パパ・パパゲーノ -10ページ目

矢島美容室

 過日、お台場で姪の結婚式(と披露宴)がありました。レインボーブリッジという橋のそばが式場で、披露宴の席から、その橋が見えるのでした。


 ゆりかもめ(モノレール)線の向かい側にフジテレビの社屋があります。結婚式場のあるビル(6階建て)の1階が映画館。


 最近の披露宴は、若い人たちが演出を考えてやるようで、招待客を面白がらせようと、趣向をこらしているようでした。ご当人たちが力(りき)むほど、盛り上がるわけでもないのは、まあ、ご愛嬌というものです。


 宴たけなわになったころ、異様な風体の集団が闖入してきました。「矢島美容室」という、テレビ番組で評判になったものが映画化され、その、舞台挨拶の途中で、たまたま、控え室の隣の披露宴会場に飛び込んできたものらしい。とんねるずの石橋貴明・木梨憲武のコンビと、もう一人の男が、女装して現れました。会場の若い人たちは、突然の出現に大興奮していました。


 あとで聞いたら、披露宴を演出した、新郎の友だちが、たまたまそのグループを見かけて、サプライズ出演を頼んだのだそうです。総勢10数人の映画出演者が会場になだれこんだ、このいっときは、花嫁・花婿も、参列者も、長く記憶に残る「事件」になりました。結婚式から帰宅して、たまたまつけた夜の番組に、さっきと同じ扮装のメンバーたちが映っていました。


てんとうむし        てんとうむし        てんとうむし        てんとうむし        てんとうむし

認知症

 認知症と言っても病状のことではありません。命名がヘンだと思ってきました。2004年に厚生労働省が、行政用語として「痴呆」に替えて「認知症」にすることにしたのだそうです。ウィキペディアには、


 国民の人気投票では「認知障害」がトップであったが、従来の医学上の「認知障害」と区別できなくなるため、この呼称は見送られた。……厚生労働省老健局は同日(12月24日)付で行政用語を変更し、「老発第1224001号」により老健局長名で自治体や関係学会などに「認知症(にんちしょう)」を使用する旨の協力依頼の通知を出した。関連する法律上の条文は、2005年の通常国会で介護保険法の改正により行われた。


とあります。厚生労働省に「老健局」という局があるなんて初めて知りました。これが正式な名称なんですね。「保険局」「年金局」などと同格の組織。


 関係学会(心理学会、認知科学会、など)は、「認知症」とすることに対して、連名で反対意見書を提出したらしい。「痴呆」という言葉が差別的だという意見があって、専門家会議を開いて、その答申に基づいて名称変更したようです。今では、日本語を話す人なら知らぬもののない単語に昇格しました。ただし、国語辞書にこの見出し語はまだないようです。パソコンについているワープロソフトもまだ「にんちしょう」と入れても漢字には変換されません。


 cognitive という英単語の訳語として「認知的・認知上の」というのは、ごくありふれた言葉でした。認識・知覚などの意味もあるようです。「父親が子どもを自分の子だと認知する」という場合の「認知」もありますね。英語では acknowledge と言うらしい。


 「認知能力に欠けるところがある状態におちいった」という意味で「認知症」ということになったのでしょうが、無理な命名であったと思います。「耄碌(もうろく)」とか「呆ける」とか、昔から言いならわしてきたものを、病名としては「痴呆(症)」と呼んでいたものです。


 失語症・脳軟化症・尿毒症・拒食症・蓄膿症など、「~症」と付く熟語は、みな、「~である症状」のことを指しますね。原爆症の場合は「原爆の被爆が原因となって出る症状」、「ムチ打ち症」も「首がムチ打ち状態になった結果の症状」であるように、同格・因果の関係が分かる造語です。「認知症」は、どちらでもないところが無理だと感じられる理由です。


 もはや定着した言葉ですから、「認知症」という表現でいくことにはなるでしょうけれど。言葉の言い換えを、アンケートや委員会で決めるのはやめてもらいたいと私は思います。


カメ        カメ        カメ        カメ        カメ

多田富雄

 多田富雄『免疫の意味論』(青土社,1993)を読んだときの興奮はまだはっきり覚えています。「自己と非自己」とか、「ナチュラル・キラー細胞」とか、「免疫的寛容」とか、専門用語がたくさん出てくるのに、おそろしく精密な免疫の仕組みが、私のような素人読者にも分かるように記述されていました。「免疫はスーパーシステムである」ということも書いてあったか。システムとして安定していながら、つねに、システム自体がさらに進化し続けている、というようなことだった、と思います。その後も、一般向けの啓蒙書をたくさん出版なさいました。どれだったかで、「女は存在であるが、男は現象にすぎない」というスローガンのような一句を読み、この先生はコピーライターでも食っていけるのではないか、と思ったことでした。有性生殖をする動物の基本仕様はメスである、という、その後、いたるところで主張されるようになった認識を、一言で言いあらわした表現でした。《もっとも、つい今月になって、ヒトのオスとメスとは、別々に進化したかもしれない、という仮説が出てきたようです。興味深々ですが、まだよく調べていません。》


 『免疫の意味論』の出版後ほどなく、多田先生は、たしか日本認知科学会という学会のゲスト・スピーカーとして講演なさったことがありました。ゆっくりした口調で、免疫学の最前線の研究を紹介してくださったのだったと思います。そのとき、「癌に罹ってもそんなに怖いとは思わないが、自己免疫疾患に自分が罹ったらと思うと恐ろしい」という意味のことをおっしゃったのを今でも覚えています。免疫のシステムが、自分の身体を他者と認識し攻撃を加える、というお話の後でしたから、説得力これにすぐるものはない、という印象でした。


 10年ほど前に、脳梗塞になって、右手の自由を失い、それでも左手でワープロを操作して旺盛な執筆活動をなさってきました。リハビリの過程を綴った文章を『文藝春秋』で読みましたが、「嚥下困難」がどれほど恐ろしいかについて書いてあるところで、ほとほと感じ入りました。その記事によると、嚥下の際に気管に物が入っていかないようにするストッパーが働かなくなるのだそうです。すぐに重篤な気管支炎が起きてしまう、ということでした。


 4月21日、癌による胸膜炎でお亡くなりになりました。この先生に対しては、「学恩」を感じる、と表現したくなります。ご冥福を祈ります。
















無線LANと有線LAN

 自宅の無線LANの調子が思わしくなくなったので、ネットで調べた「パソコン整備士」(という職業というか資格があるんですね)に出張してもらって、解決法を教えてもらいました。


 ルーターを換えるか、パソコン自体を新しいものに買い換えるか、いくつか選択肢を示してくれたのですが、比較的安上がりかと思えたのが、PLC(パワー・ライン・コミュニケーション)という方法です。ルーターから親機にラン・コードをつなぎ、親機の電源をその部屋のコンセントからとります。


 子機を2階において、同じようにコンセントから電源をとり、ラン・コードをもう一つのパソコンにつなぐ。おかげさまで、動作環境が(やや劇的に)向上しました。


 つまり、ラン・コードの延長線を、電気の配線におんぶする仕掛けなのですね。頭のいいことを考える人がいるものです。


 息子が使っている別のパソコンも、無線ランのつながりが悪くなったということなので、子機を買い足してつなげてみました。3台のパソコンがネットにつながり、いまはやりの表現をするなら、それぞれ「サクサクと」動きます。かかった費用は、3台の仕掛けで、2万5千円弱です。もの入りなものですねえ。


 いずれテレビも電話もパソコンも、すべて無線になるだろうという話が、それこそネットで飛び交っていますが、有線でつながる間はこれで行こうと思います。


てんとうむし        てんとうむし        てんとうむし        てんとうむし        てんとうむし

眺めのいい部屋

 ムービープラスというケーブル・テレビが流す映画チャンネルで、『眺めのいい部屋』を見ました。3度目くらいか。E・M・フォースターの原作。この人の小説はなにひとつ読んだことがありませんが、映画化された作品はたいてい全部見ています。『インドへの道』『ハワーズエンド』『モーリス』、どれも、話の骨格がきちんとしているので、安心して物語に入っていけます。


 『眺めのいい部屋』は、イギリス貴族(だと思う)の娘がシャプロン(付き添いの夫人)を伴って、フィレンツェに旅行する、その旅先のホテルで、やはりイギリス人の父と息子から、「眺めのいい部屋」を譲ってもらうところから話が始まります。この父子は、おそらく階級が下であろうと思われる。「眺めがいい」というのは、ホテルの部屋から、ドゥオーモやヴェッキオ宮殿の建物が見える、ことのようです。


 1985年の作品ですが、封切当時に見た記憶はありません。時代設定は、20世紀初頭。ポンテ・ヴェッキオも、シニョーリア広場も、アルノ川も、みんな出てきました。自分で歩いたことのある場所が映画の場面に出てくると、親近感がいやましに増えますね。


 マギー・スミス、ジュディ・デンチ、ダニエル・デイ=ルイスなど、錚々たる配役だったのでした。主人公のルーシーは、ヘレナ・ボナム・カーターが演じます。新作の『アリス・イン・ワンダーランド』で赤の女王に扮しているようです。当時は、20歳そこそこ、主人公の年齢と同じくらい。


 話は、貴族の婚約者(デイ=ルイス)を振って、別の男(フィレンツェで会った)と結婚するにいたるまでを、丁寧な心理描写とともに描き出したものです。


 久しぶりに見直して気がついたのですが、ひとりの女が、どのようにして官能に目覚めるか、というメッセージが、あからさまではないけれど込められていたのでした。そう言えば、『インドへの道』にも、そういう含みがあったのを思い出します。『モーリス』は、ずばり、(男の)性を主題にした物語でした。


 原作者のフォースターは、1970年に91歳で没したようです。


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