共鳴
「共鳴する」という語は、「ケインズとハイエクとを比べたら、今ならハイエクの説により強く共鳴する」「ガンジーの非暴力主義に共鳴する」などのように、「賛成する、同意する、共感する」などの同義語として使われます。
しかし、「共鳴」(レゾナンス= resonance)は、もともとは物理学の用語です。舌がもつれるかもしれませんが説明してみます。物体にはそれぞれ固有振動数というものがある。外からその振動数と同じゆさぶりをかけると、揺れ幅が大きく増える、その現象を「共鳴」と言うのだそうです。振動なので、「共振」と呼ぶ場合もあります。
地震で、震度とかマグニチュードとかが同じでも、被害の大小が大きく違う場合がありますが、揺れ方の条件が、(不幸にして)その場所の固有振動数に近かったりすると、大きな被害をもたらすことになるのだという。
ギターの開放弦が、さわってもいないのにふるえて音が出る場合があるそうですね。これも、弾いている弦の振動に「共鳴」する結果です。使わない指で軽く押さえてミュートをかける必要がある、と、ギターの弾き方初歩に説明されます。私はギターが弾けませんから、これは受け売りですが。
この、物理学的「共鳴」を、意識せずに実現しているのが、ヒトの音声ですね。声帯自体のオトはそんなに大きくはないのに、口腔が「共鳴箱」になって、オトが大きくなり、他のヒトの耳に届く。歌の場合も、身体全体を共鳴箱にするように、などと教えられます。具体的にどうするのかは分かりませんが。
八木重吉の詩「素朴な琴」は、物理現象を主題にしたものではありませんが、「共鳴」という事態の文学的表現として比類がないものだと思います。
この明るさのなかへ
ひとつの素朴な琴をおけば
秋の美くしさに耐へかね
琴はしづかに鳴りいだすだらう
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ちょっと異変
金曜日の夜は、男子400メートル・リレー決勝の日本チーム銅メダルのレースを見終わってほどなくふとんに横たわりました。いいちこの水割りを何杯か飲みながらの観戦だったので水腹になっていたのは間違いありません。それだっていつもより少し多いだけだったはずですが。
夜中に(2時か3時過ぎか)、腹痛がして目が覚めてしまいました。チクチクでもキリキリでもない、胃壁に四角い鉄板でも嵌ったような、重い「鈍痛」が続きました。切れ切れには寝たのでしょうが、ずーっと眠れない状態が続きます。痛みは強くもならないし収まりもしない。朝方になって、正露丸を2錠飲みました。大人は4錠と書いてありましたから、痛みの程度は2錠分くらいと判定して2錠にしたのです。私は普段ほとんど薬を飲まないので、いざ薬を飲むとかなり劇的に効くことが多いのですが、このときは、どうしたものか「劇」の幕が上がる気配もありません。普通の腹痛だと、熱が出たり、猛烈に腹が下ったりするところなのに、そのどちらの症状もなく、ひたすら鈍痛(なのに眠りを妨げる)が続くだけです。小腸以下の器官がサボタージュに入ったもののようでした。小腸に入った分の残りを何度か嘔吐しましたしね。脱水症状になっても困ると思ったので、塩水を作って飲んだり、普通の水を飲んだりしました。さっき飲んだ正露丸のクレオソートが逆流してくるのは気持のいいものではありません。
ひたすらガマンし続けたら、朝9時頃からようやく眠ることができるようになりました。12時過ぎに目がさめたら、やっと痛みが収まりました。稲庭うどんをゆでて、あたたかい汁を作って食べられました。夜も負担の少ないものを食べて早めに寝ました。
夏バテがいきなり腹に出たのでしょうかね。よく「風邪が胃にくる」ということがありますが、それなら下痢症状が出るような気がします。結局、原因不明ですが、今日は朝から普通に食べられていますから、深くは考えないことにしましょう。
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山田耕筰
北原白秋の詩に山田耕筰が曲をつけた作品を調べたらずいぶんたくさんあるんですね。d-score
というサイトは、童謡・唱歌をしらべるのにまことに重宝します。
この道:この道はいつか来た道
からたちの花:からたちの花が咲いたよ
あわて床屋:春ははよから川辺の葦に
ペチカ:雪の降る夜は楽しいペチカ
待ちぼうけ:待ちぼうけ待ちぼうけ
ある日せっせと野良かせぎ
砂山:海は荒海 向こうは佐渡よ(ララドミーファミドミ
ミラーラーラシラファレミのほう。
中山晋平の曲のほうがポピュラーですが)
かやの木山の:かやの木山のかやの実は
かえろかえろと:かえろかえろとなに見てかえる
城ヶ島の雨:雨はふるふる城ヶ島の磯に
酸模(スカンポ)の咲くころ:土手のすかんぽジャワ更紗
他にもありますが、私がすぐに歌える曲だけでもこんなにありました。よくもまあこんなにたくさん名曲が作れるもんです。ジャンルとしては童謡でしょうが、山田耕筰自身はこれらの作品を多分歌曲のつもりで作曲したのだろうと推測します。
「からたちの花」など、メロディーの繰り返しが一度もないのです。「からたちの」の出だしこそ同じですが、日本語の抑揚に合わせて、一節ごとにメロディーが少しずつ変わる。しかも、クレッシェンドやディミヌエンドの表情の、じつに細かい指示もなされています。たしかに、ことばをキチンと歌うのは基本中の基本ですから、意図は分かるのですが、プロの歌手が歌うのを聞いてさえ、ときどき窮屈な感じがしてしまいます。もっとのびのび歌ってもいいはずです。
歌詞を見ていて発見したのですが、「土手のスカンポ ジャワ更紗 昼は蛍がねんねする」の次、私が小学校で教わったときは、たしか「僕ら小学一年生」でしたが、白秋の原詩では「僕ら小学尋常科」だったようです。学制の変化に合わせて歌詞を変えたのでしょうね。「春の小川」も、文語の「さらさら流る」から口語の「さらさら行くよ」に変わりましたし。
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高所恐怖症
養老孟司先生の対談集『生の科学、死の哲学』(清流出版)のなかでこんなことが述べられています。
よく「飲む・打つ・買う」と言いますね。飲むは酒、打つは博打、買うは女。西洋では「酒・女・歌」と言って一カ所違う。博打と歌の共通点はなんだろうか。ギャンブル好きの人に、博打の本質は何かと聞いたら「めまいだ」と。
…めまいも歌も両方とも耳です。陶酔感覚は耳がいちばん強い。…生物の進化上、音が聞こえるようになったのは耳ができたずっとあとですからね。…それ以前は三半規管です。だから、めまいのほうが由緒正しい。…
クラクラッとする事態を「目まい」と言うわけですが、耳の守備範囲なのに、なぜ「目」というのでしょうね。
高いところに上ったときにもめまいがします。これも快感なのか不快なのかよくわからないと言ってらっしゃる。
「高所恐怖症」というのがありますね。私は、子どものころも、大人になってからも、高いところに立っても平気でしたが、おそらく50歳を過ぎたころから、駄目になりました。
よく、西洋の教会の屋根の上に、聖人の像の彫刻が飾ってあります。それを、上空から撮影した画像を目にするだけで、背中がサワサワしてきます。その教会が崖の上に立っているのもありました。思い出しただけでも震えてきます。ミラノのドゥオーモの屋根の上に、下から見るととがった槍のようなものが何本も見えます。写真をよくよく見たら、何人もの坊さんたちの像でした。そうと分かるとゾーッとしてきました。
音楽のもたらす陶酔感と、高いところに立つ恐怖感とが、同じ器官のはたらきであるところが面白い。
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幼稚園の砂場
1990年代に、『人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』(ロバート・フルガム著、いま河出文庫)という本(翻訳)がちょっとしたベストセラーになったことがあります。必要があって原文を拾い読みしましたが、社会生活に欠かすことのできないルールは、子どものころにみんな教わっている、しかし、忘れている人が多い、というような内容だったと記憶しています。
幼稚園で教えられるルールが10くらいあげられていたと思いますが、よく覚えているのは次のルールです。
Put things back where you found them.
(ものは、見つけた場所に戻しなさい)
家の中でも、爪切りやハサミ、ものさし、缶切り、などなど、毎日使うのではないものでも、使いたいときにすぐ手に取れるように、いつも決まった場所にある、というのが望ましい。ときどき置き場所が変わったりするとおそろしく不便な感じがするものです。
私が小学校へ上がるころには、近くに幼稚園というものはありませんでした。ひょっとしたら戦前にはあったのか。幼稚園というものに行ったことがないので、「人生に必要な知恵」が少しならず欠けているのかもしれません。それでも、今では、朱肉とかハンコとか、ペンチとかねじまわしとか、どこにあるかは決まっています。子どもが使って、そのまま自分の机の上においてあったりすると腹の立つものでした。
年をとってくると、ますます、決まったものは決まった場所に戻すことが重要になってきます。しみじみ、そのことを感じています。
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