ジャイアンツ
たまたまBSにチャンネルを合わせたら「ジャイアンツ」をやっていました。メリーランドの大きな家で、今しも、テキサスから馬を買いにきたロック・ハドソン(ビック・ベネディクト)が、その家の娘エリザベス・テイラー(レズリー)に一目ぼれしたところでした(もっとも、レズリー嬢も、気を引こうとしてケンカをふっかけたりしますね)。話は始まったばかりのところでした。そのまま見続けて、終わったのが深夜12時ちょっと前です。3時間20分もの長尺です。
ロック・ハドソンが経営するテキサスのベネディクト牧場へ、結婚した二人が汽車(寝台車)で向かいます。それが新婚旅行なのでしょうね。着いた駅の名前がベネディクトです。私有地に駅がある、広大な牧場。
ジェイムズ・ディーン(ジェット・リンク)が生意気な使用人を演じています。花嫁を一目見るなりひそかに恋心を抱く。レズリーもうすうす感じているらしいのに、雇い主の妻の威厳で、歯牙にもかけない態度をつらぬきます。
ジェットは、大またで測れる程度の小さな土地を持っている。大借金をして、石油の油井を掘ろうとしていて、ある日、とうとう石油が噴出してきます。それで、ベネディクトに張り合える大金持ちになった。
何十年かたって、ジェットは、自分の名前を冠したホテルを建てます。その披露パーティが後半の舞台。泥酔したジェットが、人っ子ひとりいないガランとしたパーティ会場で酔いのさめない状態で「レズリー」の名前を口にしてふたたびつぶれてしまう。扉の外で、レズリーの娘、キャロル・ベイカー(ラズ・ベネディクト)が悲しげに見つめている。ラズは、年の差をものともせず、親の反対もきかずにジェットと一緒になろうとしていたのに、この言葉を聞いてすべてを理解します。
この映画はよくできた叙事詩というべきものです。途中にインターミッションがあったりするところも含めて、「風と共に去りぬ」の向こうを張った作品のように思えました。
1956年の公開。ジェイムズ・ディーンは、この映画の撮影の後、運転していた車の事故で死亡し、公開には間にあわなかった。それにしてもみんな若い。撮影当時(55年)、リズ・テイラー23歳。ロック・ハドソン30歳。ジェイムズ・ディーン、キャロル・ベイカーともに24歳。ベネディクト家の、気のやさしい跡取り息子を演じたデニス・ホッパーが19歳。
原題は GIANT と単数形です。訳題だと野球チームの名前みたいですね。「大男;立派な男」というような意味らしいけれど、このタイトルの正確な含意はわかりません。
![]()
ふなばしアンデルセン公園
船橋の「アンデルセン公園 」という名前の公園で遊んできました。雨が毎日続いた先週の1日、さいわい雨に降られずにすみました。5時過ぎにはドシャ降りの雨が降り出しましたが、その直前にバスに乗り込んでことなきを得ました。
おそらく船橋市が、造営にも運営にもお金を出しているものと思われます。大人が1日900円の入園料、子どもは4歳以上100円だったか。28ヘクタールの広さを誇るだけあって、広々とした園内は空が広くて気持がいいものでした。子ども中心にできている公園なので、小学生低学年、学齢以前の子どもたちが大勢遊んでいました。丈夫な風船球を大小さまざまたくさん敷き詰めてネットをかけた「段違いトランポリン」、10メートルくらいの高さから蛇行して降りる長い滑り台、幼児のヘソくらいの深さの、不定形の広いプール、ほかいろいろな遊具が備えてある。
滑り台の出口。右手奥が、この公園ご自慢のフィールド・アスレチック。
時間限定で、ポニーや馬に乗ることもできました(ただし子どものみ、1回100円)。羊やヤギに触れることもできる(無料)。
こういう名前がつくくらいですから、アンデルセンの銅像もあったし、デンマーク式風車というのもありました。
ひさしぶりに子ども相手に遊びましたが、ヘトヘトになりましたね。目一杯走り回る子どものエネルギーというのはおそるべきものです。
園内で売っていた牛乳たくさんのアイスクリームが美味。
![]()
ミカエラの詠唱
「詠唱」というのは、国語辞典の語釈では「節をつけて詩歌を歌うこと」というのが最初に出てきます。(漢和辞典にはこの熟語は見えませんから、漢語にはない言葉らしい。)杜甫や李白の詩(だけではなく、頼山陽や乃木希典などの作品のこともある)を読み下し文にして声を出して歌うことがありますが、それは「吟詠」と言って「詠唱」とは言いません。百人一首のカルタとりで読み上げるのも、節は付けるけれど、これも「詠唱」とは呼ばない。具体的にどういうジャンルの詩歌を歌うのか、よく分かりません。
オペラのアリアの訳語としては「詠唱」という熟語が前から使われてきました。劇で言えば登場人物の状況や心理を描写する台詞にあたる部分、にメロディーをつけて(しばしば早口で)歌うのをレシタティーヴォ(レチタティーヴォとも)と言いますが、それの訳語は「叙唱」です。それと対になる、感情が高揚して、台詞を歌い上げる部分の歌が「アリア」(詠唱)と呼ばれました。『リゴレット』の「女心の歌」(風の中の羽根のように)とか、『フィガロの結婚』の「もう飛ぶまいぞこの蝶々」などがそれです。
とは言え、「女心の歌」を「マントヴァ公爵の詠唱」、「もう飛ぶまいぞ」を「フィガロの詠唱」と言ったのを聞いたことがない。同じように、「ヴィオレッタの詠唱」(椿姫)、「ジルダの詠唱」(リゴレット)、「ブロンデの詠唱」(後宮からの誘拐)などとも(普通は)言いません。
ビゼーのオペラ『カルメン』の、ミカエラ(ドン・ホセの許婚)のアリアの場合には、どういうわけか「ミカエラの詠唱」ということが多いのですね。昔、「音楽の泉」というNHKラジオのクラシック音楽番組(もちろん今でもやっています)の中で、こう言われたのをよく覚えています。
心変わりをしてしまった(らしい)婚約者を想って歌うミカエラの歌は、「詠唱」という語が「詠嘆」の響きを伝えるからかもしれません。カラヤン指揮の『カルメン』(CD、1963)で、ミレッラ・フレーニがミカエラを歌っています。ドン・ホセ(フランコ・コレッリ)との二重唱「母のことを聞かせてよ」が、これまでに聞いたどの組み合わせより、すばらしい出来上がりです。
![]()
アカシアの
木田元先生は、日本語でも哲学の文章が書けるという(それ自体当たり前のはずだった)ことを、たくさんの翻訳書や、ご自身の著述でも示した、稀有の学者です。ということをあらためて言いたくなるほど、哲学書の日本語は難解なものが多かった。
その木田先生が、愛読(愛唱)してきた詩のアンソロジーに、『詩歌遍歴』(平凡社新書)というのがあります。北原白秋の「小唄振り」の詩がお好きだと書いていらっしゃいました。たとえば「紺屋(こうや)のおろく」。
にっくい(憎い)あん畜生は
紺屋(こうや)のおろく
猫を擁(かか)へて夕日の浜を
知らぬ顔してしやなしやなと
白秋の詩では、これは小唄振りとは言わないか、「片恋」も引用されています。
あかしやの金と赤とがちるぞえな。
かはたれの秋の光にちるぞえな。
片恋の薄着のねるのわがうれひ。
曳舟の水のほとりをゆくころを。
やはらかな君が吐息のちるぞえな。
あかしやの金と赤とがちるぞえな。
「片恋」は、白秋の詩集『雪と花火』所収の作品。
じつは、このふたつの詩に、多田武彦が作曲した男声合唱曲があります。(多田武彦は、他にも北原白秋の詩を使ってたくさんの名曲を作曲しています。)むかしむかし歌ったことがありました。メロディーも覚えています。YouTube で探したけれど残念ながらみつかりません。
若い頃は歌詞の意味を深くも考えずに歌っていたということが、年をとってから読み直すとよく分かるものですねえ。「昔はものを思はざりけり」という次第です。
ところで、アカシアといえば、我々の世代は、西田佐知子(関口知宏の母上)の歌「アカシアの雨に打たれてこのまま死んでしまいたい」を思い出します。白秋のも、西田佐知子のも、植物分類上は「ニセアカシア」という種類なんですって。「秋の光にちる」アカシヤは、金色の花だと思い込んでいましたが、光を受けて金にも赤にも見える、ということなのでしょうか、よく分からなくなりました。「ニセ」なしの「アカシア」は「ミモザ」のことだとウィキペディアには書いてあります。それだと「金」にピッタリですが、季節が合わなくなります。ご存じの方教えてください。
![]()
完全原稿
印刷にまわすために用意する原稿は、手書き原稿の時代から「完全原稿」と呼びならわしてきました。著者に対しても、「原稿は完全原稿でいただきたい」と申し上げたものでした。これは、メールで入稿する現代でも同じです。ワープロで打ったデータをフロッピー・ディスクで頂戴していた、ちょっと前の時代でも同様。
「完全原稿」の「完全」は、しかし、「完璧」という意味ではありません。そんなことはありえない。「金甌無欠」という言い方がありますが、どこをとってもひとつも欠陥がなくて、そのまま印刷すれば即商品になる、実用に耐える、という意味だと思っている人もいるようです。
昨夜たまたま聞いたラジオ番組の進行係の人(最近はパーソナリティというようです。英語でも)が、「完全原稿」をそう理解しているらしい発言をしました。その番組の構成作家の書いた原稿をただ読むだけでは臨場感が不足する、ということを言うために、「作家さんが書いた完全原稿でも、読むときに言い方を変えたり、思いついたことを付け加えたり、そういう工夫を加えてリスナーに気持ちを届けているんだ」という趣旨のことを言っていました。
印刷物で言う場合の「完全」は、必要なものがひと揃い全部そろっていること。抜粋ではない、全体のうちの5分の4とかではないこと、を意味します。英語でも「コンプリート・マニュスクリプト」と言うらしいのですが、その場合でも意味は同じです。
野球で「完全試合」という場合は、味方が相手チームを(誰も1塁ベースを踏ませず)全部アウトで押さえ、27人で試合を終わらせて勝ったたときの試合を指します。英語でいえば「パーフェクト・ゲーム」。これなら「完璧」の意味でしょう。
どうも、「完全原稿」は「完全試合」と同じように理解されてきたらしい。
じっさい、「完全原稿」と言っても、綿密な校正作業を欠かすことはできないのです。雑誌や書籍に限らず、映画の字幕(にもじつに誤植が多い)や、ウェブサイトの記事(にはもっと誤字・誤植がある、日本語でも英語でも)の場合も、編集・校正の過程はないがしろにすることはできません。気をつけて書いているつもりでも、このブログでも、しばしばあやまちに気がつくし、読者からもご指摘を受けます。自戒すべきことにこそ。
![]()
