南方熊楠
南方熊楠(みなかた・くまぐす、1867-1941)の名前を初めて見たのは、1965年ごろ、春日町の古本屋の棚でした。天井近くの棚にその名前の全集があって、「なんぽう・ゆうなんと読むのかなあ。なにをした人だろう」と思ったのでした。今から振り返ると、その全集は1951年に乾元社というところから出たものだったようです。
筑摩叢書で『南方熊楠随筆集』という単行本が出て(1968年、いまは、ちくま文庫)、その文章に初めて接したものでした。粘菌というカビのようなものを研究している奇人学者という評判でしたが、随筆の中身は、天馬空を行くごとき颯爽としたものでした。
平凡社から、新しい全集が売り出されたとき(1984年)には、無謀にも買い揃えました。ネイチャーという、今でも科学論文の最高級の業績を掲載する専門雑誌に載った論文(おそらく「東洋の星座」というもの)をはじめ、英文論文だけの巻が2、3巻あったのではなかったでしょうか。歯が立つもなにも、はなからあきらめざるを得ませんでした。
その後、神坂次郎著『縛られた巨人 南方熊楠の生涯』(新潮文庫)によって、その生涯がたくさんの人に知られることになりました。死ぬまで、和歌山県田辺で研究を続けたといいます。ほかにも、鶴見和子や、いろいろな人が南方について書いています。
池田菊苗(味の素〔グルタミン酸〕の発見者)や、夏目漱石と同じ頃にロンドンにいて、大英博物館で英国人に伍して研究活動をしていた様子がよく分かりました。漱石は、ロンドンで神経衰弱(今でいうノイローゼ)にかかって、精神的にずいぶん参ってしまったようですが、池田にしろ、南方にしろ、科学の徒は、ガイジンにたいして、これっぽっちも劣等感を持っていなかった、ということも分かります。
この全集も、いつしか手放してしまいました。
プラハのホテル
もう5年も前のことになりますが、予約していたプラハのホテルに着いたのが、現地時間、夜の8時頃だったでしょうか。ロンドンからの飛行機が出発時間が遅れたために、予定時間より遅れて着いたのでした。ホテルまでのタクシーは手配してありましたから、運転手は空港で待っていてくれました。暗くなった道を目的のホテルまで行きました。着いたら、なんと、あなたの注文に添う部屋はふさがってしまった。代わりに同じレベルの別のホテルを紹介するからそちらでどうか、と提案されました。
明日からは注文通りの部屋が用意できます、ということだったけれど、面倒なので、紹介されたホテルに泊まることにしました。クラウンという名前のついた系列ホテル。
前のホテルから車で5分くらいか。そのホテルまでの追加のタクシー代はもちろん向こう持ち。立派なところでした。その運転手さんだったと思うけれど、着いたら、「ここはロシアン・アーミーの宿舎だった」という意味のことを言いました。
通されたのは3階だったか4階だったか。廊下にたくさんドアがあるのでした。偉い将校のところへは、簡単には到達できないようになっているらしかった。
観光客が泊まるホテルとしてはまずまずでした。共産体制が終って何年たっていたでしょうか、サービスというものの基本が、西側のそれと違っているような気がしました。
それでも、一生懸命サービスしようとする意気込みは伝わってきます。朝食がヴァイキング・スタイルで、種類と分量が多いので、満足のいく朝飯を食べることができました。給仕のために雇われたらしい若い娘たちが気がきかなくて、仕切っているお姉さんが、イライラしているらしいのもほほえましいものでした。
これからプラハにいらっしゃるなら、ぜひ朝食はヴァイキング方式のホテルをおすすめします。もう、サービスもずっとよくなっているはずですから。
ロビン・ウィリアムズ
ロビン・ウィリアムズという俳優が好きです。最近(2004年)亡くなったクリストファー・リーヴ(スーパーマン)と、ジュリアード学院で同級生だったそうです。ジュリアードはニューヨークのリンカーン・センターにあって、音楽学校として超有名ですが、俳優養成のクラスもあるのですね。
アンディ・ドゥーガンという人が書いた Robin Williams という伝記が、オリオンという出版社から出ています(1998年)。それによると、1952年7月21日生まれとあります。昭和で言えば27年。ところが、ウィキペディア(英語版も)でも、インターネット・ムーヴィー・データベースでも、1951年生まれということになっている。こういうときは、どうしても活字の方を信じるクセがついています。
父親がフォードの重役、母親がもとモデル(オードリー・ヘップバーンか、レズリー・キャロンの再来と言われたくらいの美人だそうで)という裕福な家に生まれた。スタンダップ・コメディアンから出発し(これはトム・ハンクスも同じ)、テレビで人気を得て、映画スターになっていきました。
『グッドウィル・ハンティング』(1997年公開)でアカデミー助演男優賞をもらいました。マット・デイモンが、天才数学者になった映画。名作でした。
その受賞挨拶のときに、母親への感謝の言葉を言うのを忘れてしまったらしい。ローリー(というのが母の名前)さんに、もらったよ、と報告したら、「ああ、そうかい」とつれなかったんだとか。
なにかのキャンペーンで来日したときに、「ブラピ(ブラッド・ピット)のことはどう思いますか?」と聞かれて、「ブラピって何だ?」「ブラッド・ピット」「それじゃ僕はロビウだね」と、当意即妙の応じ方をしたのを見たことがあります。反射神経のよさにほとほと感心しました。
ドゥーガンの本、まだ翻訳がないと思いますが、だれか訳してくれないでしょうか。章のタイトルが、大抵、ヒット曲かテレビではやったことばのもじりらしくて、70年代のアメリカ大衆文化に相当知識がないと訳すのも大変でしょうが。
ハンガリー出身の指揮者たち
ブダペストのアンドラーシ通りは、通り自体が世界遺産に登録されているのだそうです。全長2キロくらいの通りだったと思います。真ん中辺に国立歌劇場があり、その2百メートルくらい先に、リスト音楽院の建物がありました。(いまはリスト記念館かもしれません。) 通りに直交して長細い公園のようなものがあって、そこに、ピアノを弾くリストの銅像がありました。おそろしく長い指が印象的です。
この、リスト音楽院で勉強して音楽家になった人はたくさんいます。日本から留学した人ももちろんいます。
ユージン・オーマンディーという、アメリカで活躍した指揮者もここの卒業生なのだそうです。フィラデルフィア交響楽団の指揮者でした。
ハンガリー出身の指揮者が20世紀の西洋音楽に果たした役割りはまことに大きなものがあります。
一番有名なのは、サー・ゲオルク・ショルティでしょうか。ワーグナーをはじめ、いくつものオペラの録音・録画が残っています。
若くして、海で死んだイシュトヴァン・ケルテスのドヴォルザーク『新世界から』の演奏は、いつ聴いても素晴らしい。
これもアメリカで活躍した、ジョージ・セルもハンガリー出身です。リヒャルト・シュトラウス「最後の四つの歌」(シュワルツコプフ)の名演奏がありました。
フリッツ・ライナーもそうでした。他にも、有力な指揮者がハンガリーから出ました。リストに続けとばかりに皆精進したのでしょうね。
文学全集
かつて中野重治全集(筑摩書房)を持っていました。『歌のわかれ』『むらぎも』などの作品が、若いころの私を鼓舞してくれました。『本とつきあう法』(筑摩書房)という単行本も愛読しました。その中に出てきた話だったと記憶していますが、この作家は共産党に所属していた時期があり(国会議員だったこともあります)、集会の帰りに、あとから歩いてくる蔵原惟人とか(佐多稲子もいたか)が、ひそひそ当てこすりをしているらしいのを背中で感じて、屈辱にさいなまれるところがありました。
当人の中野重治本人も相当な人で、ワルクチを言わせたら日本一というくらい、パンチが効いていました。鴎外が、詩人に必要な資質を決定的に欠いていたことを批判した文章がありましたが、ネチネチした言い回しが、中野の性格のよろしくない側面をあらわにしていました。いま、原文が思い出せない。この一文も『本とつきあう法』に出てきました。
結局売り払ってしまいました。
呑んでしまった(と言っても大層なものではありません)、文学全集のたぐいは少なくありません。有吉佐和子全集も吉行淳之介全集も、書棚から消えてしまいました。『西脇順三郎全詩集』という一巻本も、もはや本棚にありません。『西周全集』(これは全部ではなく2冊ほど)も消えました。
一度失ってしまうと、ふたたび手に入れる機会はずいぶん遠のいてしまうものだ、ということをヒシヒシと感じているような次第です。