なさけない恋人たち
司馬遼太郎の『功名が辻』(文春文庫、全4冊)は読みさしたままですが、初めのほうにこんな話が出てきます。山内一豊のところに嫁に行く千代さんに、母親が、「男というのはいくつになっても子どもなものであるから、旦那様に仕えるにも子どもを育てるようにしなければならない」と忠告します。この小説では、主人が決断する方向を、たいていの場合、千代さんがそれとなく示し、全部、一豊自身が決めたかのように、あとで「さすが一豊さま」などと褒め上げる、という手を使います。いやらしい奥さんですねえ。まあ、日本史上随一とうたわれる賢婦人ですから、小説家もいくぶん誇張しながら筆を進めていたようですが。
『蝶々夫人』というオペラでは、ピンカートンというアメリカ人の海軍士官と、没落した武士の娘で、芸者に出ていた蝶々さんとが「結婚」するところから話が始まります。せりふでは愛のある結婚のように言ってもいますが、要するに「現地妻」になっただけ。悲劇を予感した領事のシャープレスが「アメリカに帰ったらアメリカ娘と結婚することになるんだから、この話はやめておけ」と意見をしますが、ピンカートンは聞く耳を持たず、結局ケイトという妻を連れて3年後に戻ってきます。ピンカートンがアメリカに帰国したあとに生まれた子どもをケイトに渡して、蝶々さんは自害する。映像つきのオペラを見ていると、この、ピンカートンという人物はなんでこんなに当事者感覚がないんだろうと、気色が悪くなります。音楽は素敵なのに、このオペラを嫌う(とくに日本人で)人が少なくないのもうなずけます。
『椿姫』における、ヴィオレッタの恋人アルフレードも、相手の気持が理解できず、心変わりしたと思い込んで逆上してしまう。
『アンナ・カレーニナ』の、アンナの恋人ヴロンスキーという男も「子どもっぽい」という印象が残っています。『ボヴァリー夫人』の旦那も気がきかなくて、奥さんに浮気されてしまう。
世の中の男がみんな「子ども」であるわけはないので、ヒロインを際立たせるための仕掛けなのでしょうね。それにしても、この男がさっさと気がついていれば、こんなオハナシは成り立たない、と思わせる作品は少なくない。
逆のケースの作品(つまり、ヒーローを際立たせるためにおバカさんの女が出る)というのは今は思いあたらない。『赤と黒』でも『パルムの僧院』でも、主人公の相手は十分に魅力的でした。
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