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12月5日発行号
国民民主「与野党・等距離外交」の悩ましさ

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樋口元裁判長が原発を止めた恐るべき理由

福島第一原発の事故が起きてからこのかた、全国各地で提起された原発訴訟で、
原発の運転を止める判決を出した裁判長はたった二人である。

そのうちの一人、元福井地裁裁判長、樋口英明氏は、12月1日に兵庫県内で行
った講演で、なぜ裁判所が原発に「ノー」を突きつけたか、その理由を理路整
然と語った。

静かな語り口に、迫力を感じ、筆者は思った。ひょっとしたら、福島第一原発
事故のほんとうの怖さを、政府も、原子力規制委員会も、電力業界も、そして
大半の裁判官も、わかっていないのではないか、あるいは、わかろうとしてい
ないのではないかと。

「二つの奇跡」を樋口氏はあげた。それがなかったら、東日本は壊滅状態とな
り、4000万人が避難を余儀なくされたかもしれないのだ。

樋口氏は2014年5月21日、関西電力大飯原発3・4号機の運転差し止めを命じ、
2015年4月14日には、関西電力高浜原発3・4号機について再稼働差し止めの仮
処分を認める決定を出した。電力会社にとっては“天敵”のような存在だった。

樋口氏は原発について、しっかりと情報を集め、冷静に分析したうえで、確信
を持って運転停止の判断をしていた。

まず、福島第一原発が、どれくらいの地震の強さを受けたのかを把握しておこ
う。800ガルだ。震度でいえば6強。

この揺れで、火力発電所と電線でつながっている鉄塔が折れ、外部電源が遮断
された。地下の非常用電源は津波で破壊された。800ガルの地震が原発に及ぼ
す影響の大きさを記憶しておいていただきたい。

福島第一原発は電源のすべてを失った。稼働中だった1、2、3号機はモーター
をまわせなくなって、断水状態となり、蒸気だけが発生し続けた。水の上に顔
を出したウラン燃料は溶けて、メルトダウンした。

4号機でも空恐ろしいことが起きていた。定期点検中で、原子炉内にあった548
体の燃料すべてが貯蔵プールに移されていたため、合計1331体もの使用済核燃
料が、水素爆発でむき出しになったプールの水に沈んでいた。

使用中の核燃料なら停電すると5時間でメルトダウンするが、使用済み核燃料
はエネルギー量が少ないため4、5日かかる。しかし、使用済み核燃料のほうが
放射性降下物、いわゆる「死の灰」はずっと多い。もし、4号機の使用済み核
燃料が溶融したらどうなるか。

菅首相の要請を受けて、近藤駿介原子力委員長が、コンピューター解析をさせ
たところ、放射能汚染で強制移住が必要な地域は福島第一原発から170km、任
意移住地域は250kmにもおよび、東京都の1300万人を含め4000万人を超える
人々が避難民になるという、恐怖のシナリオが想定された。

不幸中の幸いというべきか、4号機の燃料貯蔵プールは偶然、大量の水によっ
て守られた。ふだんは無い水がそこに流れ込んできたからだ。

原子炉圧力容器の真上に「原子炉ウェル」という縦穴がある。ちょうど燃料貯蔵
プールの隣だ。ふだん、このスペースに水は入っていない。

だが、定期点検中だった事故当時、「シュラウド」と呼ばれる隔壁の交換を水中
で行う作業が遅れていたため、原子炉ウェルと隣のピットは大量の水で満たさ
れたままだった。そして、そこから、水が隣の燃料貯蔵プールに流れ込んだの
だ。

樋口氏は語る。「原子炉ウェルと貯蔵プールは別のプールです。水が行き来す
ることはない。だけど、仕切りがズレた。地震のせいでズレたのか、仕切りが、
たまたま弱くて、ズレたのかわからない。入ってきてはいけない水が入ってき
た」。

ふだんは無い水がそこにあり、入るべきではないのに侵入した。おかげで、4
号機プールの燃料は冷やされ、最悪の事態は免れたというわけだ。このめった
にない偶然。「4号機の奇跡」と樋口氏は言う。

もう一つの「奇跡」は2号機で起きた。2号機はメルトダウンし、格納容器の中
が水蒸気でいっぱいになり、圧力が大爆発寸前まで高まった。圧力を抜くため
にベントという装置があるが、電源喪失で動かせない。放射能が高すぎて、人
も近寄れない。

当時の福島第一原発所長、吉田昌郎氏は、格納容器内の圧力が設計基準の2倍
をこえた3月15日の時点で、大爆発を覚悟した。のちに「東日本壊滅が脳裏に
浮かんだ」と証言している。

ところが不思議なことに、そういう事態にはならなかった。水蒸気がどこから
か抜けていたのだ。

「多分、格納容器の下のほうに弱いところがあったんでしょう。格納容器は本
当に丈夫でなければいけない。だけど弱いところがあった。要するに欠陥機だ
ったために、奇跡が起きたんです」

福島第一原発事故の放射能汚染による帰還困難地域は、名古屋市域とほぼ同じ
広さの337平方キロメートルにおよぶ。それだけでも、未曾有の人災である。
しかし、二つの奇跡がなかったら、被害は国の存亡にかかわるほど甚大だった
はずだ。

たまさかの工事の遅れと設備のズレで4号機プールに水が流れ込んだ。2号機の
原子炉の欠陥部分から蒸気がもれ、圧力が逃げた。本来ならマイナスである二
つの偶然が、奇跡的にプラスに働いた。あのとき、日本の命運は、かくも頼り
ないものに寄りかかっていたのである。

樋口氏が言いたいのは、原発がいかに危険であるか、もっと知ってほしいとい
うことだ。めったに起こらないことが起こっただけと高をくくってはいけない。
原発がある限り、日本が崩壊する危険性と隣り合わせであることを自覚してほ
しいということだ。

「二つの奇跡」の話、知っている国民がどれだけいるだろうか。そして、原発
の耐震設計基準は、大手住宅メーカーの耐震基準よりはるかに低いことを知っ
ているだろうか。

福島第一原発事故では800ガルの揺れが外部電力の喪失を引き起こした。800ガ
ルといえば先述したように震度6強クラスだ。その程度の地震は日本列島のど
こで、いつなんどき起こるかしれない。

2000年以降、震度6強以上を記録した地震をあげてみよう。鳥取県西部6強▽宮
城県北部6強▽能登半島沖6強▽新潟県上中越沖6強▽岩手県内陸南部6強▽東北
地方太平洋沖7▽長野県・新潟県県境付近6強▽静岡県東部6強▽宮城県沖6強▽
熊本7▽北海道胆振東部7▽山形県沖6強。これだけある。

ガルで表せば、もっとわかりやすい。大阪府北部地震は806ガル、熊本地震は1
740ガル、北海道胆振東部地震は1796ガルを観測している。

三井ホームの耐震設計基準は5000ガル。すなわち5000ガルの揺れに耐えるよう
設計されることになっている。住友林業の耐震設計基準は3406ガルだという。

それに対して、原発の耐震設計基準はどうか。大飯原発は当初、405ガルだっ
た。なぜか原発訴訟の判決直前になって、何も変わっていないにもかかわらず、
700ガルに上がった。コンピューターシミュレーションで、そういう数値が出
たと関電は主張した。

たとえ700ガルまで耐えられるとしても、安心できる設計ではないのは、これ
まで述べてきたことで明らかであろう。

樋口氏はため息まじりに言った。

「原発は被害がでかいうえ、発生確率がものすごく高い。ふつうの地震でも原
発の近くで起これば設計基準をこえてしまう。電力会社は400とか700ガルの耐
震設計基準で良しとして、大飯原発の敷地に限っては700ガル以上の地震は来
ませんと、強振動予測の地震学者を連れてきて言わせる。信用できないでしょ。
“死に至る病”を日本はかかえているんです」

首相官邸の影響下にある最高裁事務総局の意向を気にする“ヒラメ裁判官”が
はびこるなか、政府の原発再稼働政策に逆らう判決を繰り返した気骨の裁判官
は、原発の危険性について、ここまで掘り下げ、分析したうえで、結論を出し
ていたのだ。

2014年5月、樋口氏が福井地裁の裁判長として大飯原発3、4号機の運転差し
止めを命じたさいの判決文にはこう書かれていた。

「原子力発電は経済活動の自由に属するが、憲法上、生命を守り生活を維持す
る人格権の中核部分より劣位に置かれるべきもの」

人の生命や生活のほうが、経済活動の自由より大切であると、日本国憲法を根
拠に断定した根底には、「原発は被害がでかいうえ、発生確率がものすごく高
い」という樋口氏の認識があった。

「3.11の後、原発を止めたのは私と大津地裁の山本善彦裁判長だけ。二人だけ
が原発の本当の危険性をわかっていた。ほかの人はわからなかった。それだけ
のことです」

原発はどこも400ガルとか700ガルとかいった低い耐震基準でつくられているが、
いまや日本列島全体が、それを上まわる強さの揺れの頻発する地震活動期に入
っている。にもかかわらず、経産省・資源エネルギー庁シンドロームにおかさ
れた政府は、電源構成に占める原子力の割合を2030年に20~22%まで復活させ
るプランを捨てていない。

繰り返しになるが、安倍首相ら政権中枢は、原発のほんとうの怖さをいまだに
わかっていない、と断定するほかないだろう。国を滅ぼさないために、憲法改
正より先にすることがある。原発ゼロ方針を内外に宣言し、実現のために一歩
を踏み出すことである。

 

(2019.12.19永田町異聞メルマガ版「国家権力&メディア一刀両断」より)

佐川理財局長栄転の露骨人事

よくもまあ、露骨な人事が


できるものだ。


森友学園への国有地売却問題をめぐり、


安倍首相のために


事実の隠ぺいをはかる


答弁を繰り返した


財務省の佐川宣寿理財局長が


7月5日付で


国税庁長官に栄転した。


殿を守るため、あらゆる質問に


無意味な答弁を返した手柄への


ご褒美というわけか。


幹部官僚人事を握る官邸と


麻生財務大臣が結託して、


「出世したければ言うことを聞け」


と霞が関に示したのだろう。


財務省はよくやったが、文科省は何だ、という


「気分本位」の安倍官邸には


あきれるほかない。

末期症状

アベノミクスのような政策が

少子高齢化と人口減少の“不安日本”で

うまくいかないことを証明したのが

安倍政権唯一の成果では。

そんな皮肉をこめた論評も目立ってきた。

そこに、森友、加計学園疑惑という

権力私物化の問題が

発覚し、内閣支持率が急落して、

安倍首相の焦りの色は濃くなるばかり。

内閣改造でイメージ一新を

もくろんでいるらしいが、

小泉進次郎はともかく、

イロモノというか、キワモノというか、

橋下徹の名前まであがっているという。

防衛大臣、法務大臣らどうしょうもない

閣僚をかかえ、辞任ドミノが怖くて

首を切ることもできぬ。

真偽不明ながら深刻な健康不安説

まで浮上して、いよいよ第一次政権末期

に似た状況になってきた。

安倍首相はウルグアイ前大統領から日本人の心を学べ

「清貧」。私欲をすてて行いが正しいために、貧しく生活が質素であること。


そんな生き方を、少年時代、近所に住んでいた日本人移民から学んだウルグアイの政治指導者が4月5日、来日する。


ホセ・ムヒカ。このところ一部テレビでも紹介されている「世界一貧乏な大統領」。昨年3月に退任したが、ウルグアイ国民に今も愛され続けている前大統領だ。


安倍晋三は彼を知っているだろうか。


2012年6月、リオデジャネイロ。188ヵ国の首脳らが参加したRio+20 地球サミット2012 (国連持続可能な開発会議)で、ホセ・ムヒカ大統領は人間の幸せとは何か、そのために政治は何ができるのかを問いかけた。


「人類は消費社会にコントロールされている。私たちは発展のために生まれてきたのではありません。幸せになるためにこの地球にやってきたのです。人生は短い。すぐ目の前を過ぎてしまいます。命よりも高価なものは存在しません」


ムヒカは一人ひとりの人間が幸せに生きること、短い人生の貴重な時間を無駄にしないことが大切だ、と説く。


幸せに生きるとはどういうことか。彼はシンプルに言い切る。「子どもを育てること、友達を持つこと、そして必要最低限のものを持つこと。これらをもたらすべきなのです」


世界の貧困問題などが議論されたその会議。ムヒカは貧しさについてこう述べた。


「貧乏な人とは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらものがあっても満足しない人のことです」


ムヒカ自身が前大統領でありながら財産の少ない、普通の農村の暮らしをしている。


在任当時、大統領に与えられる給料の90%近くを慈善団体に寄付し、自身は月に10万円程度の生活費があればこと足りた。


無限の欲を満たそうと思えば、人は死ぬまで満たされず、貧しい心をかかえたままになる。昔の日本人のように、足るを知れば、苦しいながらも、心豊かに暮らしていける。


ところが、消費社会が進むにしたがって、カネや贅沢なモノを所有し美食と飽食にふけることが出世の証のような価値観が定着した。本質的な人間の幸福とはそんなものではないだろう。指導者としてのムヒカは言う。


「私たちが際限なく消費と発展を求め、世界中で原料を探し求めるグローバリゼーションの社会をつくってきた。たとえば消費をひたすら早く多くしなくてはならない。消費が止まれば経済がマヒし、経済がマヒすれば不況のお化けが現れる。10万時間もつ電球をつくれるのに、1000時間しかもたない電球を売る社会にいるのです。これは政治問題です。別の解決の道に私たち首脳は世界を導かなければなりません」


そして次の言葉こそ「一億総活躍」を標榜する安倍晋三に贈りたい。


「残酷な競争で成り立つ消費主義社会で、みんなの世界を良くしていこう、というような共存共栄をめざす議論ができるのでしょうか。どこまでが仲間でどこからがライバルなのですか」


競争と格差のなかで、非正規雇用をこれまで以上に増やす政策を進める安倍政権が、国民すべてが良くなる社会をめざすなんて、ウソをつくのもほどほどにしてほしい。


全国民が活躍する社会というのはどんなものか。活躍の“度合い”が気になる競争社会をイメージすべきか。それとも、活躍できない人でもそれなりに自立して生きていける共存社会をめざすのか。


辞書によると「活躍」は、「めざましく活動する」というのが本来の意味だ。「活躍」が世の中の全ての価値のようになってしまうのは、どれだけ怖ろしいことか想像をめぐらせてみなければならない。


社会は、人それぞれ個性の差、能力の差があってこそ、バランスがとれている。みんなが頑張り屋で優秀だったら、どれだけ競争が激しく、生きづらいことだろう。


活躍する人ばかりではだめで、活躍しない人ばかりでもだめなのだ。足らざる所を補い合ってともに生きる社会こそ、国の求めるところでなければならない。


総じて安倍政治には弱者への優しい視線、思いやりの心が感じられない。鬱に沈む人に「頑張れ」と励ますことが逆効果であることはよく知られている。


その人その人にふさわしい仕事や居場所があること。つらい時は逃げこむ先があること。それは「活躍」という言葉のイメージとは、かけ離れている。もっとしなやかで、地に足の着いた人間の生活だ。


ただでさえ、安倍政権は、この国を窮屈につくり変えようとしている。秘密を漏らさぬ政府。人間を管理する番号。秩序や道徳や伝統を守れ、全国民あげて活躍せよと号令をかけられる国民。…そんな社会。どうしても、国民全体を同じような色に染め上げたいらしい。


市場原理が大手を振る今の日本。競争からこぼれ落ちた人々は生きづらい。み んなが活躍する社会などと偽善的なことを言う前に、政官業を蝕む既得権の構 造を解体し、税金の使い道の正常化をはかったらどうだろうか。


活躍しようにもできない本当の弱者を救済するために税金は使われなくてはな らない。活躍するかどうかまで政府のお世話になりたくはない。


活躍したい人が活躍できるよう、活躍しようにもできない本当の弱者が福祉の 恩恵にあずかれるよう、政治の力を発揮せねばならない。


あえて言うなら安倍政権が持ち出すスローガンは下品で軽薄である。「一億総 活躍」「希望を生み出す」「夢をつむぐ」「安心につながる」…。


それにくらべ、ウルグアイの前大統領の言葉はポエムのように聞こえるかもし れないが、その人ならではの真実の響きがある。安倍の使うようなお定まりの 美辞麗句など不必要なのである。

毎度、ばかばかしい安倍答弁

安倍ちゃんの答弁はいつも同じだ。

ほとんど自己宣伝文の羅列で、議論にならない。というか、議論にしようとしない。

おまけに、罵詈雑言を浴びせられたからと言って、質問者を罵倒する。批判はこの人にとって、つねに罵詈雑言らしいのである。

実例をひとつ。2月3日、衆院予算委で民主党の玉木雄一郎が、質疑を終え、退席したときのことだ。

安倍ちゃんは答弁席に立つと、空席になった質問者席に向かって声を荒げた。何が起こったのか。

リーマンショック以前の税収に戻ったからといって予算をばらまいていては、その間の社会保障費の膨張などから見て財政再建はおぼつかない。玉木はそんな趣旨の発言をしたのだが、安倍ちゃんが反応したのは玉木の次のひと言に対してだった。

「(支離滅裂な安倍の説明に対し)総理が無知であることがよくわかった」

怒り狂った安倍ちゃんはもはや議事進行の手順などおかまいなし。まっしぐらに答弁席に向かった。

「ああいう話をしているから民主党政権は一銭も財政再建できなかったんですよ、皆さん。われわれは10兆円ですね、10兆円国債の新規発行額を減額したのであってですね、それはしっかりと言わさせていただきたいと思います」

いつもの論法のお出ましだ。ことあるごとに、民主党政権とくらべて手柄話をする。

被害者はこのあとの質問者、福島伸享(民主)だ。自分の持ち時間を安倍答弁に奪われたのである。

「委員長、ちゃんと仕切ってください。総理、異様だと思いますよ、聞かれてもいないことをベラベラ、表情を荒げて…」。

それでも福島は気を取り直し、TPP担当の大臣になぜ石原伸晃を任命したのか質問するが、安倍ちゃんのほうは、まだ玉木の質疑を引きずっていた。

「さきほどの質問で罵詈雑言を浴びせられたんで、答弁させていただいた」

福島はそんな説明など求めていないではないか。

自分の不快感の解消に、国会の貴重な質疑時間を使う。それが、どれだけ罪で愚かなことであるか、まったく自覚がないのだ。

こういう自己中心的な人物が教育を語り、道徳を唱える。まさに、お笑いというほかない。

                                 (敬称略)

虚勢の虎の威を借るNHK会長

慰安婦問題の放送は、安倍官邸の思し召ししだいなのだと、NHKの籾井勝人会長は平然として言う。安倍の下僕を自任しているのだろうか。

そのくせ、野党には虎の威を借りて横柄な態度をとる。俺は天下の三井物産で副社長だったんだ、一国の首相もついている。民主党の若造のくせに、無礼千万。そんな感じで、NHK会長としての適格性を問う階猛議員と、先日の会合でののしり合った。

籾井会長の心の支えは視聴者でも受信料でもない。後ろに控えて甲高く早口で吠えまくる虎だ。

もっともこの虎、人のヤジにはいちいち怒り、自分のヤジの品のなさには気づかない。総理大臣席で小さな相撲をとる虚勢の虎だ。

虚勢の虎とその下僕に忍従しているNHKの心ある職員は泣いているだろう。「恥ずかしい」「悔しい」「許せない」。数多くのOBたちが後輩たちから聞こえてくる声に、「やむにやまれぬ思い」で籾井会長の辞任、罷免を求める運動を繰り広げている。

NHK会長といえば、もともと政治権力に弱いことで知られている。というよりも、政治権力が会長を選んでいるのである。

政治部記者として、NHKと政治の裏面を見続けてきたOBの川崎泰資は語る。

「NHK会長を総理大臣が決めなかったことはただの一回もない。それを経営委員会が決めたことにして発表しているだけ。それほどインチキなんだ」

かつて7年半にわたり会長をつとめた海老沢勝二が安倍晋三、中川昭一の圧力で、慰安婦に関する番組内容の改変を現場に指示したことはよく知られている。

海老沢と同い年で、東大卒のエリートである川崎が、同じ政治部記者でありながら出世の道を閉ざされたのは、政治や組織の権力になびかなかったからにほかならない。

安倍首相は自らが関与した番組改変事件でNHK幹部の保身体質を見抜き、なめきっている。だから、自分の眼鏡にかなう新経営委員を送り込んでまで、松本正之前会長を退任に追い込み、籾井という報道オンチをその後任に据えるという荒業をやってのけたのだ。

一時は反乱を起こすかに見えたNHK生え抜きの理事や組合が、反抗したらいつでも首を切るかまえを見せるトップに対し、黙りこくってしまったのがもどかしい。

茶坊主のくせに威丈高。籾井が会長でいる限り受信料を払いたくない人の気分、よくわかる。





関電と裏社会をつないだ豊田一夫とは

最終処分場のあてもなく核のゴミを出し続け、自然災害の多いこの国で国民の生命財産を脅かす原子力発電所。


一歩間違えれば国が滅ぶほどの危機を経験したというのに、いまだこの電源を中心としたエネルギー政策がまかり通っているのは、政官業の欲得と、国民騙しの手先に使われるメディア、有識者のせいであることは言うまでもない。


官僚の天下りや政治家への献金を維持するためには、電力会社の経営を守らねばならない。原発の廃止を決めるようなことになれば、その瞬間、原子炉は巨額不良資産に変わってしまう。


それを避けるためには原発再稼働を進めねばならず、核のゴミが増え続けても、「そのうちなんとかなるだろう」と、安倍首相は“無責任男”さながらの能天気を決め込んでいる。


さて、政治家やメディアをカネで動かしてきた電力会社は、経営が悪化すれば国のお墨付きで国民に電力料金の値上げをむりやり受け入れさせる特権をもっている。


悪名高き総括原価方式というやつだが、このほど関西電力は社員の高給を維持したまま、昨年5月に続いて電力料金再値上げを申請した。


カネがなくなったら、国民からむしり取ればいい。まるで、暴力団だ。経営力を生む土壌づくりをしてきたとは思えない。


そういえば、関電と裏社会の関係は関西電力元副社長、内藤千百里が朝日新聞に告白したことで、あらためて浮き彫りになった。


内藤は元関西電力会長、芦原義重の側近として、盆暮れにともに歴代総理や自民党幹事長ら有力政治家のもとへ足を運び、総理には一回1000万円、その他には1回200万~700万円の献金を長年にわたって続けてきた。


その男が、91歳になって「原子力はセキュリティーにかこつけて隠し事が多すぎる」とようやく本音をもらし、右翼の大物、豊田一夫(故人)と関電の関係についても語った。


「暴力団などの裏社会に顔が利くので、表に出せないトラブルを解決してもらったこともある。電力は立地や送電線下の補償費でしよっちゅうトラブルをかかえていますから」


大正期、原敬内閣の内相、床次竹二郎が社会主義運動に対抗するため、ヤクザの右翼的再編を画策し、親分たちの連合体「大日本国粋会」が発足して以来、この国ではヤクザに顔のきく大物右翼といわれる連中が、政財界を裏で動かす黒幕として存在してきた。


だが、豊田とはどんな男なのか。大物と言われながら豊田に関する資料は少ない。


三浦義一と高橋輝男。豊田への手がかりはこの二人に関する資料のなかにあった。三人が出会う舞台は終戦直後の銀座だ。


三浦は北原白秋に詩を学び、頭山秀三に右翼思想をたたきこまれたヤクザ詩人。


「戦勝国民」と称する不良外国人と対決して銀座の街をトラブルから守ろうとし、新聞に「銀座警察」と命名された愚連隊一味のリーダーが、高橋輝男。


その高橋の舎弟となったのが豊田一夫だが、高橋は豊田をたんなるヤクザで終わらすのはもったいないと、三浦に頼んで、三浦の師である頭山秀三に預けた。


豊田は高橋と一線を画し、右翼思想家として頭角をあらわす。殉国青年隊を結成して、はじめてその存在が知られるのは、世にいう「外務省殴り込み事件」によってである。


北京で開催されるアジア太平洋地域平和会議に参加を希望する30人ほどが旅券を求めて外務省の一室を占拠したのに対し、「共産党を利する連中を放置しておくとは何ごとか」と10人ほどの同志とともにその場に出向き、座り込んでいる人々を追い出したのである。


それから殉国青年隊は規模を拡大し、昭和29年11月には日比谷公会堂に約5000人が集まって全国総決起大会を開くほどになった。


三浦と豊田はその後、ヤクザ組織に顔のきく大物右翼として政財界のフィクサーを演じる。


豊田が大物といわれるようになっていったのは、三浦という後ろ盾があり、その人脈を受け継いだことが大きい。


三浦は、日本の右旋回をはかろうとするGHQ参謀第2部(G2)にも食い込み、民主化路線を進めていたGHQ民政局(GS)のチャールズ・ケーディスをスキャンダル暴露で追い落とすのに協力したといわれる。


G2との深い関係から吉田内閣の黒幕的存在となった三浦は、財閥解体にからむ暗躍で三井に恩を売り、そのつながりで日本橋室町の三井ビル内にかまえた事務所には、頼みごとをする訪問客が絶えなかったようだ。


豊田が関西電力とつながりを持つようになったのも、三浦が日本発送電の分割問題で暗躍したことと無関係ではあるまい。


日本発送電が全国9地域の電力会社に分割されるさい、裏の反対勢力として剛腕ぶりを発揮し、電力業界への影響力をたくわえた。


三浦の信頼が厚かった豊田は電力会社に食い込み、とくに関西電力との関係を深めた。


関西電力の芦原義重は1942年の配電統制にともない阪急電鉄から関西配電に移り、1951年の電力再編成(日発分割)で発足した関西電力の常務となり、その後、太田垣士郎から社長ポストを受け継いだ。


おそらく、三浦義一や豊田一夫とは日発と配電会社を9つの電力会社に分割する過程でなんらかの接触があっただろう。


ただ朝日の「原発利権を追う」で内藤は、芦原ではなく太田垣から豊田を紹介された趣旨の発言をしている。太田垣が社長に在任していたのは1959年までであり、かなり早い時期から、裏社会がらみのクレームやトラブルに関電は豊田を使っていたと推測される。


豊田への「お礼」はもちろんのことだが、さまざま、豊田の関連会社に便宜をはかっていたことを内藤は次のように話した。


「芦原の指示で、豊田さんの関係会社にビルの警備を頼んだことがある。関電の関連会社が豊田さんの土地を買収する際にもめた時も私がガタガタ言うなと言い値で買わせた」


有名な「馬毛島疑惑」(1983年)に関連した話もある。その一件より前に、当時平和相銀を牛耳っていた監査役で元検事の伊坂重昭が豊田を通じて関電に接触し、「馬毛島を240億~250億円で買わないか」と持ちかけていた。


その話が立ち消えになったため、政界に顔のきく豊田一夫に工作資金20億円を託し、自民党の大物議員20人ほどの手に渡ったとされるのが「馬毛島疑惑」だ。


豊田と関電の腐れ縁はその死とともに切れたが、電力業界にフィクサー的な動きをする人物が絶滅したわけではない。


東電に代わって原発の地元対策を担い「東電の影」と呼ばれた白川司郎なる人物の関連会社には、東電から破格の条件で仕事を受注したという噂が絶えない。似たようなことは他にもあるだろう。ただ、スケールは昔より小粒になったかもしれない。


石油や原子力などを使った大規模発電所による集中的な電力システムは環境、コスト、安全保障、持続可能性からいっても、もはや古い仕組みになってしまった。


これからは、無尽蔵にある自然エネルギーをいかに人間の生活に取り込み、利用していくかが肝心であり、そのためには再エネを中心とした新しい電力システムに変えていかねばならない。


関電をはじめ大電力会社は新しい仕組みを構築する努力を怠り、カネや既得権、ときには裏社会の力を頼んで、会社を守ろうという、消極的かつ近視眼的な思考に陥っている。


 新 恭  (ツイッターアカウント:aratakyo)


公明は党是を捨て、安倍は歴史に悪名を残す

安倍首相が繰り返し口にするのは、「国民の命と平和を守る」だ。記者会見でも、国会答弁でも、党首討論でも、食傷するほど耳にした。


スローガンというものは昔から政治詐術の常套手段である。「国民の安全を守るため」、「平和のため」…。誰も反対しないそうした名目を掲げて、殺人兵器を使う。


そんなインチキ政治家に鼓舞され命を捧げる兵士たちは気の毒だが、スローガンをぶち続ける政治家は彼らの犠牲を賞賛してやまない。


集団的自衛権行使についての自民、公明の協議とやらが、「限定的」と称して国民を欺く合意をつくるための文言探しの意味しかない“茶番”であることは誰しも分かっていたことではある。


しかし、すでに常識になっているように、集団的自衛権の行使とは、米軍の下請けをして戦争に参加するということである。


日本が攻撃されてなくても、他国の助太刀にはせ参じ、殺し、殺される武力行使を、自民党にせっつかれて公明党も容認しようとしている。党利を優先し政権与党の座に固執して「平和」という党存立の基本的精神を捨てるのは、政党としての自滅行為とはいえないだろうか。


これで閣議決定に持ち込めば、安倍晋三という独裁者気取りの男は、歴史に名を残す目標に一歩近づく。ただし、名を残すと言っても、おそらく「悪名」だろう


第2次安倍内閣が発足する直前の2012年12月15日、Googleの「政治家と話そう」というイベントで、一般市民の質問に関連し安倍はこう語っている。


「日本国憲法の前文にはですね、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意したと書いてあるんですね。つまり、自分たちの安全を世界に任せますよと、言っている。…みっともない憲法ですよ、はっきり言って」


自民党の総裁に返り咲いた安倍が衆院選投票日の前日、現行憲法を「みっともない」とけなしていたとは、驚くべきことだ。


「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」というくだりを、自分たちの安全を世界に任せるという意味だとする。


そのうえで、そんなことでいいんですか、自分の国は自分たちで守るべきではないですかと暗に訴えて、憲法、とりわけ9条改正の必要性を一般市民、とくにネット番組に参加している若者層の頭に刷り込もうとする。


これはためにする曲解というほかない。平和を愛する諸国と外交によって信頼関係を結ぶことで日本の平和を守ろうというこの前文にこめられた真の意図を無視している。


第2次政権をスタートさせた安倍は祖父、岸信介以来の悲願である憲法改正をめざし、まずは発議のハードルを下げるため憲法96条の改正をもくろんだが、首尾よくコトが運ばない。


そこで仕方なく、憲法解釈の変更によって集団的自衛権を行使できるようにする、いわゆる「解釈改憲」へと舵を切った。


そうなると、当然のことながら2012年12月15日の発言のように現行憲法を否定することはできなくなる。


安倍はちゃっかり前文の自己流解釈を捨てた。そして「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」を定めた13条とともに、集団的自衛権の根拠にしてしまったのだ。


「日本国民は恒久平和を願い、平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」


このくだりを、「自国の安全を世界に任せるなんてみっともない」と批判していたはずだったが、次のような解釈に変えたのである。


「自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置をとることは禁じられていない」


だから、集団的自衛権、個別的自衛権の区別なく、自衛権の行使は容認できるという。


同じ文章を、かつては他国まかせの安全保障と批判するネタとして使い、こんどは、集団的自衛権の行使を認める根拠として用いるというのだから、あきれるほどに恣意的だ。


5月8日の報道ステーションで、イラク戦争当時、パウエル国務長官の首席補佐官だったローレンス・ウィルカーソンへの興味深いインタビューが放映された。


イラク戦争時に日本が集団的自衛権を行使できていれば、米政府は日本に参戦するよう要請していたか、という質問に対し、ウィルカーソンは実に率直に答えた。


「要請したと思う。実際に我々は政治的支援か軍隊の派遣を求める戦略をまとめていた。もし日本がどこにでも派遣できる準備が整っていたら、私は日本から部隊を二つ送るとその戦略に書いただろう」


米国としては、財政難で軍事予算が削減されるなか、戦力の不足部分を補うため日本の自衛隊と共同作戦を展開したいのはやまやまだろう。


ウィルカーソンは言う。「こういった誤った情報による戦争は今後も繰り返される。われわれはまったく学んでない。米国は唯一の超大国だからイラク戦争のようなことはやるべきでないが、またやるかと聞かれれば、『絶対にやる』と言える」


日本が憲法を改正する手続きを省いて、解釈変更で集団自衛権の行使ができる国になるということは、すなわち米国に巻き込まれて、世界の火薬庫に足を踏み入れ、憎しみの連鎖の輪に加わる可能性があるということである。


それで本当に日本人は誇りが持てるのだろうか。ウィルカーソンは続ける。


「私は日本がいわゆる普通の国になるのを見たくありません。普通とは、10年ごとにあちこちへ戦争に行き・・・何人も人を殺す銃や爆弾を持って、石油などのエネルギーを追いかけるようなことです」


イラク戦争の当事者の一人だった米政府の元高官が政治的立場を離れたがゆえに言える良識的な言葉と受け止めたい。


おそらく、知日派米国人の多くが、わざわざ米軍の下請けをやれるように憲法解釈を変えるなんて馬鹿げたことだと、利害を離れた本音の部分では思っているに違いない。


日本はやっかいな首相を選んだものである。

 新 恭  (ツイッターアカウント:aratakyo)

22年前の最高裁判例で福井地裁判決を批判する読売社説の愚

大飯原発3、4号機の運転再開を差し止めるよう命じる判決を福井地裁が言い渡した 


これについて読売新聞は「あまりに不合理な判決」と、以下のように社説で批判した。


◇最高裁は1992年の伊方原発の安全審査を巡る訴訟の判決で、「極めて高度で最新の科学的、技術的、総合的な判断が必要で、行政側の合理的な判断に委ねられている」との見解を示している。原発の審査に関し、司法の役割は抑制的であるべきだ、とした妥当な判決だった。福井地裁判決が最高裁の判例の趣旨に反するのは明らかである。◇


大震災が起きた2011年3月11日よりはるか前、原発安全神話が幅を利かしていた時代における最高裁の判決にどれほどの意味があるというのだろう。


日本の原発が国を滅ぼす危険さえはらむ代物だと誰もが知っている今、読売新聞がその判決を持ち出すのは、安倍政権や電力業界を利する議論のために、都合のいい過去の材料をこじつけたに過ぎない。


対照的に、福井地裁の判決文は、今を生きている人間の側に立ち、原発事故を経験した国の裁判所としての責任を果たそうという誠実さがにじむ。


「原子力発電技術の危険性の本質と、それがもたらす被害の大きさは福島原発事故で明らかになった。本件訴訟では、本件原発でそのような事態を招く具体的危険性が万が一にでもあるかが判断の対象とされるべきで、福島原発事故後、この判断を避けるのは裁判所に課された最も重要な責務を放棄するに等しい」


未曽有の原発事故が起きた以上、最高裁の判例があるからといって、それに従っていていいのか。経済上の損得勘定と、人の命そのものにかかわる問題を、同列に論じていいのか。そういう良識が裁判官を突き動かしたといってもいいだろう。


「福井地裁判決が最高裁の判例の趣旨に反するのは明らかである」とうそぶく読売の論説陣には、判決文の下記の一節をじっくり、かみしめてもらいたい。


「たとえ原発の停止で多額の貿易赤字が出るとしても、国富の流出、喪失というべきではなく、豊かな国土に国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻せなくなることが国富の喪失だ」


すでに日本は原発事故で国富を失った。二度と繰り返してはならない。他国に原発を輸出して危険を拡大してはならない。輸出先の国で放射性廃棄物の最終処分場が日本同様確保できない場合、どうするのか。


万が一、核のゴミを日本が引き取るという条件を付けられてまで原発建設を受注しようというのなら、それこそ国賊ものだ。


今回の判決は、安倍政治が進める平成の“富国強兵”策がはらむ人間軽視へのアンチテーゼであり、警鐘でもある。


新 恭  (ツイッターアカウント:aratakyo)

「修身」復活をねらう安倍の人間観

戦後、GHQによって廃止された「修身」の徳目を、「いじめ対策」などの名目で復活させようというのが安倍首相の根底にある教育政策だ。


安倍晋三の「晋」は高杉晋作の名から一字をもらったという。


吉田松陰、高杉晋作ら尊王を掲げた幕末の長州人が等しく崇敬したのは、後醍醐天皇に叡山への移動を建言しながら受け入れられず、それでも忠誠をつくし、死を覚悟で湊川における足利尊氏軍との決戦にのぞんだ楠木正成であろう。


そのため明治から昭和20年まで、忠臣・楠木正成、逆賊・足利尊氏という善悪イデオロギー的なイメージがこの国に定着していた。


しかし、吉川英治は「私本太平記」で、この両雄に新しい人間的な生命を吹き込み、一方を賛美することなく、人間が生きる切なさを活写した。


筆者は「私本太平記」で、楠木正成が、ともに戦うべく父を追って来た15歳の息子、正行を河内の郷里へ戻るよう命じ、永遠の別れをする場面に心を動かされる。正成の語るこのセリフは、なんと美しいことか。


正成「そなたはまだ浅春の蕾だ。春さえ知ってない。人の一生にはたくさんなことができる。誓えばどんな希望(のぞみ)でもかけられる。父と共に死ぬなどは、そのときだけのみずからの満足にすぎん。世の中もまた定まったものではない。易学のいうように、時々刻々、かわって行く。ゆえにどんな眼前の悪状態にも絶望するにはあたらぬ。」


正行「………」


正成「それなのに、父は死のたたかいに行く。これは父がいたらぬからだ。みかどの御為とは申しながら、かくならぬ前に、もっとよい忠誠の道を、ほかにさがして、力をつくすべきであった。いや心はくだいたが、この父にそこまでの能がなく、ついにみずからをも窮地に終わらすほかない今日とはなったのだ。…そのような正成に、若木のそちを共につれてゆくことはできぬ。そなたは正
成のようなおろかしい道を踏むな」


正行「………」


正成「まず、あと淋しかろう母に成人を見せてやれ。この後は、ふるさとの河内一領を保ちえたら、それを以て、僥(しあわ)せとし、めったに無益な兵馬をうごかすでないぞ。ただ自分を作れ、自分を養え。そして一個の大人となったあかつきには、自然そなたとしての志も分別もついて来よう。その上は、そなた自身の一生だ。身の一命を、いかにつかうかも、そのときに悔いなき思慮をいたすがよい」


正行が父の訣別の言葉をどう受け取ったにせよ、作者が正成に語らせているのは尊王思想でも、忠君の死を美化するものでも、英傑の勇猛な言辞でもない。人間としてあたりまえの心情を伝えたかったに違いない。


同じ事実でも、解釈は幾通りもある。それを教えるのが教育であり、他者、他国への理解を深め、自らを省みて、人どうし互いに異なることの素晴らしさ、難しさ、つらさを胸に包みながら生きてゆくのが人生ではないだろうか。


大下英治の「安倍晋三と岸信介」という本に、安倍晋三へのインタビューが収められている。安倍の国家観、教育観が次の発言にくっきり浮かび上がる。


「たとえば、救国において、国のために命を懸けるという考えについて述べますと、教育現場では、国のために命を懸けるなんてことは馬鹿なやつがすることだと言う教師もいるわけです。…得になること、利益になることだけをやりなさいと教えるわけです」


国のために命を懸けるのは尊く、命を懸けないのは自分の利益だけを考えることだ、というのが安倍の基本認識らしい。


だが、国のために命を懸ける必要はないと言う先生が、自分の利益になることだけをやりなさいと教えているとは限らない。


百歩譲って安倍がそう考えるのは自由だとしても、これを絶対的真理であるかのように、様々な問題に当てはめ、国を動かしていこうとするところに、彼の勘違いと危険性がある。


「血の同盟」。かつて 岡崎久彦とともに出した著書「この国を守る決意」で、安倍は日米関係をそのように表現した。


「いうまでもなく、軍事同盟というのは“血の同盟”です。日本がもし外敵から攻撃を受ければ、アメリカの若者が血を流します。しかし、今の憲法解釈のもとでは、日本の自衛隊は、少なくともアメリカが攻撃されたときに血を流すことはないわけです」


自衛隊が血を流さないのでは、対等なパートナーとはいえず、だからこそ集団的自衛権の行使が必要だと力説する。


「この問題から目をそむけていて、ただ、アメリカに文句を言っていても物事は前進しませんし、われわれの安全保障にとっても有益ではないと思います」


かりに中国が尖閣を侵略してきたとき、いかに同盟国とはいえ米国が守ってくれるとは限らない。米国が攻撃されたときに自衛隊が血を流す間柄になってこそ、米国も本気で尖閣の防衛にあたってくれる。安倍はそう言いたいらしい。


一見、もっともな理屈である。たしかに、米国が中国と戦ってまで日本を守るという認識は甘すぎる。しかし、集団的自衛権の行使ができるようにしたら、事情が劇的に変わるだろうか。そうとも思えない。


日本の防衛にとっての本質的な問題は別のところにあるからだ。米国が中国と対峙する姿勢を示しながら、武力を行使したいとはつゆほども思っていないという現実を直視するべきであろう。


米国にすれば、安倍政権が中国や北朝鮮の脅威を喧伝し、米国製の戦闘機などの兵器を大量に買ってくれることは大歓迎にちがいない。しかし過剰な対立は困るはずだ。


東アジアの適度な緊張なら米国にとって都合がいい。日米同盟の価値が冷戦終焉後も色褪せないのはそのためだ。おかげで列島85か所に米軍の基地・施設をめぐらし、世界軍事戦略のために自由に利用できる特権を与えられている。


しかし、適度な緊張のバランスがくずれて、中国と日本の間で軍事衝突が起こるようなことだけは、どんなことをしても避けたい。それが米国の本音だろう。


はっきりいうなら、米国は中国と戦うために日本の集団的自衛権行使を必要としているのではない。


にもかかわらず、安倍首相はおもに尖閣に対する中国の侵攻を意識して、集団的自衛権の行使を実現させようとしている。ここに日米両国の大きな意識の乖離がある。


米国にはもはや、日本とともに本気で中国を封じ込めるだけの、国防予算の余力がない。また、経済的な損得勘定からみても、米国が中国とコトを構えるとは思えない。


なのに、安倍政権は中国、韓国を靖国神社参拝や歴史認識で過度に刺激し、東アジアに不穏な空気を招き入れている。米政府にはとうてい理解できないことに違いない。成熟した国のリーダーの姿ではないからだ。


安倍の人間観は、国のために命を懸ける人と、そうではない人に二分されているように思える。


国のために命を懸けるといって武器をとってきたのが20世紀の戦争ではなかっただろうか。個々の人間どうしなら仲良くできる人々が、国のために戦い、殺し合い、大切な家族や友人を失ってきた。


安倍は3.11大震災に関してこう指摘する。「国のために命を懸けるなんて愚かなことだと、子どもに教えているような学校の先生たちは、おそらく我先に逃げ出したんじゃないかと思いますよ」


はたしてそうだろうか。命を大切にする。他人の命も、自分の命も。ヒューマニズムの根本だ。それを教えたからといって、「国のために働く」ことを否定しているわけではない。それを「愚かだ」と言っているわけでもない。


子どもたちの命が危ういと思えば、大人として当然、自らの命を賭して助けるだろう。


大切なことは、どこの国の人であろうが人命は尊いという思いだ。自国のために他国を破壊していいわけがない。現実的に困難ではあっても、国と国の間で武力の応酬がないよう、国のために命をささげる必要などないよう、努力していくのが今に生きるわれわれのとるべき道ではないだろうか。


論理のすり替えはやめてほしい。あたかも戦前の亡霊が語るようなこじつけの理屈は無用だ。


 新 恭  (ツイッターアカウント:aratakyo)

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