パパ・パパゲーノ -8ページ目

いのちの食べかた

 スーパーのお肉屋さんに並ぶパック入りの牛肉や豚肉が、どういうプロセスでできるのか、これまでは知らずにきましたが、森達也という映像ドキュメンタリー作家の本、『いのちの食べかた』(理論社:1000円)を読んだらよく分かりました。


 牛にしろ、豚にしろ、肉になるまえにどこかで殺されているわけですが、苦しまずに死なせる方法はあるのだろうか、と思っていました。殺される牛や豚が本当に苦しみがないかどうかは分かりませんが、現在の屠殺方法は、1分以内に死に至らせるようです。


 1頭分の牛が通れる通路の途中で、ピストルで眉間に針(3センチほど)を撃たれる。「ノッキングペン」という名前。撃ったらすぐピストルのほうに引っ込むようになっているようです。撃たれた牛は脳震盪を起こして硬直し、1メートル半ほど下に滑り落ちます。何人かの男が待ち構えていて、一人が眉間に開いた穴から1メートルほどの金属のワイヤーを差し込んで、脊髄を破壊する。全身麻痺を起こさせるのだそうです。同時に、別の一人が頚動脈をナイフで切る。逆さに吊って、血を流す。その後の作業は、皮を剥ぐなどいくつものプロセスがあります。頚動脈を切られた段階で心臓は脈打っているので、血を抜くことが可能になるのだそうです。むごいようですが、牛が牛肉になるための、安楽な死なせ方というものらしい。手順が少しでも狂うと、牛が苦しんで暴れだすので、解体に従事する男たちの神経は張りつめているようです。


 豚の場合は、炭酸ガスを吸わせて仮死状態にし、その後のプロセスは牛と同じということです。


 この本の想定する読者は、小学校高学年から中学校までのようで、漢字にルビがたくさん振ってあります。


 日本における肉食の歴史の概略も書いてあり、肉食をめぐるタブーにまで踏み込んだ力作です。


 磯崎哲也さんという方の次男(?)さんが入学した中学校で指定図書になったのだそうで、なんといい学校にいれたことか、と感激していました。ツイッターで知ってさっそく購入しました。


 「いのちの連鎖」の過程を知ることの大切さを教えられます。よい本を紹介してくださった磯崎さん(もちろん直接には存じ上げません)に感謝します。


クローバー        クローバー        クローバー        クローバー        クローバー

耐用年数

 ビデオテープのデッキがおかしくなりました。テープを巻き取れなくなったようです。DVDプレイヤーと一体型の仕掛けです。DVDは再生できる。10年近く働いたからよしとしなければなりませんね。


 中をのぞいてみようと、懐中電灯を用意して点けたら、これも一度灯りがついてすぐに消えてしまいました。


 電池が切れたか、電球が切れたか、どっちかだと見当をつけて、とっかえひっかえ試してみましたが、どうやってもつかない。おそらく、スイッチの接触部分が具合が悪いのだろうと推測しています。懐中電灯なんて使う機会はめったにありません。本棚の裏側に転がった硬貨を探すときとか、天井裏のほこりの具合を調べるときとか。しかし、いつ必要になるか分からないので、点灯しない状態のままにしておくわけにもいきません。新品を購入しました。450円くらい。


 息子が毎日、駅まで往復している自転車の後輪がパンクしたので、自転車屋さんに修繕を頼みにいきました。チューブにささくれが立ってしまっているので、すぐ又パンクしますよ、と注意を受けました。タイヤの溝が磨り減って、ツルツルになっています。こうなったらタイヤとチューブをそっくり交換したほうがいい、というお薦めにしたがって取り替えました。3000円。


 おととい、あるところで、カバンの中から透明のポーチ(A6版くらいの)に入れた名刺入れを取り出し、カウンターの上で書類に必要事項を記入して、立ち去るときに、そのポーチのほうを置き忘れました。いろいろな病院の診察券のほか、カメラ店・ビデオ店のポイントカードを入れたカード入れを失いました。10分後くらいに気づいてその場所に戻ったときには、なくなっていました。


 最近、この手の(注意力散漫による)忘れ物をする機会が増えたような気がします。シナプスの連鎖が、どこかで切れているのかもしれません。部品交換も、新品取り替えもきかないので、年数ギリギリまでだましだまし使っていくほかありませんね。


ショック!        ショック!        ショック!        ショック!        ショック!

梅棹忠夫

 国立民族学博物館の館長室に梅棹先生を訪ねたことがあります。1980年代中ごろか。大きな机の上に、例の「京大カード」を並べて、考えていらっしゃるところにお邪魔しました。


 原稿を依頼しに伺ったのか、いただきにあがったのか記憶はぼんやりしています。お目にかかってぜひお聞きしたい話がありました。それは、「尺貫法」が廃止されて「メートル法」に全面的に移行した1959年か60年ごろ、朝日新聞のコラムにお書きになった記事のことです。


 一尺という長さの単位はおよそ30・3センチで、一坪は、六尺四方、およそ畳2枚分の広さです。法律が変わったからには、従わなければならないから、これからは、1尺も1坪も使わないのは仕方がない。そこで、新しい単位を提案する、というものでした。30・3センチの長さを「1クシャ」とし、畳2枚の広さを「1ボツ」と呼ぼうというものです。その記事を読んだのは、私が中学3年のことですが、おそろしく茶目っ気のある先生だと、感嘆したものでした。せっかく、お目にかかるのだから、その話をいちばんに申し上げました。呵呵大笑なさって、「通産省に叱られましたよ」とおっしゃっていました。


 『モゴール族探検記』という岩波新書は、記録では1956年に刊行されたようですが、私が読んだのは63年、大学生になってからです。紀伊国屋書店の新しいビル(今でもあるあのビル)ができたのがそのころではなかったか。紀伊国屋ホールで、梅棹忠夫講演会があり、聞きにいきました。講演会の前か後かに本を読んだ。モンゴル平原が目に浮かぶような、おもしろい話でした。そのときの感激もお伝えしたはずです。


 お目にかかったのは、それ一度ですが、お書きになるものは、目につくかぎり読みました。『中央公論』によく寄稿なさっていました。「巻頭に載せる論文は、どんなに大家でも11枚半にするよう、私が編集部に言ってそうしてもらった。一息で読める分量はそんなもんです」という意味のことをおっしゃいました。そういうものか、と感心したのを覚えています。


 梅棹先生は、また、日本語の表記法に一家言お持ちでいらして、あるときから、「あるく、みる、はなす、かく」、のように、動詞はすべてひらがなで書くというやり方で一貫しました。エスペランティストでもありました。新聞の訃報は、この二つを伝えませんでしたが、ウィキペディアにはちゃんと載っています。


 『日本経済新聞』に書いた「私の履歴書」をまとめた『行為と妄想―わたしの履歴書』(中公文庫)は、昭和期を代表する碩学の自伝ですが、巻措くあたわざる名著でした。


 7月3日に90歳で亡くなったということです。ご冥福を祈ります。


あじさい        あじさい        あじさい        あじさい        あじさい

遥拝隊長

 この間、地下鉄の連絡道(もちろん地下)を歩いていたら、前を行く営業マンらしい人が、取引先と商売の話をしているようでした。歩きながら、手にはかばんを持っていて、テキパキと話しています。耳にあてているはずのケータイ電話が見当たりません。最近は、ごく小さなマイクが体に取り付けてあって、手ぶらで話ができるもののようです。忙しいのはわかりますが、立ちどまって話をしてもよさそうなのにと思ったことでした。


 路上で、普通に会話しているらしいのに相手が見当たらない、というのは、ケータイ電話の普及以降、ごく当たり前の風景ですが、わたしなどは、いまだに違和感があります。やむなく自分で往来で話す必要が生じると、なるべく人の少なそうな場所を探してしまいますね。


 高校生のころ、6キロくらい先の学校へ自転車で通学していました。車の通る道路をできるだけ避けて、ちょっと遠回りでも、農道を選んで自転車をこいでいました。もちろん舗装などありません。昭和35年から38年まで。戦争が終わって15、6年たったころのことです。


 学校へ行く道すがら、大きな声で、誰かと話しているおじさんを何度も目撃しました。どうも部下らしい人に命令口調で小言を述べているようでした。子ども心にも、気が触れてしまったおじさんらしい、という見当はついていました。


 後年、井伏鱒二の「遥拝隊長」という短編を読んだときに、そのおじさんをすぐ思い出したものです。戦場で片足を失った元将校が、戦争が終わってからも正気に戻ることができず、戦時のまま、皇居遥拝の号令をかける、というような、沈痛な話です。


 会話をしているらしいのに相手が見えない、という状況への違和感は、無数にいたはずの「遥拝隊長」たちへ連想が及んでしまうからのようです。


うり坊        うり坊       うり坊        うり坊        うり坊

理系・文系

 鳩山由紀夫元首相は、東大工学部出身、菅直人現首相は東京工業大学卒業で、どちらも「理系」だから、数字に強いはずだ、という意見を述べる人がいます。菅氏は、このところ批判にさらされていて、理系出身にしては、発言が情緒的だとか言われる。


 対して、「文系」(法学部・経済学部など)は、論理的な思考が不得手で、感情に走りやすいなどと書く人もいます。


 どちらの意見も、言いがかりとしか言いようがありません。血液型で性格診断するのと、いい勝負のように思います。


 「直角三角形の斜辺の2乗は、他の二つの辺の2乗の和に等しい」とか、「自分の話し声を録音したテープで聞くと、自分の声と違って聞こえるのは、骨伝導部分が録音されないからだ」とか、数式や専門用語で表現される「理系」の事柄を、言葉に言い直せるのでなければ、理解できたことにはなりません。


 西田幾多郎という哲学者がいました。『善の研究』という有名な書物を著しました。その中に「絶対矛盾の自己同一」という、超難解な術語が出てきます。何度読んでも理解できなかったし、こうなのだと説明してくれる文章も読んだことがありません。


 そろそろ、「文系・理系」のような無意味な二分法はやめたほうがいいのではありませんか?


パンダ        パンダ        パンダ        パンダ        パンダ