290.神山元会長も文先生個人を崇拝する人間信仰=偶像崇拝【韓鶴子信仰、顯進信仰と同じだ!】 | 和敬清寂 ~書かぬが仏~

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「火の粉を払え」さんのブログ:「お父様は無念だった!」-神山元会長の講演録全文公開:を読みました。かなり長文なので転載はしませんが、神山氏が文先生と過ごした様子が詳しく書かれています。


文先生との長い期間共に過ごされた一つ一つのエピソードは興味深く、生きた神様が働いてこられた事を感じさせるものが多かったです。

それなのに、読み終えて感じたのは、神山氏は文先生から学ぶべき最も大切な事を、学ばなかったのではないかということです。

結局、この方も人間信仰に陥り、文先生を崇拝するだけで、文先生を通して神様が働いてきたのをじかに見ておりながら、肝心な神様を学ばなかったように思えてなりません。

ヤンキースタジアムのデコレーションが風に飛ばされた時、「お父様!だめです!神様がこの大会を見捨てたようです。神様が見捨てました!神様が見捨てました。」と言ったとか、二言目には「お父様が・・」を連発し、「神様」を言葉の端々に単に付け足しているだけの話しぶりに全てが現れているように感じます。


ダンベリーで文先生はご自身で生きた神様を証したのに、文先生を個人崇拝するばかりで、そこで起こる出来事に右往左往し、文先生の生き様から神様を感じたという証が何も無い。

キリスト教の環境の中で育った方を文先生が用いられたのは、「お前は他の信徒よりも信仰の本質がわかるだろう」と期待された事と、「クリスチャン出身者の責務として神様をより深く理解せよ」との意味があったのではないかと推測します。

ところが、多くのクリスチャンがイエス様への個人崇拝に陥っているように、メシヤであって神ではない文先生を信仰の対象としてしまい、神様の真実の姿を無知な我々に教えて下さる命の先生として侍る事ができたとはとても思えませんでした。

また文先生の残したい伝統とは神様を愛する伝統です。文先生が死後の事で最も心配されていたのは、「自分のように神様を愛する者がいるだろうか」という事であり、教会の存続や財産の維持管理などではありません。

単にメシヤの子供という理由だけでメシヤの後継者になれるほど神様は甘くはないと思います。文先生が愛した神様を文先生と同じように愛せるかどうか。メシヤの後継者と認められるかどうかは、その一点にかかっています。他の事は神様が全てお与えになります。

顯進さんは文先生と同じく神様を愛する伝統を引き継いでいらっしゃるなら何ら問題ありませんが、現実は過去記事で書いたとおり顯進さんも神山氏と同じように文先生を神の如くに崇拝する人間信仰でしかありません。

(参照)
280.【顯進さんは神様のもとに帰るべき】今のままでは教会共に滅ぶ
http://ameblo.jp/arashi-toranosuke/entry-11917747179.html
279.【顯進さんの問題】文先生の意志を引き継ぐ事は悪魔を殲滅して神の国実現
http://ameblo.jp/arashi-toranosuke/entry-11915471256.html


顯進さんのグループの内情を知った人には、「結局、統一教会と同じだった」と言って落胆する人も多いと聞きます。神山氏は腐りきった統一教会の信徒の多くを統一教会と何ら変わらない顯進さんのグループへと導こうとされているようですが、それが神様の願っている事なのでしょうか。

私たちの行動原理は、御言にこう書かれているからこうするという次元のものではなく、神様が願われている事を知り、神様の願いを行う事です。

それができなければ、残念ながら統一教会と同じく、神様の審判を受けるしかないと言わざるを得ません。


平成ガメラ 空中大決戦より



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