300.体を張って若い日本女性達の貞操を守った聖女たち | 和敬清寂 ~書かぬが仏~

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敗戦後、GHQによる占領下にあった日本。米軍兵士達が日本上陸後の1週間で米兵による日本人への殺傷事件が800件発生した。日本女性への強姦事件は10日間で1336件、1ヶ月で3,500件以上発生したが報道は禁止された。


第2次大戦時の欧州では米兵によるレイプ被害者は14,000人。沖縄では10,000人の女性が被害にあったとする米国側の資料がある。米国は慰安所設置を認めなかったため、戦地の女性が強姦されまくったが、それでも米軍兵士は他の軍隊の中ではマシなほうだと言われる。


昨今、慰安婦問題が日本を叩く材料として取り上げられ、そこで働いた女性達を性奴隷だと揶揄する建前論が横行しているが、あまりにも現実を無視しすぎている。

命が掛かった戦いの場に出る兵士達が、生存本能・動物的本能・性欲を異様に昂進させるのは現実だ。それを建前論で「兵士であっても聖人君子であれ」というのは現実無視の戯れ言でしかない。

慰安所を設置しなかった軍人による戦地女性へのレイプ事件は跡を絶たず、韓国兵がベトナム戦争時に現地の女性を強姦しまくりライダイハンと呼ばれるベトナム人と韓国人との混血児が1万人以上いると言われる。

軍隊内部でも男性兵士どおしの強姦事件や、女性兵士へのレイプ事件も多い。(一説によると女性兵士の8割がレイプの被害にあっているらしい)


■体を張って若い日本女性の貞操を守った聖女たち

特殊慰安施設協会(RAA):敗戦後の日本で、連合国軍(GHQ)占領下に作られた同軍兵士の相手をする売春婦(慰安婦)がいた慰安所があった。


進駐軍慰安所

安浦ハウス



日本の若い女性の貞操を守るために、自らすすんで慰安所の募集に名乗り出た女性達が多かったと聞く。もちろんお金が目的の人もいただろう。しかし水商売の未経験者が多かった事から善意でそうした世界に飛び込んだ女性達が多かった事がわかる。

ところが集まった女性達の絶対数が少なすぎた。米軍兵士が頻繁に強姦事件を起こすも、占領下にあった日本の警察は無力化され十分な摘発など出来るはずがなかったのだから。

GHQが共産主義者や過激派を出獄させたため国内に騒乱が多発し、朝鮮人が戦勝国気取りで日本人への暴行・強姦事件を度々起こしたため国内の治安が一気に乱れる一方だったのだ。ソ連のスパイの巣窟だったGHQは日本を共産主義国にするための組織だった。

日本の危機的状況を目の当たりにし、あえて慰安所で働きに出る事を選んだ女性達は、私には聖人、聖女のように思えてならない。


また過去記事
6.慰安婦が性奴隷でない完全な証拠はこれだ!
http://ameblo.jp/arashi-toranosuke/entry-11767950068.html

この記事で日本軍の慰安婦たちの写真を掲載した。


笑顔ですね。楽しそうです。

笑顔の慰安婦



笑顔がかわいい! キュートだ!これが性奴隷ですかね?

かわいい慰安婦


また米国国立公文書館に残されている米国の公式文書によると

・慰安婦は強制ではなく志願して雇用されたもの。
・彼女たちは大金を持って楽しんでいて、洋服や化粧品や他にも自分達のためのものを買う事ができ、街にも出かけて、借金を返したら帰れた。
・日本軍の兵士達とスポーツやピクニック、娯楽や宴会をしたりしており、「日本の兵士との時間が足りなくて、すべての兵士達を迎え入れる事ができず、来てくれる兵士達みんなに奉仕できなくて残念だ」と言っていた。
---引用終わり---

彼女たちは戦場で傷ついた日本兵達を慰め、異様に昂進する性欲によって引き起こされる問題を彼女たちは体を張って未然に防ぎ、兵士達と共に戦っていたのだ。兵士と結婚した人もいる。


慰安婦は決して性奴隷ではないし、性は悪に利用されてはきたが、それは悪魔がそうしたのであって、性そのものは悪でも何でもない、神が与えた素晴らしいものなのだ。

性に関する職業には偏見が非常に多い。風俗産業に従事する方達を「社会のクズ」だの「淫乱で汚れた人々」のように見る事が世間一般の常識のようになっているが私はそうした見方を憎んでいる。

私の父方にも母方にも慰安婦や風俗産業に関わった女性達がいる。詳しい事は書かないが、世間や親類縁者の偏見によって結婚も出来ず、一生日陰の人生を歩んだ人や、偏見の目で見られる事によって家庭が壊れ家族の心に生涯消えない精神障害を残した人もいる。

彼女達を悲劇のどん底に落としたのは、世間一般常識の偏見であり、偏見が彼女たちの心を壊し殺したのだ。

建前論で安易に考えるべき問題ではない。

デリバリーシンデレラ


問題提起としてRAAに関する記事を紹介したい。


ねずさんのひとりごと:小町園の悲劇
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1189.html

日本がポツタム宣言を受託した。そして進駐軍を迎えるにあたって、時の東久邇(ひがしくに)内閣が、当時のお金で一億円という巨費を投じて開設した特殊慰安施設です。

そこで慰安婦は「Serving Ladies」、慰安所は「Sex House」と英訳された。

第一号店が開設されたのは、マッカーサーが厚木飛行場に降り立った日より2日早い、昭和20(1945)年8月28日のことです。場所は東京・品川の大森海岸の駅前の老舗料理屋「小町園」を改造して設置されました。

そこで何があったのか。

当時、この「小町園」で女中をしていた人の手記が残っています。以下にご紹介します。

戦争に負けるということ、他国に占領されるということが、どういうことなのか、以下の文で、すこしでもわかっていただけたら幸いに思います。それは、逆に言えば、いかに「国」というものが大切でありかけがえのないものであるか、といことの裏返しでもあります。

そしてもうひとつ。
東洋において、唯一、植民地奴隷になることを拒否し、国を守り抜いた先人たちが、戦後においても、ギリギリのところでこの国が崩壊するのを踏みとどまらせ、おかげで、今日の日本の繁栄がある。

私たちが、いま、こうして一定の生活ができるようになったのも、すべて先人たちのおかげである、ということをみんなで再確認したいと思うのです。

文章は、昭和20年代に書かれたものです。読みやすくなるように、現代文に編集しています。原文には、書いた人の記名がありますが、ここでは割愛します。あまりにかわいそうで悲惨だからです。

以下に引用します。

~~~~~~~~~~~

大森海岸の「小町園」といえば、いまの中年の御紳士方で、ずいぶんなつかしがる方がいらっしゃるのではないでしょうか。

戦前は、今のように、温泉マーク(注:ラブホテルのこと)が都内のあちこちにありませんでしたので、そういう場合にたちいたりますと、京浜国道をひと走り、大森の砂風呂へ行こうなんて、みなさん、よく大森海岸までいらっしゃいました。

小町園も、そういう目的のために建てられた、海に面した宮殿のような大きい料亭でございました。そういう戦前の、落ち着いた、奥ゆかしい小町園を知っている方に、終戦当時に小町園が描き出したあの、悪夢のような姿を、想像していただけるでしょうか。

現に、その光景を目にした私でさえ、今はウソのようで、これからお話することを誰も信じていただけないのではないかとおそれるのですが、でも、小町園の柱のひとつひとつ、壁の一面一面には、日本の娘の、貞操のしぶきが、流した血のあとが、しみついているはずなのです。



忘れもしません。終戦の年の、昭和20年8月22日でした。

ご主人が銀座の方へお出かけになって、かえっていらっしゃると間もなく、私たちのいる女中部屋の方へ、「ここがRAAの第一施設になるらしい」という噂が伝わってきました。女中部屋はそれを聞いて、ハチの巣をつついたような騒ぎになりました。

私には、そのRAAというのがわかりません。聞いてみると、特殊施設協会とかいって、政府と警察と、それから私たち業者などが一緒になって作っているお役所で、お金は政府が一億円も出しているということでした。

でも私たちが驚いたのは、まだ見たこともないアメリカ兵がここへ入ってくる、ということでした。そのRAAというのは、進駐軍を迎えてサービスをする施設だということですから。「それじゃ、毛唐(けとう)の慰安所じゃないか」と、みんなびっくりしました。

その頃はまだ、パンパンという言葉もなく、アメリカ兵は「鬼畜米英」などと新聞に書かれ、私たちも素直にそれを信じて、アメリカ兵は人肉を食うなどと思っていたのですから、皆の不安も無理ありませんでした。

しかし、あとの騒ぎをいま振り返ってみますと、アメリカ兵は人肉こそ食べなかったけれど、それを同じことをした、と思わずにはいられません。

RAAの施設には、はじめ、日本橋の三越があてられる予定だったそうですが、さすがに三越側で承知しないので、大森海岸の料亭ということになり、悟空林や楽々が挺身隊の寮として荒らされているところから、うちに決まったという話でした。

その話が伝わった翌日には、なんと大工さんが50人もやってきて、昼も夜もぶっつづけで、こわれたところや、いたんだ箇所を直しはじめました。

さあ大変です。いよいよアメさんがくるのが本当だとわかると、女中の中にはひまをもらって、辞めていく人もあるし、毒薬を懐にして、いざとなったらこれを飲んで死んでやるといきまく者もいます。

私も家さえあれば、逃げて行きたいところですが、家は焼けて住むところさえありません。それで、ええ、ままよ、と悪く度胸を据えてしまった訳ですが、その当時は、女中も、あとから来た慰安のひとたちも、そういう家がないから仕方がないという人が多かったのです。

ご主人は、私たち20人ほどの女中を集めて、この小町園は、御国のために、日本の純潔な娘たちを守るために、米兵の慰安所として奉仕することになった。慰安婦たちは、ちゃんと用意してあり、あなた方女中には手をつけさせないようにするから、安心して働いてくれるように、訓示をなさいましたが、私たちはパンティを2枚履くやら、大騒ぎでした。

いよいよ明日の28日、厚木へ進駐軍の第一陣が乗り込むという、その前日になって、お店の前に二台のトラックがとまり、そこから若い女の人ばかり30人ばかりが降りて、中へぞろぞろと入ってきました。

リーダーみたいな男の人が、RAAの腕章をしているので、その女の人たちが、進駐軍の人身御供になる女だとすぐわかり、私たちは集まって、いたましそうに、その人たちをみやりました。

モンペをはいている人もいますし、防空服みたいなものをつけている人もいます。ほとんど誰もお化粧をしていないので、色っぽさなど感じられませんが、しかし何と言っても若い年頃の人たちばかりですから、一種の甘い匂いのようなものがただよっていました。

この人たちは、みんな素人(しろうと)のひとでした。のちに応援にきたひとは玄人(くろうと)の人もいましたが、はじめ小町園に来た人は、みんな素人の娘さんでした。

銀座の八丁目の角のところに、新日本の建設に挺身する女事務員の大看板を出して集めた人たちですから、進駐軍のサービスをするということはわかっていても、そのサービスが肉体そのもののサービスだとは思わなかった人たちもいて、なかには、そのときまで生娘も何人かまじっていました。

前にちゃんとした官庁に勤めていたタイピスト、軍人の御嬢さん、まだ復員してこない軍人の奥さん、家を焼かれた徴用の女学生など、前歴はさまざまで、衣服、食糧、住宅など貸与の好条件に飛びついてきた人たちでした。

その30人の人たちは、もちろん、ちゃんと着物を与えられ(まちまちの着物でしたが)食物も与えられ、部屋ももらいました。しかし、おぉ、その上に、何をもらわなくちゃならなかったか、その人たちは、翌日から知ったわけでした。



8月28日、厚木進駐、何というはやさなのでしょう。もうその晩、新装をこらし、灯りをあかあかとつけたお店の前に、組み立ておもちゃみたいな自動車が停まり、そこから5人の兵隊が、何かお互いにがやがや英語でしゃべりながら、入ってきました。

それが記念すべき、はじめてのお客でした。その人たちは、缶詰のビールを持ち、めいめい腰にピストルを下げていましたが、私たちが考えていたより、ずっと紳士的な態度で、「ここに御嬢さんたちがいると聞いてきたが」といって、カードを通訳のひとに見せました。

それには、お店の地図が書いてあります。いつの間にかRAAの方で、こんなカードを印刷したらしいのです。主人はよろこんで、この5人の「口切り」のお客様をもてなそうとしました。

この人たちは、靴のまま上がろうとしたり、ふすまをドアと間違えて、押して外してしまったり、そんなヘマをやりましたが、上がると広間でおとなしく持参のビールを飲みはじめました。

広間で特別に招いた大森芸者の手踊りを見せましたが、彼らはそんなものはさっぱり興味がないようで、しきりに、お嬢さんはどこにいるのだ、と聞き、料理をはこぶ私たちを抱きすくめようとしたり、なかには、いきなり部屋のすみで押し倒して裾に手をいれようとしたりする兵隊もありました。(和服がめずらしかったのでしょう)

それで私たちは、ご主人に言って、5人の兵隊に、慰安婦の部屋にひきとってもらいました。なにしろ、素人の娘さんたちですから、はじめてみる外国兵の姿にふるえ、おののいて口もきけません。

それをまるで赤ん坊でも抱くように、ひざの上に抱き上げて、ほおずりしたり、毛だらけの大きな手で「かわいい」とでも言っているのでしょう、何か言いながら、あちこち体を撫で回したりしているのを見て、私は急いで障子を閉めました。

廊下で聞いていると、あちこちの部屋で悲しそうな泣き声やら、わめき声やらがしました。泣き声は女で、わめき声は男です。おそらく何か月もの間、殺伐な戦場で、女の肌に一度も触れないできたのでしょう。その、たまりにたまった思いを、一度にとげようとしているのでしょう。

その物音や、声を聞いていると、女の私でさえ、変な気持ちになりました。もう何年もそういうことからは遠ざかっていた私ですから。

そして、ああ、やっぱり、日本は負けたのだと、日本の娘がアメリカの兵に犯されている物音を廊下で聞きながら、はじめてそのとき、敗戦の実感が胸にしみ、涙が出てきました。

5人のアメリカ兵は、その夜、12時頃までいて帰りました。私はタバコを1箱、チップにもらいました。部屋へ行ってみると、部屋中にアメリカ人の体の匂いが甘酸っぱく漂い、そのなかで、RAAの娘さんが顔をおおっていました。素顔で体中汗でひかり、いかにも苦しそうに息をはいています。

聞いてみましたが、恥ずかしがって何も言いません。しかし、皆の話を総合してみると、彼らは思ったよりずっと親切だったそうですが、何しろ体が大きいし、はげしいので、みんなくたくたにされてしまったようでした。

その5人の兵隊たちが満足したのも無理はありません。彼らは幸せだったのです。処女もその中にひとりいましたし、そうでないのも、ながい間、そううことから遠ざかっていた、おぼこな女ばかりでしたから。だから、女の人も疲れてしまったのです。



しかし、そんなのんきなのは、この晩だけでした。この5人は、嵐の前触れのようなものだったのです。翌日は、ひるまから、彼らはウワサを聞いて続々とやってきました。

大勢になれば、もう遠慮なんかしていません。土足でずかずか上り込み、用のない部屋に入り込んだり、女中や事務員まで追い回したりします。

10日ほど経ったとき、その騒ぎはどうしようもなくなりました。ほかにも、ポツポツそういう施設ができかかっていたのでしょうが、私たちからみたら、なんだか東京中の進駐軍が、みんな私たちのろころへやってくる気がしました。

ジープが前の広場に、十台も二十台もとまっていて、あとからあとから、兵隊たちはやってきました。

はじめてやってきた30人の女のうち、ふたりは、最初の晩にどこかへ逃げて行って、残った娘さんたちが、お客を迎えたのですけど、部屋が足りないので、まるで体格検査上みたいに広間をびょうぶで仕切って、そこに床を敷いて待たし、一部屋になっているところも、兵隊たちが障子をこわしてしまったので、開けっ放しです。

女たちはそれを嫌がりましたが、兵隊たちの方は平気で、かえって面白がって口笛を吹いたり、声をかけたりして楽しんでいました。ひとりの男が中にはいると、あとの列が、ひとつづつ前へ進みます。まるで配給の順番でも待っているようです。その列が廊下にあふれ、玄関に延び、ときには表の通りまで続くときがありました。

私たちも、ぶっ倒れそうになりながら、その兵隊たちの間をかけまわって、用をたしました。気を張ってないと、待っている気なぐさみに、どんなことをされるかわかりません。

接吻をされたり、お乳に手を入れられたり、私もしまいには神経が太くなってしまって、接吻なぞ、何度もされました。なにしろ、右を向いても左を向いても、そんな風景ばかりなのですから。

ひどい目にあったのは、募集で集まってきた女の人でしょう。みんな素人の娘さんたちなのです。

はじめての日に処女をやぶられて、一晩にひとりの男の相手をするだけでも、心が潰れるほどのことだったでしょうに、毎日、昼となく夜となく、一日に最低15人からの、しかも戦場からきた男の人を相手にしなくてはならないのです。

素人の女ですから、要領というものを知りません。はげしく扱われれば、正直に女の哀しさを見せてしまいます。それではたまったものではありません。たちまち別人のようになって、食事もろくにとれず、腰の抜けた病人のようになってしまう人が多かったのです。

どうしてこんなアシュラのようなところから、みんな逃げ出さなかったのか不思議に思うのですが、逃げようにも逃げる気力さえなくなっていたのかもしれません。どこの部屋からも、叫び声と笑い声と、女たちの嗚咽(おえつ)が聞こえてきました。

それを聞いていると、日本の女が、戦勝国の兵隊の蹂躙にまかせられているという気がしみじみとしました。それは、それから何年にもわたって、日本の全土にわたって行われたことの縮図だったのです。見本だったのです。

私たち女中のなかからも犠牲者が出ました。よっちゃんという19の子は、布団部屋にはいったところを、数人の兵隊に見つけられ、なかでイヤがるのを無理に輪姦されて、「お姉さん、あたし・・・」と私に泣きついてきました。

キズ口を洗ってやりましたが、裂傷を負っていました。「わたし、好きな人がいたの。こんなことになるんだったら、復讐してやるわ、兵隊たちに!」そういって、翌日から慰安婦の方へまわって、お客をとるようになりました。

しかしこの子は、もともとそういうことが好きだったらしく、それに外人の体がめずからしく良かったのでしょう。復讐どころではなく、何人のお客を迎えても、鼻歌交じりで、きゃっきゃっといって、兵隊たちと騒ぎまわっていました。

一日に60人のお客をとったという女が表れたのも、その頃の話です。そのときは、ペーディだったのです。朝から横になったきりで、食事も寝ながらとるという調子だったそうです。でもその人は、もうそれっきり立てなくなって、病院に送られましたが、すぐ死にました。精根を使い果たしたのだと思います。



そんな毎日が続いても、お客はあとから、あとから増えるばかり。収拾のつなかい混乱におちいってしまいました。女たちは、もちろん短期の消耗品みたいなものでしたけど、それでも使い物にならなくなれば困ります。

ご主人は、銀座のRAAに応援を求めました。RAAの方では、はじめの失敗に懲りて、今度は新宿や吉原から集めた玄人の女を、補充に30人ほどこっちへ送り込んできました。

そしてRAAのほうに応募してくる素人の娘さんは、いったん吉原などへ送り、そこで泣いたりわめいたりしないように実地訓練をするという方法をとったようです。

こんど来た人たちは、何といっても、そういうことには慣れている人たちですから、一晩に10人や20人のお客をとるのは平気です。「それでもねぇ、やっぱりなんだかヘンよ。体が違うでしょ? それに言葉は通じないし、おまけに向こうでは、女のご機嫌をとろうと思って、いろんなことをしてくるでしょ? こっちはなまじっか、そんなことされないで、早く切り上げてくれた方がいいと思うんだけど・・」

などと、くわえタバコで、私たちに、そんなことを打ち明ける人もいるほど、なれていました。この人たちが来てからは、だいぶうまくいくようになり、兵隊同士のケンカや、女中の犠牲者たちも少なくなりました。

はじめにきた30人の女の人は、その2~3か月の間に、病気になったり、気が違ったりして、半分ほどになっていました。しかし、その半分の人も、現在ではきっとひとりも、この世に残っていないと思います。それほどひどかったのです。まったく消耗品という言葉がぴったりとあてはまる人たちでした。とても人間だったらできないだろうと思われることを、若い、何も知らない娘さんたちがやったのです。そしてボロ布のようになって死んでいったのです。

そうこうしているうちに、方々に同じ施設ができました。お店の近くにも、やなぎ、楽々、悟空林と続いて開業しましたので、うちへ入るお客も、自然少なくなり、一時の地獄のような騒ぎもおさまりました。

でも、今度は、世の中全体に、そういう風潮がひろがっていくのが、私たちにもわかりました。若いお嬢さん風の女の人が、玄関にはいってきて、主人に「働かせてください」と頼むことがありました。

理由を聞いてみると、路でアメリカ兵に強姦されて、家に帰れないから、というのでした。そうして自分から、アメリカ兵に媚を売る女になっていく人も、何人かありました。今思うと、こうしてあの頃、東京中にパンパンなるものが生まれつつあったのですね。

私はそれから何か月か経って、とうとうアメリカ兵のひとりに犯され、お店をやめましたけれど、あの頃の小町園のことを思い出すと、悪夢のように思われます。

~~~~~~~~~~~~

進駐軍を迎えるのにあたって、ときの日本政府は、性の侵略をされるということを恐れたのです。

だから「善良で清純な婦女子を守るために」、日本全国の都道府県に「外国駐屯慰安施設等整備要項」を出し、公娼、私娼、芸妓を中心に、慰安婦を集めたのです。

しかしそれでは数が足りず、昭和20年の9月下旬には、全国紙に慰安婦の募集記事がRAAによって掲載されました。

そこにはこう書いてあった。
~~~~~~~~~~
女子事務員募集
年齢18~25歳まで
宿舎、被服、食糧支給
~~~~~~~~~~

戦後の焼け野原で、住むところも食料も衣服さえも替えがなかった時代です。しかも、優秀な適齢期の男たちは、みんな戦地に行き、そこで多くが戦死し、抑留されています。この結果、日本国内の適齢期の男女比率は、男1に対して女5の割合だった。

しかも国内経済は壊滅状態です。就職の宛てもない。敗戦後二年間の失業者は600万人であり、女性に限っていえば、ほんとうに職がなかった。

本文にある小町園では、三井銀行の事務員をしていた娘さん(処女だったといわれている)が、はじめての客に黒人兵をとり、気が変になって、その日のうちに京浜急行の電車に飛びこんで亡くなったという実話も残されています。

横浜では、やはりRAAによって山下町に「互楽荘」に80人ほどの女性が集められています。

開業が小町園から4日遅れの9月1日だったのですが、どこでどう話を聴きつけてきたのか、開業の前日に百人を超える米兵がカービン銃を突きつけて押し込み、そこにいた14人の女たちを蹂躙しています。翌朝、泥靴の跡も生々しい女たちが、虫の息で転がっていたといいます。

さらに開業二日目、黒人兵からひどい目に遭わされたことのある女性が、別の黒人兵に嫌悪感をあらわにして相手をするのを嫌がった。女性を無理やり犯そうとしたから、女性が逃げ出した。黒人兵がそれを追い、首を絞めて殺してしまうという事件が起こっています。

MP(米軍の憲兵)が駆けつけ、逃げようとしたその黒人兵を射殺した。この結果、横浜の慰安施設第一号は、その日のうちに閉鎖になっています。世界の軍隊の中では、まだマシなほうと言われている米軍でさえ、これなのです。

これが悪名高い中共の人民解放軍だとどうなるか。チベットを見ればわかります。チベットは、2千年の歴史のある国です。そこに中共が自国の中華固有の領土であると一方的に宣言して進駐した。その結果、4500あった寺院は破壊し尽くされ、今は45です。僧侶は15万人いたけれど、今はわずか1400人、虐殺されたものは128万人で、国民の5人に一人は殺された。女たちは強姦され、殺され、子供たちは教育の機会を奪われて、いまやチベットの文盲率は男子で60%、女子で82%です。これは現在進行中の話です。

本稿で、日本政府がRAAを用意したことには、嫌悪感を持たれる方も多いかと思います。けれど当時の政府は、より多くの国民を守るために、そういう選択をせざるを得なかったのだということを最後にひとこと書いておきます。

つまり、慰安施設を、ちゃんと用意しておかなければ、一般の婦女子が犠牲になる。それを防ぐために、職業慰安婦を雇い、慰安所を設けたのです。

もし、政府がそれをしなければ、上に書いたような悲劇は、単にその施設内のできごとというのではなく、日本女性みんなが、無差別にそうした悲惨な目に遭わされる危険があった。現に、すこし前に占領されたベルリンでは、街の女性が少女から老婆まで8割が強姦されたし、同様の事例は枚挙にいとまがない。

そういう事態を防ぐために、苦汁の選択をしたのだ、そうやってひとりでも多くの日本の婦女子を守ろうとした人たちがいたのだ、そのおかげで、日本が7年間もの占領統治を受けながら、日本人として純潔をいまだに保つことができているのだ、ということに、私たちは感謝しなければならないと思います。

また終戦という混乱の時期にあって、国内においてさえ「小町園」のような悲劇が起こった、だから「戦争がいけないんだ」という議論の飛躍も、いけないことだと思います。

なぜなら、敗戦によって占領を受けた国は、戦後65年経った今でも、「小町園の悲劇」がいまだに延々と継続しているのだ、という、この事実を見落としてはならないからです。先ほど述べたチベットしかり、ウイグルしかり、です。

---------コピペ終わり------




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