未来なんかどこにもない
僕に見えているのは幻影だけだ――



あるいはそういうことなのか。

ここに至っては、
いつのまに湧き上がって
きていた疑念に
自分でも気がつかざるを得なくなる。


つまりはこういうことである。

はたして、このノックは
本当に鳴っているのだろうか。

むしろただこの彼が
聞こえていると
思い込んでいるだけなのではないのか。


そう思うと改めて、
サックスの奏でるサビの旋律が、
なんだか不穏な気配を帯びて、
聴こえてくるから不思議である。


ほんのちょっとだけだけれど、
どこかこの世のものではないみたい。

改めて、なんだか出来のよい、
ホラー小説みたいな手触りである。


でも、やっぱりこういういい方では
この曲を形容するには、
少なからず語弊があることも
一方では厳然とした事実である。


むしろサウンドの全体は
コミカルな響きを
決して拒んでいる訳ではない。

『アダムズ・ファミリー』なんかとは
また違った意味での、


怖さとおかしみとの奇妙な同居が
ここに実現されているのである。


いや、改めて、
実は難しいこと
やってたんだなあ、と思いました。

感服です。


でもまあ、たぶんこれ、
なんかこういうの
やっちゃったら面白いよね、
みたいなノリで、


全編が出来上がってきて
いたのではないかとも思う。

ビデオなんか見てても、
メンバー全員ノリノリで、
メイクも芝居もしているし。


それから、その証拠という
訳でも決してないのだけれど、


同じアルバムには
Be Good Johnnyなる
曲が収録されてもいたりする。

本国では三枚目のシングルとして、
カットされてもいたらしいのだが、


まあこれ、一目瞭然
チャック・ベリーの
Johnny B. Goodから発想されている。


幾ら労働者だと自称してても、
バンドをやってて、
この曲を知らなかったはずはない。

念のためだが、最初の
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の


ラスト・シーンで、
M.J.フォックスが演っていたのが、
これである。


だからたぶんこれ、
語順入れ替えたらなんか、
子供叱ってるみたいになるよね、

じゃあそういう歌、
一つ作っちゃおうか、
みたいなノリで、


そのままこの曲に
なっちゃったんじゃないのかな、と
思ったりもするのである。



さて、メン・アット・ワークは、
オーストラリア出身の
グループとしては初めて、

同じ週に、シングルと
アルバムとの両方で、


チャートのトップを
記録したバンドとして、
ビルボードに名前を残している。


それどころか、この
BUISINESS AS USUALは
実に15週の長きにもわたって、

アルバムチャートのトップに
居座り続けていたのである。


デビュー作としては、
異例の売れ行きだったことは
ほぼ間違いはないだろう。


ポリス(♯34)の影響下にある
サウンドという評価が
どうやら一般的なようだし、

なるほどポリスっぽい
トラックも見つかるけれど、


基本的なノリはだから、
むしろマッドネス(♯72)や、


こちらはミュージシャンではないが、
モンティ・パイソンの
諧謔性を思い出させるものがある。

コリン・ヘイがしばしば
半ズボンを履いていたのも、


ひょっとしてその辺りへの
リスペクトだったのかもしれない。


どこがどうとは
すごくいいがたいのだけれど、

全体がなんとなく
やっぱりイギリスっぽいのである。



残念ながらこの
メン・アット・ワークは


この次の二枚目に当たる
CARGOというアルバムの発表の後、

ドラムとベース、
そしてギターが、
順次脱退してしまい、


ヴォーカルのコリン・ヘイと
それから例のサックスを吹いていた、
グレッグ・ハムなる人物の


いわばユニットとして
一枚だけアルバムを発表し、

86年にはもうそのまま
一度解散してしまっている。


もっとも96年からの
数年間だけは、
再結成という形で
活動をしてもいたらしいのだが、


これもオリジナルの編成だった
訳では決してないようである。


さて、今回標題にした
Who Can it Be Now?と並んで、


このメン・アット・ワークの
代表曲とされているのが、
Down Underという一曲である。


アルバムと同じ週に
シングルでもトップを
記録したというのは、
実はこちらのトラックである。

ちなみにこのDown Underなる表現、
オーストラリアそのものを指している。


地図で下の方にあるから、と
いうことなのだそうで。


当初は彼らの
造語かとも思っていたのだが、

前回のオリビア(♯130)が、
若い頃に出ていた映像作品に、


このいい回しを使った
タイトルが見つかったので、


どうやら同国の人たちは、
昔からこんな自虐的表現を
結構普通に使っていたようである。


さて、後年というか
比較的最近のことになるのだが、


このDown Underの
ハムによるフルートのラインが、


盗作だと裁判を起こされて、
結局敗訴してしまったらしい。

で、まあ僕も、
今回本記事を起こすに当たり、


盗作だと訴えた側の
ワライカワセミがなんちゃらっていう、


いかにもオーストラリアな
タイトルの曲を
一応探して聴いてみた。

ちなみに同曲、
ガール・スカウトの唱歌として
広く知れ渡っている
ものなのだそうで、


だからたぶん、
『線路は続くよどこまでも』とか
そういう感じのノリで、
歌われているものなのだと思う。


――いや、しかし。

率直にいって、
ちょっとどころではなく
ひどい思った。


ほとんど難癖といっていい。

問題にされたDown Underの
フルートのラインというのは、

たぶん冒頭の四小節くらいの
箇所だと思うのだけれど、


確かにしょっぱなに出てくるから、
インパクトはある。


でも正直、全然似ていないのである。

あるいは採譜して比べてみたら、
実は同じような形になってしまう
箇所があるのかもしれないが、


でもこの二曲でなくても、
そういう事態が起きてしまう例は


たぶん結構見つかって
しまうのではないかと思う。

正確には、原告の問題にしたこの曲、
Kookaburra Sit on the Old Gum Treeと
いうらしいのだけれど、


少なくとも僕は、Down Underから
このKookaburra~を想起することも、


あるいはその逆も、
相当難しいと思った。

もしかするとこのラインに
使用されている音階の数が


Kookaburraの全曲と、
同じなのかもしれないな
くらいには思ったが、
気づいたのはその程度である。


しかも、である。

そもそもこのDown Underが
大ヒットを記録したのは
82年の出来事である。


そしてKookaburra~の
作者の死去が88年、


さらにいうと、この作者が
同曲を書いたとされるのは
実に1934年のことである。

しかしながら
訴訟が起きたのはなんと


今世紀に入ってから
10年も過ぎた
2010年の出来事なのである。


いや、お金目的にしか
見えてこないんですけれど。

少なくともこの
Kookaburra~の作者本人は


たぶん気に留めすら
していなかったのだろうし、


遺族が名誉の回復を
願ったというような話も
どうやらどこからも出てこない。

書いた本人が、
はたしてこのDown Underを


耳にしていたかどうかは
最早確かめようもないけれど、


たぶん似ているなんて、
ちっとも思わなかったのでは
ないかと思う。

これはね、バンドは認めないよ。

しかし残念ながら
物事はそのようには進まず、


先述のように
オーストラリア国内では、
判決はすでに
確定してしまったようである。

もっとも、著作権の侵害は、
フルートの箇所に限られて、


しかも02年より以前には
遡らないという
条件がつけられたらしいから、


弁護士たちが意図していたほどの、
印税を受け取ることは
できなかったようではあるのだが。

それでもこれを
流用にされてしまうのか、と


ため息を吐き出しながら
つくづくそう考えざるを得なかった。



この判決の後、問題のフルートの
インプロヴィゼイションのパートを
書いたとされるグレッグ・ハムは、

自宅で孤独死しているのを
発見されている。


もっとも死因は明らかな
心臓麻痺だったらしいのだけれど、


ヘイと同様ハム自身も
この判決については、

非常に残念だと
口にしていたらしいことも
どうやら確かな模様である。



こうなってしまうと、ただ嘆き、
同情するよりほかに
最早できることもないのだけれど、


それでも、この時、
バンドとともに訴えられた、
現地のレコード会社が、

きっちりといわゆる最高裁まで、
上告してくれていたことには、
少しだけ安堵のようなものを感じはした。


いや本当に、
こんな形でこのバンドの
閃光のような偉大な業績に、


傷がついてしまうことになるとは
個人的には非常に残念な結果である。


さて、今回のトリビアは、
この訴訟騒動の続きを少しだけ。


結局コリン・ヘイは
判決の直後の12年に


このDown Underを
発表から30周年の記念ということで、
ソロでリメイクしているのだけれど、

この時には、問題のフルートのリフを
すっかり抜いてしまっているらしい。


ヘイとハムとは、
最後まで盟友のような
関係だったらしいから、


その胸中は慮ってあまりある。

それでもなお、
理不尽な判決に基づく
根拠薄弱なロイヤルティーを、


たとえ些少とはいえ、
縁もゆかりもない相手に対し
発生させたくはなかったのだろう。



それからそもそもが、
この顛末の
いわば発端となったのは、

オーストラリアの
とあるクイズ番組が、


このKookaburra~が引用されている
オーストラリアの有名な


ポップ・ソングはいったい
誰の何という曲でしょう、と

いったような問題を
出題してしまったことにあるらしい。


正解者は一人もいなかったというから
はっきりいってクイズとしても
成立していなかったのだと思う。


それでもこの放送をきっかけに、
同曲の著作権管理事務所と

それから弁護士たちとが
勢い騒ぎ始めたらしいから、


まあ本当、この問題を作成した
同番組のスタッフは
罪作りなことをしたものである。


賭けてもいいが、
BUISINESS AS USUALが

これほどのヒットに
なっていなかったとしたら、


決して起こってはいなかった
訴訟沙汰だと思う。


あまり口さがなく
なりたくはないのだけれど、

本当、どういう根拠で、
この判決が下りちゃったのか、


関係者にきっちりと、
糺したい気がしてたまらない。


ちなみに現地の新聞も、
この法律事務所を評し

厚かましいと断じた記事を
載せてはいた模様である。


今さらあんまり
溜飲は下がらないのだが。

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