パパ・パパゲーノ -73ページ目

これを楽しむ者にしかず

 『論語』という本を通して読んだことがありません。もともと通して読むための本ではないでしょうが、とびとびにでも全部を読んだことがない。気に入った文句の出てくるところを拾い読みした程度です。


 子曰く、これを知る者は、これを好む者にしかず。これを好む者は、これを楽しむ者にしかず。


という文があります。ここに出てくる「者」は、原文でも「者」ですが、注釈本をみると(別々の2冊)、どちらも、「人」の意味には解釈していません。ちょっと読むかぎりではこう解釈したくなります。


 これ【学問にしろ、趣味にしろ、仕事にしろ】を知っているだけの人は、好きでやっている人にはかなわない。好きでやっている人も、楽しんでやっている人にはかなわない。


 こういう意味だと思ってきました。それでも間違いとは言えないはずです。ところが、注釈本の解釈はこうなっています。


 何ごとであれ、知るということだけでは、まだこれを愛好することに及ばない。愛好することは、楽しむことに及ばない。


 つまり、「知る→愛する→楽しむ」という段階を登っていくのが、何ごとをなすにしても大切なのだ、という教えになっていました。他者と比較して優劣を決めてはいけない、というわけです。


 楽しめる境地に達するために努力する、というのもなんだか功利主義の匂いがしませんか。ここは、なんでも楽しんでするのが最高だ、そうだそうだ、と自分に都合のいい方に解釈しておきます。だいいち、そのほうが気が楽です。


 今日で満64歳になりました。往時茫々。


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デュエット

 カラオケで歌われるデュエットは、どういうわけかハモらないものが多い。『銀座の恋の物語』も『別れても好きな人』も【『二人の銀座』は最後にハモりますね】。『白いブランコ』はもともとハモるように作られているので、ときどき歌うことがあります。チャゲ&アスカも、きれいなハーモニーを聞かせますね。

 シャルロット・チャーチのファースト・アルバムの第1曲「ピエ・イエズ」は、シャルロットが一人で高いメロディーも低声部も歌って合成したものらしく、ハーモニーの美しいこと、この上ないものです。(ただし、このリンク先の歌は独唱です。)よく似た音質・声域の歌手が歌う二重唱(デュエット)は、響きがよくて耳に心地よいものです。

 ハーモニーのきれいなデュエットといったら、やっぱりオペラのそれが素敵です。古今のデュエットの中でピカ一と衆目の一致するのが、『フィガロの結婚』の、伯爵夫人ロジーナと小間使いスザンナの、いわゆる「手紙の二重唱」、「なんとさわやかな西風が」と始まる曲。正式には「デュエッティーノ(小二重唱)」と呼ぶようです。後半の音をコロコロ転がしながら追いかける節まわしがなんとも言えません。

 グンドラ・ヤノヴィッツとエディット・マティス、ルネ・フレミングとアリソン・ハグリー、キリ・テ・カナワとイレアナ・コトルバシュ、どの組み合わせもよかった。

 『フィガロ』では、冒頭の、スザンナとマルチェリーナのデュエットも美しい。

 リヒヤルト・シュトラウスのオペラは、モーツァルトの本歌取りかと思わせるところがしばしば現われます。ソプラノのデュエットで言えば、『薔薇の騎士』の、オクタヴィアンがゾフィーに一目ぼれするシーンの二重唱もそれ。もっとも、このオペラ全体が、『フィガロ』を下敷きにしたようなものですけれど。

 モーツァルトを聞くたびに、グルベローヴァが語ったという言葉がいかにもその通りだろうと納得しています。「モーツァルトは声にとっても精神的にもいわば特効薬です。」

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抜歯

 右上の一番奥の歯がタテに割れてしまったらしく、養生するか抜くか、どちらかを選択せざるをえなくなりました。抜いてしまっても咀嚼には不都合がないとお医者さんがおっしゃるので、思い切って抜くことにした。痛くもかゆくもないので、いよいよ痛くなるまで放っておいてもよかったのですが、いろいろな食べかすがひっかかって愉快ではなかったから、えいやっと覚悟を決めた次第です。


 何十年前か覚えていませんが、親不知を上下4本(ですよね)抜いて以来の抜歯です。下の大臼歯は2本とも中学のときに抜いてありました。虫歯です。


 3時の予約で、3時半にはすべて終ってしまいました。あっけないものです。抜いた歯は、たしかに二つに分かれていました。「持って帰りますか」と聞かれましたが、いりませんよそんなもの。


 麻酔が切れたら痛みがおそってくるかとビクビクしましたが、なんということもありません。さすがに、焼酎を呑むのは控えています。


 施術前、お昼には、お蕎麦屋の「まつや」で、もりそば1枚プラスかきあげ天丼を食しました。うまかった。せめてもの心準備でした。


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リバタリアニズム

 最近、ブログやネット上の議論(政治的、経済的、法律的議論)によく登場する考え方のひとつに「リバタリアニズム(libertarianism)」というものがあります。誰が言い出したか、語源は何か、という出自のこともそれはそれで面白いのですが、手っ取り早くその主張の核心と思われるところを示せば下のようになります。

【森村進著『自由はどこまで可能か―リバタリアニズム入門』(講談社現代新書1542番)が参考書です。この本は、むずかしい話を分かりやすく語る啓蒙書の模範と言うべきものです。】


 ①各人は自分自身の所有者である。(自己所有権)

 ②一般的な行動の自由はこの「自己所有権」による。すなわち、「他人の身体ではなく、自分の身体による行動」である。

 ③「他人の人身や自由を侵害する自由」は認められない。すなわち「殺人や強盗の自由」はありえない。

 ④各人の財産は、経済的自由の産物であるから、自由権の一部とみなす。(著作権のような無体財産権はリバタリアニズムからは認めにくい。)


 なんだか当たり前のことを言っているようですが、理論的に進めていくと、「政府の規模はどのくらいが適切か」、あるいは「そもそも政府は必要か」、というところまで行くといいます。「貨幣も民間で発行して競争させた方が合理的だ」という議論もあるそうです。


 くわしくは、森村著にゆずりますが、たとえば、いま問題になっている官僚の権限の肥大化に対抗するためには、こういう理論武装がぜひとも必要だということがわかってきます。


 語源詮索をひとつだけ。この語の元になったのはフランス語の「リベルテール(libertaire)」ですが、「絶対自由主義」とか「無政府主義」という意味でした。取締りの対象になる過激な思想を指します。「リベラル」という語が、アイマイになったためにあえてこういう激しい語が選ばれたもののようです。


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これになりたかった

 大人になったら何になりたいか。子どものころは無謀なことを考えていました。まずプロ野球の選手。長嶋が大活躍をはじめたころです。甲子園で板東・村椿が18回投げ合って引き分け再試合になったラジオの中継にもかじりついていました。打つのも投げるのも、たいして上手でもなかったので、わりに早めにあきらめました。サードとかショートを守っていましたから、大人になって野球を見物していると、どうしても内野手に目がいきました。


 日本ハムだったか、水谷二塁手とか、ヤクルトの角三塁手とか、原辰徳と一緒に東海大相模高校で活躍した森二塁手とか。篠塚利夫(いま和典)選手は、銚子商業のサードのときも、ジャイアンツのセカンドのときも、目のさめるような守備が魅力的でした。ヤンキースのジーターも好きです。


 野球選手と同じか、もっと強く希望をいだいたのは、落語家でした。三遊亭金馬という、出っ歯の落語家が子どもにとっては分かりやすくて好きでした。いまの金馬は、先代の弟子で小金馬と称していました。


 『孝行糖』という、与太郎もののハナシが最初に面白いと思ったものです。


 孝行糖 孝行糖 孝行糖の本来は

 鶴の小米に 鴨の寒ざらし


という売り声で、飴を売る稽古をします。


 金馬の噺ではなかったかも知れませんが、ほかにも、『寿限無』『長屋の花見』『寝床』『時そば』などなど、子どもが聞いても面白さが伝わる落語はたくさんありました。もちろん、今でもすべて高座にかかりますね。


 大学にも「落語研究会」(通称オチケン)があったから、やってみればよかったのでしょうが、江戸の言葉を話すことに気持がすくむところがあって、トライしなかった。


 なりたいと思ったものにはなれなかったけれど、他にもたくさん興味の持てることがありましたから、後悔もしていません。


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