サラとセーラ
こんどのアメリカ大統領選挙で、共和党の副大統領候補になった Sarah Palin のカタカナ表記は、日本の新聞、テレビ字幕のいずれも、すべて「サラ・ペイリン」となっています。
ところが、アメリカ人の発音は、まず例外なしに「セイラ(あるいはセーラ)」なのだそうです。通信社の記事がサラになっていたのに「右へならえ」したものらしい。フランス語では、サラと読むのが普通ですが。
小澤征爾の娘さんは、漢字で「征良」と書いて、セイラと読むのでした。
英語の辞書には、たいていこの Sara(h) が出てきて、「〔聖書〕サラ《アブラハムの妻、イサクの母》」のように説明してあります。旧約聖書創世記17章15節から、その名前が出てくることも付記される場合がある。そこを読むと、びっくりしますよ。アブラハムがこうひとりごとを言う。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。」神は、大丈夫だとうけあって、イサクが生まれます。イサクというのは、「彼は笑う」という(ヘブライ語の?)意味だと、聖書のその箇所に書いてありました。
サラ・ベルナールはフランス人だからサラのままでしょうが、サラ・ボーンとか、サラ・ブライトマンなどは、本当はセーラと呼ぶのかもしれませんね。
英語の辞書の発音記号を見ると、まず、Mary と同じ記号が出てきます。「メアリ」と読みますから、「セアラ」と言ってもいいわけだ、YouTube を検索すると、うんざりするほどペイリン関係のビデオがでてくる。ニュース・キャスターの発音は「セアラ」と聞こえますね、そう言われてみると。もうひとつが、「セイラ」と読む記号。どうも、「サラ」は分が悪そうです。
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混浴の温泉
山崎まゆみ『だから混浴はやめられない』(新潮新書)という本が出ました。オビに著者の入浴写真(タオル巻き、もちろん)が印刷してあって、「ご一緒しませんか。」と誘っています。きれいなひとです。ほんとに「ご一緒」してくれるのかしらね。
今でも全国各地に、混浴の温泉があって、若い女も入っているのだそうです。本書の著者も若い。一緒に入った老人(男)から「冥土の土産になった」と、(ずいぶん古風な)感謝のことばをかけられたことも書いてあります。
最初に風呂の扉を開けるときの抵抗感を克服できれば、あとはすんなりいける、という具合に、女が混浴に入る際の困難除去のあれこれを語りながら、その楽しさにいざなっています。温泉旅館(の場合をたくさん紹介してある;ほかに温泉場の共同浴場など)の、おかみさんの気遣いが、スムーズな入浴に導いている例なども、共感とともに記述されています。無礼な男客を一喝したことも(無論、着衣に戻ってから)。
学生のころ、混浴の温泉ばかりを訪ねたことを思い出しました。一人旅です。本書には出てこない温泉にもいくつか入りました。なん十年も行ったことがないので、いまでも混浴のお風呂があるかないか、はっきりしませんが(ネットで調べても、そのことは書いてないと思う、たぶん)、福島県白河の山中深くにある、甲子(かし)温泉というのが、お風呂が大きくて、天井が高くて、じつにすばらしい温泉でした。風呂場が、旅館の建物から川を挟んだ対岸にあって、長い階段をおりて行くのだった。雪の季節にも一度訪れたことがありました。客は私ひとり。大きな風呂場の天井の湯気の噴出し口から、粉雪が舞い落ちてくるのが風情がありましたねえ。思い出した、そのとき持って行った本は、メルロ=ポンティの『眼と精神』だった。
敷居が高い
「ランチが1万円からのイタリアンのお店なんて敷居が高くて入れない」
「どちらかと言えばうどん好きのほうで、そば屋はなんとなく敷居が高い」
「オペラにも行ってみたいけど、なんだか敷居が高そうで」
最近、こんな「敷居が高い」を目にする機会が多くなりました。「苦手、億劫、場違い、気が使えそうで面倒、敬遠したい」、などと言いたい場合に使われるようです。辞書の語釈とは明らかに違う用法です。
ほんらいは、「(借りた金をまだ返していない、頼まれた用事をまだ果たしていな、などの)不義理があってその家に行きにくい」という意味ですね。「不義理さえなければ容易にまたげる敷居が、それあるがためにまたぐことができない」ということでしょう。
「ハードルが高い」というのもあって、こちらは「乗り越えるべき障害の程度が高い」ときに使いますね。陸上競技のハードルからできたことば。困難を克服するための実力がまだ十分でなく、トライしても越えることがむずかしい場合などに使う。
「敷居が高い」は、いくぶんかは、この「ハードルが高い」と混線したことによる用法かもしれません。
今のところは誤用と言うべき、この「敷居が高い」の用法ですが、意味の拡大は止めることができないほどなので、いずれ、正用法に収まるものと見られます。
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日本語入力
最初の日本語ワードプロセッサJW-10という機械が発売されたのは、1978年9月26日なのだそうです。9月26日は、ですから「ワープロの日」なんですって。当時、東芝にいらした森健一先生(現在は東京理科大学教授)が(おそらく)研究のチームリーダーでした。この先生もノーベル賞候補にあがっても少しも不思議ではない。2006年に、文化功労者に選ばれました。
そのワープロは発売当時630万円(!!)だったそうです。その後、続々とワープロ専用機というものが発売になり、文章を書くツールとしてたちまち普及しました。ルポ、オアシス、文豪、書院などの名前はもうみんな忘れてしまいました。中古機販売サイトで見つけてメモしたところです。今では、ワープロ専用機を使う人はほとんど見かけません。ほぼ全員、パソコンのワープロ(一太郎とかワードとか)で、日本語を書いているはずです。
パソコンのなかで何がどうなって日本語になるのかはまったく理解を越えます。仕組みとして、MS-IME とか、ATOK とかいうものがあるのは知っていました。前者はワードの、後者は一太郎の変換ソフトですね。ATOK の K は、「かな漢字変換」の頭文字。
たいていの人は、ローマ字で入力して、変換候補をスペースキーで選んでエンターを押して決定しているはずです。私もずっとそうしてきました。
ところで、ケータイでメールを打っている人には普通らしいのですが(私のケータイはもうメールの機能がなくなっちゃったので、私はここしばらくやっていないので打ち方を忘れました)、「学習機能」が発達していて、直近に入力した単語(文字列)が候補の最初に出てきて、それで決定していくのだそうですね。パソコンのワープロでもできるらしいけれど、じつは入力は、MIFESというエディタ・ソフトでやって、印刷する際に、ワードや、一太郎に流し込むようにしています。
この学習機能を全面的に取り入れた日本語変換ソフトが、富士通から出ていた Japanist というもの。ビックカメラで4千円といくらかで買ってきて入れて見ました。MIFES で入力するのも前よりラクになりました。使い勝手をためしてみて、また報告しますね。
【11月2日付記】メールの機能は付いていました。これまで、ケータイにメールを下さった方は、同じアドレスですから、どうぞお送りくださいね。
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内田光子
この人のCDのジャケットには、たいてい演奏中の写真がデザインされています。眉を八の字にして、トランス状態に陥ったかのような表情を捉えたシーンが多い。「表紙で本の中身を判断してはいけない」という意味の諺がありますが、それを思い出してしまって、敬遠するときもありました。この全集は、ピアノの黒鍵を主にして、ボカして写した写真に、(ほとんどが白抜きの)文字をあしらってあるだけなので、彼女のアルバムとしては、見た目のすっきりしたものです。
内田光子は、コンサートのアンコール(の最後)には、いつもモーツァルトのピアノ・ソナタ15番の第2楽章を弾いてしまうのだそうです(この曲の第1楽章は「ドーミソ シードレド ラーソドソーファーミ」と始まる、ピアノを習い初めた人もよく弾く曲)。下に YouTube の動画を貼り付けておきます。この人のモーツァルトのピアノ協奏曲第20番も、多くの聴衆をとりこにした名演があるそうです。貼り付けた YouTube の近くに、サイモン・ラトルが指揮したそれが出てきます。
そこに、内田光子のアップした画像が何度も出てきます。「入魂」ということはこれを指すのでしょうね。本当に、この曲の世界に入り込んでいくさまが見られます。オーケストラにあわせてなにごとか話しているかのように口を動かしているのが分かります。そういう一瞬をとらえたのが、あの、CDジャケットの写真なのでした。
それにしても、このアンダンテの美しさはたとえようもありませんね。