デュエット・2
ヴェルディの『リゴレット』で、女たらしのマントヴァ公爵の術中にまんまとはまるきっかけになる二重唱にリンクを貼っておきますね。ここに出るティト・ベルトランというテナーは初めて聞きましたがいい声をしていますね。『リゴレット』は二重唱の宝庫のようにいろいろな組み合わせを聞くことができます。
ついで、ドニゼッティの『ランメルモールのルチア』の第一幕の二重唱。若いころの(ヒゲのない)パヴァロッティがジョーン・サザランドと歌ったビデオ。サザランドはリチャード・ボニングという指揮者の奥さん。このデュエットは、ハモる部分がいたって少なく、同じメロディーを、交互に奏でますが、このメロディーが、なんとも「通俗で美しい」としか言いようのないものです。
最近、オペラ音楽の醍醐味は、この「通俗」にあるという気がしています。『リゴレット』の「女心の歌」(風の中の羽のように変わりやすい女心)なんて、一度劇場で聞いたら帰り道で口ずさめるくらいですから。実際、作曲家は上演前にこの曲をお客さんに聞かれないように厳重管理しろと命じたという話です。
前にも、このブログで書いたかもしれませんが、デュエットの究極とも言うべきは、『フィガロの結婚』のソプラノふたりで歌う「そよ風に」ですね。
YouTube という便利なサイトができたおかげで、よりどりみどりで楽しむことができるようになりました。リンクを貼ったもの以外にも、たくさんアップされています。

岩波英和辞典
高校生になって英語を教えてくださったアリエ先生がまず勧めたのは、『岩波英和辞典』を買って辞書を引く習慣をつけろ、ということでした。茶系統の明るい表紙のその辞典の匂いを今でも覚えています。
島村盛助・土居光知・田中菊雄編のその辞書は、いま調べると、私が高校に入学する2年前、1958 年に新版の初版が出ています。じつはアリエ先生は、山形大学での田中菊雄先生の教え子であって、編纂の過程をいくらかはご存じであったのだろうと思います。
オックスフォード英語大辞典(Oxford English Dictionary 別名 New English Dictionary)は、その頃でも全20巻からなる、徹底網羅・悉皆記述というべき、おそろしく権威のある英語辞典でした。その辞書の編集をめぐってはいくつものルポルタージュが書かれています。のちに読んでもっとも面白かったのは『博士と狂人
』という本でした。
この、OEDを徹底的に咀嚼して、日本人の役に立てるべく編纂が進められたのが『岩波英和辞典』です。田中菊雄『現代読書法』に、この仕事に着手するにあたって、OEDを月賦で手にいれる苦労話が書かれています。田中先生ご自身は、学歴は小学校卒業でしかないのですが、苦学して英語を習得なさったのだそうです。『現代読書法
』(講談社学術文庫)も本好きにはおすすめの1冊です。
今では見られなくなりましたが、OEDの記述法にならって、語義の古い順に①②③…と分類されるので、この辞書(現在の英和辞典よりやや小ぶり。コンサイスよりは大き目)で勉強した高校生の中から、英語の語源に興味を持つ人がたくさんできたはずです。私もそのひとりでした。
2年生の夏ごろだったか、辞書の背がバラバラになってしまって、もう1冊親に買ってもらいました。今では版元でも絶版になっていますが、私にとっては恩義のある辞書なのです。
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シェイクスピア・インダストリ
30何年も昔、ストラトフォード・アポン・エイヴォンという町に行ったことがあります。ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー(RSC)という、由緒のある劇団が芝居をする劇場もエイヴォン川のそばにあって、『リチャード3世』を観劇しました。「フェーアウェル(Farewell!)」という台詞しか分からなかったけれど。
16世紀風の町並みが残っていて、それを模した焼き物のおみやげをそこらじゅうで売っていました。
つくづくシェイクスピアで持っている町なのだ、と感じました。思わず「シェイクスピア・インダストリ(産業)」というアイディアが浮かび、そういうタイトルの辞典を作ったら売れるのではないか、と企画案を書きかけましたが、なんとなくそのままになってしまった。
小谷野敦さんのブログ
を読むと、英文学の世界では、「シェイクスピア・インダストリ」というのはごく普通に言われることのようです。そういうタイトルの本は見たことはありませんが。
IIZUKA T
さんもおっしゃる通り、ローマという都は、ローマ帝国の遺産で食べているようなものですね。奈良も京都も同じようなものか。
サン・ピエトロ寺院や、ケルンの大聖堂を訪れると、なんだ、「ジーザス・クライスト・インダストリ」ではないか、と妙に納得します。これが、今のところ最強の「産業」かもしれませんね。
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人名の漢字
当用漢字(いまの常用漢字の前身)ができる以前に生まれました。父親が上田萬年の『大字典』を調べて私の名前を付けたようです。字画は簡単なのに、戦後の人名用漢字には使われない文字が一字入っています(にんべんに光と書く侊という字)。萬→万や、廣→広、澤→沢のように、旧字に対応する新字体がある文字だったらよかったのですが、まったく、それ一字だけ。
さいわいなことに、JIS漢字第3水準には入りましたので、パソコン上での文字入力には問題がなくなりました。
ところが、未だに第3水準の漢字を装備していないコンピュータがたくさんあるようで、この間も、ある銀行に口座を作ろうとして、ネットで入力したら、文字を認識しないらしく、エラー・メッセージが出てしまいました。カスタマー・センターに電話をかけて、とりあえず事態は収拾したのですが、自分の名前の文字を、いちいち口頭で伝えなければ用が足りないというのは面倒なものです。
その文字だけひらがなにして送信しましたが、本人確認のための住民基本カードをファックスで送ったら、当然のことながら、文字が一致していないので、またもやご下問がありました。市役所でも税務署でも、第3水準漢字を認識しているので、もとの漢字のまま記録されているからこういうことが起きます。
諸橋轍次博士の『大漢和辞典』の親文字は約5万字とうたってあります。この数で、中国の古典に使われた文字はあらかた網羅しているという。日本でできた漢字(峠、畑のようないわゆる国字)の数は知れたものです。全部ワープロで打ち出せるようにするのは、技術的には難なくできるのだそうです。書体(明朝体やゴチック体)の違いなどを表現するのもすぐにもできる、と専門家に聞いたことがあります。
そろそろ、日本語で使う漢字の統一をすべきです。私のように、めったにない字を名前に持ったために、しなくてもいい苦労をした人は少なくないはずです。だんだん後期高齢者になって淘汰されるから要らない、という問題ではない。先の、諸橋先生のお名前の「轍」はJIS漢字では第1水準の文字表にありますが、画面上に表わすためにはちょっとした手順が必要です。このお名前が入力される機会がなくなることはないはずなので、そういう時間のムダは少なくしたほうがいいと思うわけです。
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なさけない恋人たち
司馬遼太郎の『功名が辻』(文春文庫、全4冊)は読みさしたままですが、初めのほうにこんな話が出てきます。山内一豊のところに嫁に行く千代さんに、母親が、「男というのはいくつになっても子どもなものであるから、旦那様に仕えるにも子どもを育てるようにしなければならない」と忠告します。この小説では、主人が決断する方向を、たいていの場合、千代さんがそれとなく示し、全部、一豊自身が決めたかのように、あとで「さすが一豊さま」などと褒め上げる、という手を使います。いやらしい奥さんですねえ。まあ、日本史上随一とうたわれる賢婦人ですから、小説家もいくぶん誇張しながら筆を進めていたようですが。
『蝶々夫人』というオペラでは、ピンカートンというアメリカ人の海軍士官と、没落した武士の娘で、芸者に出ていた蝶々さんとが「結婚」するところから話が始まります。せりふでは愛のある結婚のように言ってもいますが、要するに「現地妻」になっただけ。悲劇を予感した領事のシャープレスが「アメリカに帰ったらアメリカ娘と結婚することになるんだから、この話はやめておけ」と意見をしますが、ピンカートンは聞く耳を持たず、結局ケイトという妻を連れて3年後に戻ってきます。ピンカートンがアメリカに帰国したあとに生まれた子どもをケイトに渡して、蝶々さんは自害する。映像つきのオペラを見ていると、この、ピンカートンという人物はなんでこんなに当事者感覚がないんだろうと、気色が悪くなります。音楽は素敵なのに、このオペラを嫌う(とくに日本人で)人が少なくないのもうなずけます。
『椿姫』における、ヴィオレッタの恋人アルフレードも、相手の気持が理解できず、心変わりしたと思い込んで逆上してしまう。
『アンナ・カレーニナ』の、アンナの恋人ヴロンスキーという男も「子どもっぽい」という印象が残っています。『ボヴァリー夫人』の旦那も気がきかなくて、奥さんに浮気されてしまう。
世の中の男がみんな「子ども」であるわけはないので、ヒロインを際立たせるための仕掛けなのでしょうね。それにしても、この男がさっさと気がついていれば、こんなオハナシは成り立たない、と思わせる作品は少なくない。
逆のケースの作品(つまり、ヒーローを際立たせるためにおバカさんの女が出る)というのは今は思いあたらない。『赤と黒』でも『パルムの僧院』でも、主人公の相手は十分に魅力的でした。
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