公明は党是を捨て、安倍は歴史に悪名を残す
安倍首相が繰り返し口にするのは、「国民の命と平和を守る」だ。記者会見でも、国会答弁でも、党首討論でも、食傷するほど耳にした。
スローガンというものは昔から政治詐術の常套手段である。「国民の安全を守るため」、「平和のため」…。誰も反対しないそうした名目を掲げて、殺人兵器を使う。
そんなインチキ政治家に鼓舞され命を捧げる兵士たちは気の毒だが、スローガンをぶち続ける政治家は彼らの犠牲を賞賛してやまない。
集団的自衛権行使についての自民、公明の協議とやらが、「限定的」と称して国民を欺く合意をつくるための文言探しの意味しかない“茶番”であることは誰しも分かっていたことではある。
しかし、すでに常識になっているように、集団的自衛権の行使とは、米軍の下請けをして戦争に参加するということである。
日本が攻撃されてなくても、他国の助太刀にはせ参じ、殺し、殺される武力行使を、自民党にせっつかれて公明党も容認しようとしている。党利を優先し政権与党の座に固執して「平和」という党存立の基本的精神を捨てるのは、政党としての自滅行為とはいえないだろうか。
これで閣議決定に持ち込めば、安倍晋三という独裁者気取りの男は、歴史に名を残す目標に一歩近づく。ただし、名を残すと言っても、おそらく「悪名」だろう
第2次安倍内閣が発足する直前の2012年12月15日、Googleの「政治家と話そう」というイベントで、一般市民の質問に関連し安倍はこう語っている。
「日本国憲法の前文にはですね、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意したと書いてあるんですね。つまり、自分たちの安全を世界に任せますよと、言っている。…みっともない憲法ですよ、はっきり言って」
自民党の総裁に返り咲いた安倍が衆院選投票日の前日、現行憲法を「みっともない」とけなしていたとは、驚くべきことだ。
「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」というくだりを、自分たちの安全を世界に任せるという意味だとする。
そのうえで、そんなことでいいんですか、自分の国は自分たちで守るべきではないですかと暗に訴えて、憲法、とりわけ9条改正の必要性を一般市民、とくにネット番組に参加している若者層の頭に刷り込もうとする。
これはためにする曲解というほかない。平和を愛する諸国と外交によって信頼関係を結ぶことで日本の平和を守ろうというこの前文にこめられた真の意図を無視している。
第2次政権をスタートさせた安倍は祖父、岸信介以来の悲願である憲法改正をめざし、まずは発議のハードルを下げるため憲法96条の改正をもくろんだが、首尾よくコトが運ばない。
そこで仕方なく、憲法解釈の変更によって集団的自衛権を行使できるようにする、いわゆる「解釈改憲」へと舵を切った。
そうなると、当然のことながら2012年12月15日の発言のように現行憲法を否定することはできなくなる。
安倍はちゃっかり前文の自己流解釈を捨てた。そして「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」を定めた13条とともに、集団的自衛権の根拠にしてしまったのだ。
「日本国民は恒久平和を願い、平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」
このくだりを、「自国の安全を世界に任せるなんてみっともない」と批判していたはずだったが、次のような解釈に変えたのである。
「自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置をとることは禁じられていない」
だから、集団的自衛権、個別的自衛権の区別なく、自衛権の行使は容認できるという。
同じ文章を、かつては他国まかせの安全保障と批判するネタとして使い、こんどは、集団的自衛権の行使を認める根拠として用いるというのだから、あきれるほどに恣意的だ。
5月8日の報道ステーションで、イラク戦争当時、パウエル国務長官の首席補佐官だったローレンス・ウィルカーソンへの興味深いインタビューが放映された。
イラク戦争時に日本が集団的自衛権を行使できていれば、米政府は日本に参戦するよう要請していたか、という質問に対し、ウィルカーソンは実に率直に答えた。
「要請したと思う。実際に我々は政治的支援か軍隊の派遣を求める戦略をまとめていた。もし日本がどこにでも派遣できる準備が整っていたら、私は日本から部隊を二つ送るとその戦略に書いただろう」
米国としては、財政難で軍事予算が削減されるなか、戦力の不足部分を補うため日本の自衛隊と共同作戦を展開したいのはやまやまだろう。
ウィルカーソンは言う。「こういった誤った情報による戦争は今後も繰り返される。われわれはまったく学んでない。米国は唯一の超大国だからイラク戦争のようなことはやるべきでないが、またやるかと聞かれれば、『絶対にやる』と言える」
日本が憲法を改正する手続きを省いて、解釈変更で集団自衛権の行使ができる国になるということは、すなわち米国に巻き込まれて、世界の火薬庫に足を踏み入れ、憎しみの連鎖の輪に加わる可能性があるということである。
それで本当に日本人は誇りが持てるのだろうか。ウィルカーソンは続ける。
「私は日本がいわゆる普通の国になるのを見たくありません。普通とは、10年ごとにあちこちへ戦争に行き・・・何人も人を殺す銃や爆弾を持って、石油などのエネルギーを追いかけるようなことです」
イラク戦争の当事者の一人だった米政府の元高官が政治的立場を離れたがゆえに言える良識的な言葉と受け止めたい。
おそらく、知日派米国人の多くが、わざわざ米軍の下請けをやれるように憲法解釈を変えるなんて馬鹿げたことだと、利害を離れた本音の部分では思っているに違いない。
日本はやっかいな首相を選んだものである。
新 恭 (ツイッターアカウント:aratakyo)
22年前の最高裁判例で福井地裁判決を批判する読売社説の愚
大飯原発3、4号機の運転再開を差し止めるよう命じる判決を福井地裁が言い渡した
これについて読売新聞は「あまりに不合理な判決」と、以下のように社説で批判した。
◇最高裁は1992年の伊方原発の安全審査を巡る訴訟の判決で、「極めて高度で最新の科学的、技術的、総合的な判断が必要で、行政側の合理的な判断に委ねられている」との見解を示している。原発の審査に関し、司法の役割は抑制的であるべきだ、とした妥当な判決だった。福井地裁判決が最高裁の判例の趣旨に反するのは明らかである。◇
大震災が起きた2011年3月11日よりはるか前、原発安全神話が幅を利かしていた時代における最高裁の判決にどれほどの意味があるというのだろう。
日本の原発が国を滅ぼす危険さえはらむ代物だと誰もが知っている今、読売新聞がその判決を持ち出すのは、安倍政権や電力業界を利する議論のために、都合のいい過去の材料をこじつけたに過ぎない。
対照的に、福井地裁の判決文は、今を生きている人間の側に立ち、原発事故を経験した国の裁判所としての責任を果たそうという誠実さがにじむ。
「原子力発電技術の危険性の本質と、それがもたらす被害の大きさは福島原発事故で明らかになった。本件訴訟では、本件原発でそのような事態を招く具体的危険性が万が一にでもあるかが判断の対象とされるべきで、福島原発事故後、この判断を避けるのは裁判所に課された最も重要な責務を放棄するに等しい」
未曽有の原発事故が起きた以上、最高裁の判例があるからといって、それに従っていていいのか。経済上の損得勘定と、人の命そのものにかかわる問題を、同列に論じていいのか。そういう良識が裁判官を突き動かしたといってもいいだろう。
「福井地裁判決が最高裁の判例の趣旨に反するのは明らかである」とうそぶく読売の論説陣には、判決文の下記の一節をじっくり、かみしめてもらいたい。
「たとえ原発の停止で多額の貿易赤字が出るとしても、国富の流出、喪失というべきではなく、豊かな国土に国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻せなくなることが国富の喪失だ」
すでに日本は原発事故で国富を失った。二度と繰り返してはならない。他国に原発を輸出して危険を拡大してはならない。輸出先の国で放射性廃棄物の最終処分場が日本同様確保できない場合、どうするのか。
万が一、核のゴミを日本が引き取るという条件を付けられてまで原発建設を受注しようというのなら、それこそ国賊ものだ。
今回の判決は、安倍政治が進める平成の“富国強兵”策がはらむ人間軽視へのアンチテーゼであり、警鐘でもある。
新 恭 (ツイッターアカウント:aratakyo)
「修身」復活をねらう安倍の人間観
戦後、GHQによって廃止された「修身」の徳目を、「いじめ対策」などの名目で復活させようというのが安倍首相の根底にある教育政策だ。
安倍晋三の「晋」は高杉晋作の名から一字をもらったという。
吉田松陰、高杉晋作ら尊王を掲げた幕末の長州人が等しく崇敬したのは、後醍醐天皇に叡山への移動を建言しながら受け入れられず、それでも忠誠をつくし、死を覚悟で湊川における足利尊氏軍との決戦にのぞんだ楠木正成であろう。
そのため明治から昭和20年まで、忠臣・楠木正成、逆賊・足利尊氏という善悪イデオロギー的なイメージがこの国に定着していた。
しかし、吉川英治は「私本太平記」で、この両雄に新しい人間的な生命を吹き込み、一方を賛美することなく、人間が生きる切なさを活写した。
筆者は「私本太平記」で、楠木正成が、ともに戦うべく父を追って来た15歳の息子、正行を河内の郷里へ戻るよう命じ、永遠の別れをする場面に心を動かされる。正成の語るこのセリフは、なんと美しいことか。
正成「そなたはまだ浅春の蕾だ。春さえ知ってない。人の一生にはたくさんなことができる。誓えばどんな希望(のぞみ)でもかけられる。父と共に死ぬなどは、そのときだけのみずからの満足にすぎん。世の中もまた定まったものではない。易学のいうように、時々刻々、かわって行く。ゆえにどんな眼前の悪状態にも絶望するにはあたらぬ。」
正行「………」
正成「それなのに、父は死のたたかいに行く。これは父がいたらぬからだ。みかどの御為とは申しながら、かくならぬ前に、もっとよい忠誠の道を、ほかにさがして、力をつくすべきであった。いや心はくだいたが、この父にそこまでの能がなく、ついにみずからをも窮地に終わらすほかない今日とはなったのだ。…そのような正成に、若木のそちを共につれてゆくことはできぬ。そなたは正
成のようなおろかしい道を踏むな」
正行「………」
正成「まず、あと淋しかろう母に成人を見せてやれ。この後は、ふるさとの河内一領を保ちえたら、それを以て、僥(しあわ)せとし、めったに無益な兵馬をうごかすでないぞ。ただ自分を作れ、自分を養え。そして一個の大人となったあかつきには、自然そなたとしての志も分別もついて来よう。その上は、そなた自身の一生だ。身の一命を、いかにつかうかも、そのときに悔いなき思慮をいたすがよい」
正行が父の訣別の言葉をどう受け取ったにせよ、作者が正成に語らせているのは尊王思想でも、忠君の死を美化するものでも、英傑の勇猛な言辞でもない。人間としてあたりまえの心情を伝えたかったに違いない。
同じ事実でも、解釈は幾通りもある。それを教えるのが教育であり、他者、他国への理解を深め、自らを省みて、人どうし互いに異なることの素晴らしさ、難しさ、つらさを胸に包みながら生きてゆくのが人生ではないだろうか。
大下英治の「安倍晋三と岸信介」という本に、安倍晋三へのインタビューが収められている。安倍の国家観、教育観が次の発言にくっきり浮かび上がる。
「たとえば、救国において、国のために命を懸けるという考えについて述べますと、教育現場では、国のために命を懸けるなんてことは馬鹿なやつがすることだと言う教師もいるわけです。…得になること、利益になることだけをやりなさいと教えるわけです」
国のために命を懸けるのは尊く、命を懸けないのは自分の利益だけを考えることだ、というのが安倍の基本認識らしい。
だが、国のために命を懸ける必要はないと言う先生が、自分の利益になることだけをやりなさいと教えているとは限らない。
百歩譲って安倍がそう考えるのは自由だとしても、これを絶対的真理であるかのように、様々な問題に当てはめ、国を動かしていこうとするところに、彼の勘違いと危険性がある。
「血の同盟」。かつて 岡崎久彦とともに出した著書「この国を守る決意」で、安倍は日米関係をそのように表現した。
「いうまでもなく、軍事同盟というのは“血の同盟”です。日本がもし外敵から攻撃を受ければ、アメリカの若者が血を流します。しかし、今の憲法解釈のもとでは、日本の自衛隊は、少なくともアメリカが攻撃されたときに血を流すことはないわけです」
自衛隊が血を流さないのでは、対等なパートナーとはいえず、だからこそ集団的自衛権の行使が必要だと力説する。
「この問題から目をそむけていて、ただ、アメリカに文句を言っていても物事は前進しませんし、われわれの安全保障にとっても有益ではないと思います」
かりに中国が尖閣を侵略してきたとき、いかに同盟国とはいえ米国が守ってくれるとは限らない。米国が攻撃されたときに自衛隊が血を流す間柄になってこそ、米国も本気で尖閣の防衛にあたってくれる。安倍はそう言いたいらしい。
一見、もっともな理屈である。たしかに、米国が中国と戦ってまで日本を守るという認識は甘すぎる。しかし、集団的自衛権の行使ができるようにしたら、事情が劇的に変わるだろうか。そうとも思えない。
日本の防衛にとっての本質的な問題は別のところにあるからだ。米国が中国と対峙する姿勢を示しながら、武力を行使したいとはつゆほども思っていないという現実を直視するべきであろう。
米国にすれば、安倍政権が中国や北朝鮮の脅威を喧伝し、米国製の戦闘機などの兵器を大量に買ってくれることは大歓迎にちがいない。しかし過剰な対立は困るはずだ。
東アジアの適度な緊張なら米国にとって都合がいい。日米同盟の価値が冷戦終焉後も色褪せないのはそのためだ。おかげで列島85か所に米軍の基地・施設をめぐらし、世界軍事戦略のために自由に利用できる特権を与えられている。
しかし、適度な緊張のバランスがくずれて、中国と日本の間で軍事衝突が起こるようなことだけは、どんなことをしても避けたい。それが米国の本音だろう。
はっきりいうなら、米国は中国と戦うために日本の集団的自衛権行使を必要としているのではない。
にもかかわらず、安倍首相はおもに尖閣に対する中国の侵攻を意識して、集団的自衛権の行使を実現させようとしている。ここに日米両国の大きな意識の乖離がある。
米国にはもはや、日本とともに本気で中国を封じ込めるだけの、国防予算の余力がない。また、経済的な損得勘定からみても、米国が中国とコトを構えるとは思えない。
なのに、安倍政権は中国、韓国を靖国神社参拝や歴史認識で過度に刺激し、東アジアに不穏な空気を招き入れている。米政府にはとうてい理解できないことに違いない。成熟した国のリーダーの姿ではないからだ。
安倍の人間観は、国のために命を懸ける人と、そうではない人に二分されているように思える。
国のために命を懸けるといって武器をとってきたのが20世紀の戦争ではなかっただろうか。個々の人間どうしなら仲良くできる人々が、国のために戦い、殺し合い、大切な家族や友人を失ってきた。
安倍は3.11大震災に関してこう指摘する。「国のために命を懸けるなんて愚かなことだと、子どもに教えているような学校の先生たちは、おそらく我先に逃げ出したんじゃないかと思いますよ」
はたしてそうだろうか。命を大切にする。他人の命も、自分の命も。ヒューマニズムの根本だ。それを教えたからといって、「国のために働く」ことを否定しているわけではない。それを「愚かだ」と言っているわけでもない。
子どもたちの命が危ういと思えば、大人として当然、自らの命を賭して助けるだろう。
大切なことは、どこの国の人であろうが人命は尊いという思いだ。自国のために他国を破壊していいわけがない。現実的に困難ではあっても、国と国の間で武力の応酬がないよう、国のために命をささげる必要などないよう、努力していくのが今に生きるわれわれのとるべき道ではないだろうか。
論理のすり替えはやめてほしい。あたかも戦前の亡霊が語るようなこじつけの理屈は無用だ。
新 恭 (ツイッターアカウント:aratakyo)
石原慎太郎の異常な偏執
石原慎太郎氏のオツムの現状は、自己中心が高じて、異常に偏執的になっているのではないか。あの人かなり変だと思っている人は永田町界隈に多いに違いないが、口には出しにくい。
なにせ残骸に近いとはいえ、「名前」がある。ときどき顔を出して好き勝手なことを言って帰るだけだから、コミュニケーションのとりようもない。遠巻きにながめているほかない裸の王様のような存在になってしまっている。
それでも、昨日、日本維新の会の会合で、多数決で決めた原子力協定反対の党方針を「高校の生徒会のやり方だ。バカバカしくて恥ずかしい」と、政党の共同代表たる立場もわきまえず放言するに至っては、さすがに格下の議員といえど黙っちゃいられない。
「(原子力協定の)採決の時に私は賛成しますよ、賛成したらどうする」と問われた国会議員たちのなかから、間髪をいれず「出て行け!」と怒鳴る若手議員の声が出たのは、正常な反応といえるだろう。
それだけ、石原氏の頭のなかから政党や民主主義という概念が抜け落ちているということだが、それと同時に、思考のバランスがこのところ急速に悪化し、全体への気配りや状況把握の力が以前にもまして落ちてきているのではないかと疑わせる。
筆者は、石原氏のことを「エシュロンじいさん」と、心のなかで呼んでいる。貴重な国会の質問機会に、二回続けて、しかもほとんど同じ発言で、エシュロンに関して問いただすことに長い時間を費やしたからだ。
まず、昨年11月15日の衆院・国家安全保障特別委。
石原「三沢のアメリカの航空基地に、エシュロンという大きなドームに囲われた装置がありますね。冷戦時代に、アメリカが共産圏の情報を窃取するためにつくられた強力な諜報装置です。同じものがミュンヘンにもあります。冷戦が終わり、これが日本の国内に向かって使われているということは、自明なことだと多くの専門家は指摘しております。政府はこれからどういう措置をとるんですか」
同盟国にパラボラアンテナを立てて米国のNSA本部とつなぎ、世界中の通信を傍受してきたといわれるのが「エシュロン」。米政府はもちろん、日本も認めてはおらず、目で確認した人もいないが、2001年にEU議会が「エシュロン」を問題視し、その存在の確度が高くなっているのは事実だ。
しかし公式には、日米ともエシュロンの存在を認めていないから、政府答弁は決まり切っている。
小野寺防衛相「ご指摘の施設のようなものが三沢基地の中にあることは承知しておりますが、それがエシュロンというものかどうかについては、確認をしておりません」
次に、今年2月12日の衆院予算委。
石原「青森県の三沢という航空基地に昔からエシュロンという大きな情報装置があります。これは同じものがミュンヘンにもありますが、冷戦時代にソ連、北朝鮮の動向を調査するための諜報装置だったと聞いている。専門家によると、日本の政府、とくに官庁間の電話はほとんど盗聴されている可能性がある。これをどうしたらいいと思いますか」
小野寺防衛相「米軍の三沢基地のなかにご指摘のような形状をしたものがあることは確認しておりますが、それがどのような役割のものかは承知をしておりません」
同じ質問と答弁。再度同一のテーマを取り上げるのはいいが、それなら角度を変えてみるとか、別の要素を加えるとかするのが、少しはマシな質問のありかたではないだろうか。
筆者が不思議に思うのは、「エシュロン」を言うなら、なぜ「プリズム(PRISM)」を問題にしないのかということだ。
「プリズム」は周知のとおり、かつて米国のNSAやCIAに在籍したエドワード・スノーデンが暴露して明らかになったNSAの個人情報収集システムだ。
「エシュロン」で、官庁間などの会話は筒抜けになっているから、施設を撤去させるべきだというのが石原の主張だが、「プリズム」の活動が続いているのに、「エシュロン」を三沢から撤去してどれだけの効果があるだろうか。石原の頭のなかは、両システムがこんがらがっているのではないか。
石原は、メルケル独首相の携帯も「エシュロン」で盗聴されているように思っているようだが、おそらくそれは間違っている。携帯はデジタルだからだ。
平成22年4月7日の「参議院国際・地球温暖化問題に関する特別委員会」で、参考人として出席した情報通信の専門家、土屋大洋氏はエシュロンについて次のように説明した。
◆エシュロンというのが確かにあった。このプログラムはアナログの技術を中心にしたものだ。あらゆる無線はかつてはアナログでやっていた。人工衛星を介したり、海底ケーブルでも微弱な電波を出すアナログ技術のもの、これらは傍受しやすい。エシュロンが収集していたのはこういう無線の情報だ。
ところが、2000年ごろからインターネットなどデジタル技術が世界に普及したことから事情が激変した。デジタルなら、微弱な電波も出ない。暗号化もしやすい。だから傍受しても分かりにくい。そうなると、通信事業者の協力がなければできなくなり、新たなシステムによる通信傍受がブッシュ政権、オバマ政権で行われている。◆
土屋氏が説明したこの新システムこそ、スノーデンが暴露した「プリズム」か、それに近いものであろうと容易に推察できる。
アナログ対応の「エシュロン」が果たしている役割は、現在においてはかなり小さくなっているに違いない。
一方、デジタル情報革命によって登場した「プリズム」は、米国の大手インターネット企業の協力で、たやすく電子メール、写真、チャット、動画、文書などの情報を収集できる仕組みだ。
マイクロソフト、グーグル、ヤフー、フェイスブックなどシリコンバレーの巨人たちに、世界中のネットユーザーが個人情報を差し出し、安価なオンラインサービスを受け取っているのは周知のとおり。スマホの利用者の急増とともに、居場所まで含む個人情報はいっそう大量に流出している。
石原の言うように、エシュロンの施設を撤去したところで、NSAを中心とする通信傍受システムは微動だにしないだろう。
秘密保護法をつくった日本政府のNSCが、期待通り米国から情報をたくさん受け取るとしたら、政敵や邪魔な人間を潰すためのプライバシー、スキャンダル情報を仕込むことさえできるかもしれない。
それこそ、日本にも恐るべき国民監視体制が築かれないとも限らないだろう。国家が秘密を守るということは、国民が個人の秘密を差し出すということにつながる。
新 恭 (ツイッターアカウント:aratakyo)
都民よ、いまこそ立ち上がれ
東京都民よ、日本のためにたちあがれ。
国家主義の日本に戻さないために。ヒーロー気分に酔う、勘違い首相の「富国強兵」ごっこに巻き込まれないように。
この都知事選は、全国民に代わって、東京都民が、現政権に「ノー」をつきつけるまたとない機会だ。「原発ゼロ」を掲げる候補に票を投じることで、その意思をあらわそう。
現下の日本。気味の悪い空気が広がっている。
安倍晋三というナルシストの磁力にひきつけられるように、さまざまな妖怪がうようよと這い出してきた。
過去の戦争を、「自存自衛」「アジアの解放」などと賛美し、戦争への「反省」を「自虐」と言い募り、「愛国」の気分に酔いしれる。複眼的に他国民の視点や心情に配慮する人間のことを「反日」だと決めつける。
そんな連中を、安倍首相はことのほかお気に入りのようで、なんとNHKの経営委員に二人も起用した。
朝日新聞東京本社に押しかけて拳銃自殺した野村秋介のことを「神にその死をささげたのである」と礼賛し、その真意を問われ「これは哲学の問題だ」とうそぶく女性委員。
都知事選の応援演説で、他候補を「人間のクズ」だと罵倒してはばからない極右思想の売れっ子作家。日本語の品格を貶める人物でも作家になれるというのは驚くべき発見だ。
そして、NHKの新会長には、経営委員会に隠然たる力を持つJR東海会長や富士フイルム会長の推薦で、安倍の茶坊主になれそうな財界人が就任した。
こういう勢力が世の中に跋扈し、原子力マフィアの企業群がCMや広告というカネの圧力でマスコミを押さえつけ、骨抜きにされたメディアが「脱原発」という争点を隠そうとしてきた。それが今回の都知事選だ。
都民は騙されてはならない。巨額の税金、高い電気料金で、原発にかかる膨大なコストを国民が負担させられてきたからこそ、電力会社は大儲けできた。燃料代だけ比べて、他のエネルギーより安いと空とぼけたことが言えたのだ。
原発をなくし、自然エネルギーを中心とした社会にこの国を変えよう。戦争のできる国にしようと画策する安倍政権に「ノー」と言おう。
そのために、都知事選を最大の突破口としてとらえ、雪が降ろうが、どんなに寒かろうが、投票所へ足を運ぼう。
新 恭 (ツイッターアカウント:aratakyo)
安倍首相のデタラメ憲法観
先日の衆議院予算委員会で、生活の党、畑浩治議員が、日ごろから立憲主義に反するような発言をしている安倍首相にこう問いただした。
「総理、憲法とはどういう性格のものだとお考えでしょうか」
安倍首相の答弁は予想に違わぬ内容だった。
「考え方の一つとして、いわば国家権力を縛るものだという考え方がある。しかし、それは王権が絶対権力を持っていた時代の主流的な考え方であって、いま憲法というのは日本という国の形、理想と未来を、そして目標を語るものではないかと思う」
これまでにも、独りよがりの憲法観を批判されてきたにもかかわらず、いまだ無教養をさらけ出すことが快感であるかのごとき発言を続ける。なぜ、われわれはこういう人物を首相にしてしまったのか。
国家権力を縛る、つまり為政者が好き勝手にできないようコントロールする。それが憲法の目的だ。だれかの入れ知恵か独自の見解かは知らないが、「それは絶対王政の時代の考え方だ」と安倍首相は堂々と言ってのける。
どうやら、安倍首相は、王権を縛るために憲法がつくられたことはないという世界の歴史をご存じないようだ。
英国のマグナカルタは、貴族層が王の課税権をしばったものだが、これは憲法とはいえない。成文はなくとも英国に立憲体制が確立されるには名誉革命を待たねばならなかった。
フランスは、フランス革命のあと、すなわちルイ王朝の崩壊後に憲法がつくられた。アメリカはもちろん独立戦争の後である。
つまり、英、米、仏とも、市民が為政者をコントロールするため、統治権力をどのような目的で成立させたのかを明確化する、いわば覚書としてつくったのが憲法なのだ。
その意味で、自民党の憲法改正草案には違和感をおぼえる。特定の道徳観や規律を重視し、いわゆる「国柄」を国民に押しつけている。
「日本国民は、国と郷土を誇りを持って自ら守り…和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」(自民党憲法改正草案前文)
「常に公益及び公の秩序に反してはならない」(同12条)
「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わねばならない」(同24条)
これではまるで、旧東側国家の憲法のようだ。法と道徳が分離されていない。その時々の権力者が、こうあるべきだと思う国の姿を書き込むような憲法は名ばかりで、真の憲法とはいえない。
人にはそれぞれの道徳観があり、期待する国家像がある。民主主義とは、そのような人によって違うものを最高法規にして国民を縛るのではなく、選挙で自分の考えに近い候補者に票を投じる行為を通じて、望ましいと思う国づくりへ政治を動かしてゆくことであろう。
安倍首相のような憲法観を持った人物があろうことか首相となり、その内閣支持率が高どまりしているというのは、実に奇怪な現象である。
新 恭 (ツイッターアカウント:aratakyo)
安倍首相の気が知れない
安倍首相は靖国神社参拝にあたって次のような談話を出した。
「国のために戦い、尊い命を犠牲にされた御英霊に対して、哀悼の誠を捧げるとともに、尊崇の念を表し、御霊安らかなれとご冥福をお祈りしました」
この言葉に、本当に戦死者を悼む心がこめられているだろうか。英霊とたてまつられることで心が癒されるという遺族の方々には申し訳ないが、大いなる疑問を感じる。
「普通の国民」が、軍国主義的国家体制によって尊い命を犠牲にさせられた。それがあの戦争ではなかったのか。
英雄でも豪傑でもない、ごく普通の市民が、主として軍部の暴走とマスコミの扇動によって戦争に駆り立てられたのだ。
「靖国」という戦前ににつくられたストーリーがあるからこそ、この神社への政治家の参拝は単なる慰霊とは見なされないのだろう。
天照大神を祖神とする天皇が、天皇のために戦って亡くなった人々を神として靖国に祀る。つまり、天皇のために、お国のために、命をささげた者は、靖国で神になれるという伝説を、時の政府はつくりあげた。裏を返せば、戦意高揚、戦争協力の仕組みである。
たしかに、国家の犠牲になって亡くなった数知れぬ人々のために祈りをささげたいという心は尊いし、大切なことだ。だが、なぜその「心」の表現が戦没者を神として祀る、いわば新興宗教である「靖国」への参拝なのかが、いまひとつよくわからない。
戦後の改革の過程で、GHQは靖国神社を戦没者の追悼行事を行う公的な記念堂のようなものにしてはどうかと持ちかけたが、日本側は一般の神社と同じ民間の宗教法人として存続させることにより、独特の軍国主義的宗教ストーリーを残す道を選んだのである。
サンフランシスコ講和条約が結ばれたあと、靖国神社を公的な存在として復活させようという動きがはじまり、いまも続いている。
もちろん、国が国のために命を落とした人々を追悼するのは当たり前のことであるが、そこを公的な施設とするならば、神道的な色彩を拭い去る必要がある。
欧米、たとえばアメリカ、フランスなどでやっている追悼、慰霊の式典は、要するに墓参りのセレモニーだ。宗教色は限りなく薄い。
米国立のアーリントン墓地ではメモリアル・デーに大統領らが戦没者らをたたえる演説や「無名戦士の墓」への献花を行う。フランスでは、凱旋門の下の「無名戦士の墓」に大統領が第一次大戦の休戦記念日と第二次大戦の戦勝記念日に参拝して献花する。
当然のことながら、ただ一つの神を信じる「一神教」の国々に、戦没者が神になるという発想はありえない。
「無名戦士の墓」といえる場所は日本にもちゃんとある。千鳥ケ淵戦没者墓苑だ。戦時中、日本国外で命を落とした軍人、一般人の、身元が不明であったり引き取り手のない遺骨を安置するため、1959年につくられた。
そんな追悼施設があってもなお、「靖国」に特別な思いを持つ日本人が多い。靖国神社には当然のことながら、遺骨も位牌もない。戦没者の名前、階級、位階、勲等などを筆書きした「霊璽簿」があり、ご神体とされる鏡に「霊璽簿」を写して合祀祭を行うことで、「神霊」となる。
つまり、「霊璽簿」という紙に書かれた人々が靖国に祀られた神々である。神々には、幕末史を駆け抜けた名が連なり、日本男児の心を奮い立たせる。吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作、中岡慎太郎、武市半平太、橋本左内、大村益次郎…。
靖国神社の起源は、勤王の志士たちによる同志追悼の招魂祭である。薩長の官軍が江戸を制圧すると、官軍の戦死者を天皇の忠臣として崇め、敵対する集団を賊軍としてその死者を顧みないという、日本古来の御霊信仰とは異なる祈りのかたちをつくりだした。維新の立役者であっても西南戦争で政府軍と戦った西郷隆盛は祀られていない。
それでも、明治維新のヒーローや、故国のために命を捧げた戦士たちが臨在するかのようなロマンチシズムに誘われてその境内を訪れる人も多いだろう。
ただし、「靖国で会おう」といったたぐいの、兵士たちの常套句は昭和になって使われはじめたようであり、皇国史観が広まり戦時体制が強化される過程で靖国伝説というべきものがつくられていったと想像できる。
英雄、英傑たちとともに神になれると信じて戦場に散った若者の心を想うと、痛ましいかぎりだ。
靖国神社という存在を全否定するつもりはない。死者を神とすることについても、それこそ日本の伝統といえる。菅原道真を祭神とする天満宮、楠木正成を祀る湊川神社などが知られている。その国に、戦没者を鎮魂する宗教があっても何ら不思議はないかもしれない。
しかも、政教分離の原則、A級戦犯の合祀をもって、宗教施設である靖国神社への首相や閣僚の参拝に反対するのは、国内で持ち上がった運動であり、もともと中国や韓国のアイデアではなかった。
1985年、中曽根首相の参拝に関し、A級戦犯合祀を問題とするよう中国側をけしかけて批判コメントをとった朝日新聞記者の記事が、その後の論争に火をつけ、今につながっている。外交トラブルの多くはメディアがつくり出すものである。
そういう意味で、靖国問題は、メディアを使った外交上の駆け引きという面もある。
それでも今、中韓との仲をさらに悪くしてまで、靖国神社に足を運ぶ安倍晋三の気が知れない。米政府でさえ、今回の参拝に関し「失望している」と異例の声明を出したというではないか。
今年の夏ごろだったか、小沢一郎がジャーナリスト、岩上安身のインタビューを受け、安倍の外交防衛策に関してこう語ったことがある。
「核武装による軍事独立国家が安倍さんらの頭の中にあるのではないかと思う。これはアメリカがもっとも嫌う日本の政治だ。私は日米関係が危うくなっていると心配している」
「安倍政権でアメリカの都合のいい日本にできると思っていたが、そうではないことに米国の知日派も気づき始めている。安倍政権は中国、韓国と話ができず、米国からも冷遇され、孤立しつつある」
米政府の今回の異例の声明は小沢の懸念が形になったものといえるだろう。
安倍政権の時代錯誤的な姿勢に、欧米メディアの批判も目立っている。以下に掲げたニューヨークタイムズの4月24日付社説、「無用な日本の国家主義」などはは正鵠を射ているのではないか。
「歴史的な傷を悪化させるのではなく、長く停滞している経済の改善と、アジアと世界での指導的民主国家としての役割強化に重点を置いて、日本の将来を構想することに、安倍氏は集中すべきである」
勇猛果敢を演出し自己陶酔する安倍首相の姿は、何かに憑かれた人のようである。彼の見ている幻想の世界に巻き込まれないようにしたい。
新 恭 (ツイッターアカウント:aratakyo)
ニセ平和主義の安全保障戦略
なんでも、安倍内閣は国家安全保障戦略(NSS)なるものを閣議決定したそうだ。
新聞によると、「積極的平和主義を基本理念に、中国や北朝鮮への強い懸念を表明。武器輸出三原則に代わる新原則を定める方針を打ち出した」とか。
それだけではない。わざわざ愛国心について「我が国と郷土を愛する心を養う」との条項を入れたという。いつもながら、なんともおせっかいなことではないか。
誰でも国土や郷土、国民性や伝統文化などへの愛着、誇りは持っているだろう。ただ、それを「主義」にしたり、人に押しつけたり、そのことで他国といざこざを起こすような愚行は避けたいだけのことだ。
愛国心で中国や北朝鮮に立ち向かい、「積極的平和主義」に励むとなれば、行き着く先は…空恐ろしい。
そもそも「積極的平和主義」とは何だろうか。平和主義に積極も消極もあるものか、とそう思う。
もともと「積極的平和主義」という言葉は、戦前の軍国主義を否定するために使われた。
昭和22年09月25日、衆議院文教委員会において、当時の森戸辰男文部大臣が「軍国主義反対ということが、積極的平和主義への国民の確信にならなければならず、これにふさわしい平和主義教育が浸透しなければならない」と答弁した。国会でこの言葉が使われたのはこれが最初だろう。
当時はまだ軍国主義者がうようよしていた時代であり、それに対する意味での「積極的平和主義」にはリアリティがあった。
しかし、時の流れとともに軍国主義者も姿を消し、新憲法と経済的繁栄のもとで平和を享受する時代がやってくると、平和であることが当たり前となり、「積極的」の意味を自らの主義主張のために変える人々が現れる。
日本国際フォーラムという保守的有識者の団体が2009年10月に提言した「平和主義と日米同盟のあり方」における「積極的平和主義」はその到達点だ。
◇日本の平和と安全は、民主主義諸国の世界的な「不戦共同体」の一部であることを自覚し、米国との同盟関係を強化することによって、初めて担保される。「積極的平和主義」というドクトリンをもつことによって、初めて主体性をもって日米同盟に対処できる。…日本が、北朝鮮から米国に向けて発射された弾道ミサイルの迎撃を躊躇し、行動を共にする米軍艦船に対する北朝鮮の攻撃を防護しないとすれば、それは即「日米同盟の死」を意味しかねない。◇
集団的自衛権を行使して、同盟国アメリカとともに戦えるよう、憲法を解釈変更するか改正し、民主主義諸国の「不戦共同体」を守るために寄与すべきだという。たがいに協力し合って戦力を高め、場合によっては敵対国と戦火を交える覚悟を持つべきだという思想であろう。
すなわち、集団的自衛権を平和目的のものと装うための言葉として「積極的平和主義」が用いられているのである。平和は戦って勝ち取るものだという、戦争肯定論者のニセ平和主義にすぎない。
平和のために戦争をするというのでは、戦前の軍国主義思想と本質的には変わらないではないか。
古来、人類は対立を戦いで解消してきたが、それは憎しみの連鎖を生み、さらなる戦争をつくり出した。事情は、今も変わっていない。
その過程で、巨大化した軍需産業が国の経済を左右するようになり、各国の軍備の拡充は続く。
安倍首相は自らが参与として名を連ねる日本国際フォーラムの提言以来、心中に温めていたであろうその「積極平和主義」という言葉を、ことし9月26日の国連総会で、世界に向けて高らかに掲げた。
そして、その偽装平和主義のもと、武器輸出三原則の見直しや原発輸出などで軍需産業や原発産業の利をはかるとともに、自らの偏狭なナショナリズムを国民に押しつけようとしているかのように見える。
こういうことを言うと、一部の保守言論人は「平和ボケ」と決めつけ、中国などの脅威をすぐに持ち出すが、そういう人たちこそ平和に安住し、近隣諸国になめられないコワモテの虚栄を満たしたいだけに違いない。
外交力をつけるために強い軍事力が必要だというのは、もっともらしい理屈ではあるが、あまりにも陳腐で卑しい考え方だ。互いに経済を依存しあうグローバル時代の外交には、発想の転換が必要なはずである。
前例踏襲の官僚支配国家に、それを求めるのは無理な注文だろうか。
新 恭 (ツイッターアカウント:aratakyo)
ナチス化する安倍政権
安倍晋三は数の力を背景に、民主主義の手続きをもって、現行憲法を無力化しようとしている。
政府が国民の知らぬ間に何でもできる秘密保護法を制定し、解釈変更で戦争のできる国ニッポンを復活させ、国家の安全、国益、公秩序の名のもとに、気に入らぬ国民を処罰する。
これは、ヒトラーが同じく民主主義の手続きを経て全権委任法を制定し、ワイマール憲法を死文化したのと、程度の差こそあれ基本的には同じ方向だ。
「ナチスの手口に学んだらどうかね」という麻生太郎の、意味不明瞭な発言が、その真意はどうであれ、妙に現実味を帯びて感じられる。
ドイツは1918年の革命により帝国から共和国になり、第一次大戦後のベルサイユ体制のもと、人民主権、成人男女の投票権を認めたワイマール憲法による民主主義国家としての道を歩み始めた。
しかし、民主主義は、しばしば国民の不満が噴出し政情不安を呼び起こす。連合軍がドイツに過酷な損害賠償、領土削減を押しつけたベルサイユ条約への反発、恨みの感情は、偏狭なナショナリズムの土壌となった。
1929年からの世界恐慌はドイツ国民の生活を直撃し、心理的不安は極限に達する。そこに、ベルサイユ条約を甘受した与党「社会民主党」を敵視し、攻撃して、国民の共感を呼び、またたくまに勢力を拡大したのがヒトラーのナチ党であった。
1932年7月の選挙で第一党に躍進したナチ党は、翌33年1月にヒトラー内閣を樹立、独裁体制に移行するため、「民族および国家の危難を除去する」との名目で、いわゆる全権委任法を提出した。
立法権を議会から政府に移し、政府の制定した法律は憲法に違反してもいいというとんでもない内容の法案だったが、3分の2以上の賛成が必要という条件をクリアして成立させた。
反対の姿勢を示していた共産党と社会民主党のうち、共産党議員の大多数が逮捕、あるいは監禁されていて、成立阻止の反対票が足りなかった。ワイマール憲法は完全に死文化した。
その後、ナチス・ドイツが何をし、どのような運命をたどったかは周知のとおりだ。権力者が大衆を従わせ、秩序を守るのに、法律という武器を使うのは古今東西変らない。
長い年月にわたり、一族から何代も権力者を送り出している安倍や麻生らにしてみれば、頭の中の最優先事項は、名門を自認するそれぞれのファミリーの未来永劫にわたる繁栄であり、そのためにすでに家財、身分のたぐいとなっている政治的地位を後代に維持継承させることである。
その目的は、明治以来、彼らの父祖が他の利権と結んで築いた既得権構造のなかでこそ達せられる。
この構造を温存するのに邪魔なものは、真の意味における民主主義であり、言論や表現の自由なのであろう。
「一般大衆」をいかにしてコントロールするか。伝統的権力を守ろうとする彼らの関心の大半はそこにある。米国特権勢力と結ぶのも、財界の金の力や、官界の悪知恵に頼るのも、自らの権力を維持拡大するための方策に過ぎない。
ミシェル・フーコーは権力者がのぞむ社会形態を説明するのに、ベンサムの「パノプティコン」という監獄の構想を取り上げた。
円形建造物の真ん中にある監視塔を中心に無数の独房が円状に配置され、監視される囚人は権力に規律化され、従順になっていく。
権力サイドの視点しかない安倍や麻生のような人物にとって、われわれ一般市民は、「迷える群れ」にすぎず、本当のことを知らせる必要はないのである。
われわれは、戦前のように、国家の囚人にならないようにしなければならない。そのためには、監視されるのではなく、権力を監視する心構えをつねに持ち続ける必要がある。
新 恭 (ツイッターアカウント:aratakyo)
ケネディー・フィーバーに醒めた目を
醒めた目を持っておきたい。
キャロライン・ケネディの大使着任を喜ぶのもいいだろう。が、その人選の背景にあるアメリカの事情に思いをはせるべきだ。
醒めた目とは、米国から日本をにらむ眼でもある。自分が米国の支配者だと想像して、わが日本をながめたとき、こう考えるのではないか。
のぼせ上がり、恍惚状態の安倍政権をたらしこんで、スムーズに日本の自衛隊を米軍の配下の戦力として組み込むには、親日家のケネディ家というソフトイメージで日本国中を包み込み、目を眩ませておくのがいい。近視眼的な日本のメディアはスイート・キャロラインを踊ってくれるはずだ。
実際、米国の言いなりになる安倍自民党政権は、米国とどんな密約を結んで国民を騙そうと、永久に隠し通せる法案を成立させるために、躍起になっている。
NYタイムズは秘密国家になりゆく姿に懸念を表明するが、米政府にとっては、とりあえず都合がいい。
イラクやアフガンの戦争で軍需産業を大いに儲けさせたツケが回り、財政の壁が聳え立って軍事費を思うように使えない米国としては、平和に慣れきった日本国民をごまかしてでも、米軍需産業の利益のタネや、自衛隊員の命を提供してほしいからだ。
米国にとってありがたいことに、日本の官僚を言いくるめるための協議は、さほど難しいことではなかったようだ。機密情報を提供するから、それを保護するための法律をつくるべきだという甘言に、すぐに飛びついてくれる。
「積極的平和主義」という名の偽装平和主義もまかり通り、安倍政権は近々、アメリカ軍と自衛隊が組んで、地球上のどこででも武力行使をすることを可能にする法案の提出をもくろんでいる。
日米共同軍事作戦の遂行には、日本国民がいちいち文句をつけ、自民党政権を潰すことがないよう、これまで以上の情報操作が必要だということで、日米両政府の思惑が一致しているのだろう。
情報を公開しているように見せかけて、その実、肝心な内容は隠している。それはこれまでも、さんざんやってきたことだが、集団自衛権行使へ向け特定秘密保護法などというものが成立するとなると、戦後の日本人が築き上げてきた「平和国家」の信用は地に堕ち、国民の自由は国家権力にますます封殺される。
この流れを食い止めねばならない。安倍自民党政権の暴走を許してはならない。
新 恭 (ツイッターアカウント:aratakyo)