ぴょんぴょん舎の冷麺
出張で盛岡に行くという方が、冷麺の旨い店を知りたいとおっしゃるので、「ぴょんぴょん舎」をお教えしました。前に、盛岡に行ったときに食べて滅法うまかったのを覚えていたからです。その後、駅前の別のお店を、盛岡在住の親戚に教わって、行って食べました。市民の評判は、ぴょんぴょん舎よりもその店の方が高い、ということでしたから、期待が大きすぎたのかもしれません。感動するほど旨いという味でもなかった。
出張から帰ってきたその方が、うれしいことに、ぴょんぴょん舎の冷麺の真空パック入りを、おみやげにくださいました。今日は、12月の気温だとかで、たくさん着込まないと寒いくらいの陽気ですが、せっかくのおみやげなので、お昼はそれにしました。
酢と煎りゴマの入った小さな袋、厚手のアルミホイルみたいなのに入ったスープ、キムチ(大根キムチも)の袋、それに麺。麺をゆでて、冷水で絞め、ドバっとスープ(と酢)をかけて、キムチとゴマを載せて食す。イロケがないので、洋梨(ラ・フランス)を4半分、ローマから送ってもらったプロシュート(生ハム)をのせました。
盛岡のぴょんぴょん舎で食べたのは、6月だったので、たしかスイカが具として載っていたような気がします(ゆで卵の半身も)。もともとは梨をのせたものらしい。梨の甘みと、(キムチの汁と混じった)スープのコクとが、じつにうまい具合に調和して、久しぶりに、おいしい冷麺をいただきました。
東京でも、銀座にぴょんぴょん舎の支店があって、いつも行列ができています。また、歌舞伎座の向かいに岩手の物産を売る店がありますが、そこでも、手にいれられます。もちろん、別銘柄の冷麺も置いてありました。
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D番号
モーツァルトの作品には、ケッヘル何番と、番号がついています。最晩年の『クラリネット協奏曲』はK622、『レクイエム』はK626という具合。ケッヘルという研究者が19世紀末に番号をつけました。その後研究が進んで、若干数字が移動することがあり、その場合は、二つの番号が併記されたりしています。
シューベルトの場合は、ドイチュという学者が20世紀になってから整理した、ドイチュ番号がついている。小品が多く、未発表の作品なども整理されて、D990(!)まであります。実際の曲数は1000を越えるのだそうです。「野ばら」はD257、「アヴェ・マリア」はD839というふうになる。
「四つの即興曲」というピアノの曲集が2種あって、それぞれD899とD935番。このところ、ヴィルヘルム・ケンプ(Wilhelm Kempff)のCDを聞いています。骨格がきちんとしているという印象の演奏で、心が洗われるようです。内田光子も、いまや世界で一二をあらそう人気のシューベルト弾きですが、その、「即興曲集」も聞き出しました。たいてい、1枚のCDに二つの作品が入っています。899番の第2曲など、ラヴェルの「水のたわむれ」の先駆かと思わせる華麗さです。
もちろん、シューベルトの歌曲も大好きです。歌曲集『冬の旅』(D911ですが、番号は作品検索の際の手がかりにすることが多いので、この場合は、番号をつけるとうるさい感じになります)の、ハンス・ホッター盤、フィッシャー=ディースカウ盤とも、よく聞きます。ペーター・シュライヤーの『白鳥の歌』も。
最近、サワダさんのすすめで、「夕映えの中で;Im Abendrot」(D799、こういう場合に便利なのです、この番号が)を聞きました。マーガレット・プライスというウェールズ生まれのソプラノが歌った、シューベルト歌曲集,全部で12曲を収めていますが、その中の1曲。これが、ちょっと類を見ないほどの名唱です。(リヒャルト・シュトラウスの曲集『四つの最後の歌』にも、同じタイトルの名曲があるので、これからお探しになる方は、お間違えないように。シュトラウスの曲をプライスもレコーディングしているので、なおのこと。)他の11曲も、数多いシューベルトの歌曲から、バランスよく選曲されたもののようで、みな、耳の幸福を約束するものです。(YouTube でさがしても、残念ながらフィッシャー=ディースカウの歌うものしか見つけられません。バリトンで聞くと、別の曲かと思うくらい感じが違います。)
シューベルト(1797-1828)は、32歳になるちょっと前に亡くなったのですね。梅毒で死んだ、というのが定説でしたが、ウィキペディアによると、死因は腸チフスなんですって。
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できそこないの男たち
『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)をはじめ、『プリオン説はほんとうか?』(講談社ブルーバックス)、『もう牛を食べても安心か』(文春新書)など、分子生物学の最前線の成果を、素人が読んでも(と言っても注意深く読まないといけませんが)分かるように書くことのできる、稀有の学者、福岡伸一教授の新しい新書のタイトルが『できそこないの男たち』(光文社新書)です。
「できそこないの」の「の」は、いわゆる同格の「の」です。すなわち、「できそこないである男」という意味。「いちにんまえの男」がどこかにいて、「あなた、あなたはできそこないなんですよ」、と言われているのではありません(からご安心ください、とも言えないけれど)。何ができそこなうと「男」になるか、といえば、もちろん「女」です。アダムの肋骨からイブができた、というのは、生物学的には間違いである。ボーボワールの『第二の性』の有名なテーゼ、「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」というのも、したがって大きな間違いだ、と説かれる。「人は男に生まれるのではない、男になるのだ」。
ヒトの場合のみならず、アリマキも、マウスも、牛も、要するに生命の基本仕様は女である、ということが有無を言わせない行論で展開されます。アリマキについて書かれた数ページなぞ、抒情的な美しさに満ちていると言ってもいいくらい。
男は、オシッコと精子とが、同じ管から出てくるわけですが、それはなぜか。神様が設計を間違えたのでもなんでもないんですって。基本仕様のカスタマイズの過程で、そうならざるをえなかったということを、初めて知りました。「君は昨日読んだ本が、人生の中で一番面白かったって、何度も言うんだね」と何度も言われたことがあります。今日も言わなければなりません。まったく知的刺激に満ちた1冊です。「弱きもの、汝の名は男なり」という章もあります。じつは、いまそこを読んでいる途中なのですが、おもしろさのあまり、まず、知らせなくちゃと思った次第です。
週刊文春でも毎週コラムを書いてらっしゃいますが、この先生、ハードサイエンティストにしておくのがもったいないくらい、文章が上手です。
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公侯伯子男
貴族の爵位は、現代では忘れられていますが、戦前までは日本にもちゃんとあったのですね。公侯伯子男(こうこうはくしだん)と呼び習わしました。この呼称は、明治になって、西洋の貴族制度にならって同じように5段階にしたようです。
昨日書いた、ロベルト・デヴェリューに、ノッテインガム公爵とエセックス伯爵が出てきました。二人は友だち同士(イタリア語で「アミーコ」と呼びかけていました)ですが、片方はイングランドの大臣で、一方はアイルランドへ派遣された軍人ですから、位に大きな違いがありました。
日本語と英語との対照はこうなります。
公爵 Duke(デューク)
侯爵 Marquess(マークウェス)
伯爵 Earl(アール)
子爵 Viscount(ヴァイカウント)
男爵 Baron(バロン)
Viscount は、「s を読まないよう発音に注意しましょう」という注が付く単語です。ところが、イタリア語では、ヴィスコンテと s を読みますね。あの有名な映画監督ルキノ・ヴィスコンティは名前からすると、子爵家の出なのでしょうね。マルキ・ド・サドというフランスの作家も、れっきとした侯爵だったようです。
ついでに言えば、伯爵の称号のみ、英語と、仏・伊語とが語形が違います。伯爵は、フランス語で Comte(コント)、イタリア語で Conte (コンテ)になる。
社会学の祖と呼ばれるオーギュスト・コントは、この綴りですが、爵位があったか否かは知りません。コントの先生であるサン・シモンは、コント・ド・サン・シモンですから、立派な伯爵です。いずれにしても、面倒なことです。
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ロベルト・デヴェリュー公演
待ちに待った『ロベルト・デヴェリュー』を聞いてきました。10月31日、東京文化会館。4階R2列7番。3万1千円(!)の席。1枚でこんなにするチケットを買ったのは生まれて初めてです。で、モトは取れたか。十分に取れました。
前にも書いたように(→こちら
)、女王エリザベッタ、そのお側役サラ、サラの夫で国会議員大臣ノッティンガム公爵、そして、反逆罪で告発されているエセックス伯爵ロベルト・デヴェリュー、この4人が運命に翻弄されて悲劇的結末へいたる、ちょっと大時代な芝居です。このたびの公演は、演奏会形式というもので、オーケストラも舞台に上がり、その後ろに合唱団、歌手たちは、指揮者を横に見ながら歌います。ウィーンの国立歌劇場の引越し公演です。ウィーンの舞台を見た人の書いたものを読むと、大道具が大スケールで、そのまま再現できる舞台は東京では見つからず、やむなく演奏会形式にしたのだそうです。
エリザベッタ: エディタ・グルベローヴァ(ソプラノ)
サラ: ナディア・クラステヴァ(メゾ・ソプラノ)
ノッティンガム公爵: ロベルト・フロンターリ(バリトン)
ロベルト: ホセ・ブロス(テノール)
オーケストラも合唱団も、みなウィーンのシュターツ・オーパーのメンバーです。指揮者は、エディタの旦那さん、フリードリッヒ・ハイダー。これだけの大人数を迎えたのですから、値段の高いのはやむをえません。なんだか、値段ばかり言ってるなあ。
この演目で、現在望みうる最強の面子ではありますまいか。グルベローヴァは、ことし61歳になったはず。昭和で言えば21年生まれですよ。この人の声を聞くことができるだけでも、ここまで生きてきてよかったと思いますね。「グルベローヴァの歌には大きな空間が必要だ」ということをニール・リショイという評論家が書いていますが、4階の席は、そのためにも良い席でした。大ホールのすみずみまで響き通る、ピアニッシモ、そこからクレッシェンドしてフォルティッシモにいたるダイナミズムには、このたびもまたしびれました。
テナーのホセ・ブロスの声も特筆すべきもの。硬質の、乾いた声ですが、おそろしく安定した美声です。6月にミラノで聞いたアルフレードよりぐんと出来がいいように感じました。
このオペラは、サラが悲劇の鍵を握っていますが、クラステヴァという初めて聞いた歌手も、もう文句なしです。
最後に(しかし最小にでなく)、ノッテインガム公爵のフロンターリという歌手の表現力にも感嘆しました。バリトンにしては苦しいかもしれない音域(しかも伸ばす)があります。持っているDVDの歌手は、その音が少しかすれますが、フロンターリは、いともラクラクとその声を出し、なおかつ美しく歌い上げました。
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