295.再臨主殺害の大罪は顯進さん側に行こうが免れられない【イスラエルの末路を知らないか】 | 和敬清寂 ~書かぬが仏~

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イエス様殺害

・イスラエル滅亡
・神の祝福は異邦人へ
・ヨハネ以外の12弟子全員殉教、ペテロは逆さ磔(はりつけ)

カラヴァッジョ 「聖ペテロ逆さ磔」



では、
再臨主の殺害:イエス様殺害以上の罪

???


最後の審判
ミケランジェロ 「最後の審判」


既に予兆は数多く出ているが、喉元過ぎて忘れたのか!

セウォル号

韓国ポスコで事故

済州連動ホテル前バスが炎上


12弟子はイエス殺害を行っていないのに苦難の人生の末の壮絶な死。

統一教会に関わった者、祝福家庭は再臨主殺害の連帯罪を免れられない。顯進さんのところに行こうが関係無い。教会を辞めればいいとか顯進さんのところへ行けば助かるなどと考えている人は、歴史を知らない愚か者だ。

今が最終末期にある事すら知らない者たち。
「バカは死ななきゃ治らない」(文先生の御言)とはこの事だ。

霊界に行かれたイエス様に会い覚醒したペテロであっても逆さ磔の刑である。再臨主殺害に対する贖罪は並の信徒でもイエス様の12弟子以上の蕩減条件が必要だと考えた事がないのか?それくらいの深刻さを感じている者がどれくらいいるか。

「原始キリスト教迫害時代は、モーセのエジプト期迫害時代の蕩減だから迫害が酷かったのだ」と考える人もいるだろう。しかし、文先生はこう語られている。「ヨセフが民族的・国家的基盤まで成す責任を果たしていればモーセの路程は必要無かった。」

つまり、迫害は本来、神様の願いではなく、使命を果たすべき者が果たさなかったから起こったという事であり、原始キリスト教徒への迫害はイエス様を殺害しなければ起こらなかったのだ。


メシヤ殺害の罪の重さを受け止める事無く、「神様は全ての罪を許してくださる」と勝手に思い込むな!


武士の風上にも置けない者は切腹すら許されない。贖罪が済めば許されるのが道理ではあっても、贖罪すらも許されない罪がある。なおかつ、悪事の限りを尽くしながら悔い改めない悪魔族が救われる道など初めから無い。


ヨハネの黙示録第20章4節~
また見ていると、かず多くの座があり、その上に人々がすわっていた。そして、彼らにさばきの権が与えられていた。また、イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり、また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々がいた。彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間、支配した。(それ以外の死人は、千年の期間が終るまで生きかえらなかった。)これが第一の復活である。この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である。この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する。

千年の期間が終ると、サタンはその獄から解放される。そして、出て行き、地の四方にいる諸国民、すなわちゴグ、マゴグを惑わし、彼らを戦いのために召集する。その数は、海の砂のように多い。彼らは地上の広い所に上ってきて、聖徒たちの陣営と愛されていた都とを包囲した。すると、天から火が下ってきて、彼らを焼き尽した。そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。

また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。

第21章1節~
わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。 すると、御座にいますかたが言われた、「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」。また言われた、「書きしるせ。これらの言葉は、信ずべきであり、まことである」。そして、わたしに仰せられた、「事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である」。

最後の七つの災害が満ちている七つの鉢を持っていた七人の御使のひとりがきて、わたしに語って言った、「さあ、きなさい。小羊の妻なる花嫁を見せよう」。この御使は、わたしを御霊に感じたまま、大きな高い山に連れて行き、聖都エルサレムが、神の栄光のうちに、神のみもとを出て天から下って来るのを見せてくれた。その都の輝きは、高価な宝石のようであり、透明な碧玉のようであった。それには大きな、高い城壁があって、十二の門があり、それらの門には、十二の御使がおり、イスラエルの子らの十二部族の名が、それに書いてあった。東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。また都の城壁には十二の土台があり、それには小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。

わたしに語っていた者は、都とその門と城壁とを測るために、金の測りざおを持っていた。都は方形であって、その長さと幅とは同じである。彼がその測りざおで都を測ると、一万二千丁であった。長さと幅と高さとは、いずれも同じである。また城壁を測ると、百四十四キュビトであった。これは人間の、すなわち、御使の尺度によるのである。城壁は碧玉で築かれ、都はすきとおったガラスのような純金で造られていた。都の城壁の土台は、さまざまな宝石で飾られていた。第一の土台は碧玉、第二はサファイヤ、第三はめのう、第四は緑玉、第五は縞めのう、第六は赤めのう、第七はかんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉石、第十はひすい、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。十二の門は十二の真珠であり、門はそれぞれ一つの真珠で造られ、都の大通りは、すきとおったガラスのような純金であった。

わたしは、この都の中には聖所を見なかった。全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのである。都は、日や月がそれを照す必要がない。神の栄光が都を明るくし、小羊が都のあかりだからである。諸国民は都の光の中を歩き、地の王たちは、自分たちの光栄をそこに携えて来る。都の門は、終日、閉ざされることはない。そこには夜がないからである。人々は、諸国民の光栄とほまれとをそこに携えて来る。しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。


悪魔殲滅!


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