47人
たまたまチャンネルをムービープラス(ケーブルテレビ)というのに合わせたら、『RONIN』という映画を放映していました。1998年の作品。ロバート・デ・ニーロとジャン・レノが組んで、アブナイ仕事を引き受けるやつ。仕事に応じてチームを組み、終わったら解散する。主人を持たない侍だから、「浪人」という日本語をタイトルにしたようですが、浪人というのは、主家が消滅したりして失業した侍のことでしょうから、自分で仕事を選ぶ、いわば「私的傭兵」のような、この映画の作中人物たちとは、ちょっとそぐわないネーミングのような気がしました。
通して全部見たのではなく、ときどき、別のことをしたり、電話がかかってきたりしたので、肝心のお話はよく分かっていません。裏切りの連続と、殺しと、カーチェースが繰り返される、暴力的な映画であるのは分かった。
腹に銃弾を受けた、ロバート・デ・ニーロが、フランス人の情報屋(?)の家で、ジャン・レノに素人手術をしてもらって命が助かります。その、情報屋が、趣味で、高さ10センチほどの日本の武士の人形を作り、模型の屋敷の前庭に一体ずつ、刀を抜いたサムライを並べるシーンが出てきました。傷口が癒えてガウンをまとったデ・ニーロが、その作業をしている部屋にやってきます。そこで、『忠臣蔵』の仇討ちのエピソードを教えてもらう。3年、隠忍自重して、ついに「リベンジ」がかない、その後、47人のサムライは「自殺したのだ」と告げる。
日本人にはおなじみの話ですが、英語で語られると、違ったおもむきがありました。
今日発売の『週刊朝日』で、脚本家の橋本忍氏がインタビューに応じています(昭和からの遺言)。黒澤明監督の名作の多くの脚本を手がけ、『私は貝になりたい』の作者でもあります。いま90歳。その橋本さんの父上は、戦前、兵庫県で芝居公演の勧進元のようなことをしていたことがあるそうです。あるとき、『忠臣蔵』の興行を売りにきた一座があった。そのときの答え。「いや、忠臣蔵はやめとくわ。一人で47人を斬る話なら面白いけど、いい若い衆が47人かかって年寄りの爺いをひとり斬って何が面白いのか。」タイミングよく男っぽい発言にめぐり合ったものです。
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ハガキ通信
今は、ケータイが全盛で、若い人たちばかりではなく、中高年もメールのやりとりをケータイでする時代です。パソコンでするイー・メールも普通の通信手段になりました。年賀状はさすがにまだ廃れませんが、email の年賀状もボツボツ届きはじめました。宛名などもパソコンのワープロを使って印刷する人のほうが多いくらいです。
ほんの10年ほどのあいだに、手紙の書き方が劇的に変わってしまいました。いま、80歳に近い年齢の方々で、いまさらパソコンのキーボードを覚えるのも面倒だ、という方は、手書きの手紙をくださることがあります。私の母親は90歳になりますが、去年からだったか、ケータイでメールを出すことを覚え、孫たちとそれでやりとりしているそうです。そういう年寄りもいることはいます。
泉井久之助(いずい・ひさのすけ)という1903年生まれの言語学者がいらっしゃいました。この先生は、1983年にお亡くなりになりましたが、くださる書状は、ほぼ90%が手書きのハガキでした。長い用事のときは、2通に分けてお送りくださった。1枚のハガキに、小さな文字でびっしり書き込まれていました。書き直しも消しもなんにもないもので、用むきは、はっきり伝わる見事なハガキでしたね。
今でも、もっぱらハガキで手紙をくださる先生がいらっしゃいます。野球の話、人物月旦、政治向きの話題、ときに応じて内容は多岐にわたりますが、この先生は、挿入語句がバルーン(吹き出しのように)で入ったりしますが、文字自体の書き直しということはまずありません。
わずか50円で、日本全国どこにでも手紙を届けられる仕組みというのは、考えてみるとじつにすぐれたシステムです。前島密(ひそか)が、日本で最初に郵便事業を始めたのだったと習ったものですが、当初から一律の料金だったはずです。私どもがハガキを使い始めたころは、たしか1枚5円でした。
年賀状のあて名書きは、まだ手書きで書いています。前ならハガキで通信していた友人・知人たちは、みんなメール・アドレスを交換しているので、手書きの手紙を書く機会がうんと減りました。いざ万年筆で書こうとすると、漢字の書き方を忘れてしまっていることが多い。日記を書けばいいのでしょうが、それだってこうしてブログというものになってしまいました。
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エディット・マティス
ソプラノの知的な透明さということでは、このエディット・マティス(Edith Mathis, 1938- )が断然すぐれていると思います。これは、1986年の(おそらく)東京公演の録画。伴奏は小林道夫。ようやくYouTube で見つけました。
マティスは、『フィガロの結婚』のケルビーノ(東京で演じたときのCDがあります)、スザンナ(カール・ベーム指揮のCD;私の愛してやまない一枚)、どちらも素敵な歌声です。オペラ歌手としても名声はたしかなものですが、宗教曲を歌わせたら右に出るものがないくらい上手です。モーツァルトの『レクイエム』(ベーム指揮)もなんども聞いていますが、「レコルダーレ」や「ベネディクティス」のソプラノを聴いていると、夢見心地がしてくるようです。
ブラームスの『ドイツ・レクイエム』もすばらしいものでした。このビデオでもお分かりのとおり、歌曲もみんな素敵です。シューベルトのリート集もCDがあります。
今は、現役をしりぞいて、ウィーンで音楽大学の先生をしているはずです。窓の外からでも、授業風景を覗き見したくなります。スイスのルツェルン出身のようです。

キオスク
毎日乗車するJRの駅ホームの売店(キオスクという名前になって久しい)が、最近店じまいしてしまいました。前は改札口の前にもあったのが、そこは拡張して2年くらい前だったか、「ニューデイズ」というコンビニに変わりました。
週刊誌や『文藝春秋』などは、キオスクで買っていたので、なんだか不便になりました。ニューデイズでも雑誌は売っていますから、そこで買えばいいようなものですが、レジが二つもあるのに、客の行列が短くならない。以前のお店で、おばさんが一人で切り盛りしていたときのほうが、客捌きが手早かったように思えて仕方がありません。キオスクもニューデイズも、会社は同じだそうですから、営業方針の変更なのでしょう。売り子のおばさんたちが退職してしまうと、応募してくる人がなくなって、やむなく店を閉めてしまう、という記事を読みましたが、本当かしら。たしかに、駅のコンビニにいる店員さんは若い人が多いけれど。
キオスクは、売店の機能としては画期的なものだったことが今にして分かります。雑誌以外にそこで買ったものを思い出しても、タバコ、のど飴、ジュース、のし袋、電池、ティッシュ、マスク、など、たくさんある。みんなコンビニにもあるから、そっちで買ってくれ、ということなのでしょうね。不便だという声がJRには届いていないのか。
キオスクというのは、英語 kiosk から来たもののようです。その前はフランス語 kiosque、さらに前はトルコ語 kioshk、さらにさらに前はペルシャ語 kushuk。もともとの意味(ペルシャ語、トルコ語)は「宮殿」。それが、「あずまや」になり、「可動式建物」になって、「売店」をも指すようになったものだそうです。
「キオスク ランボオ」というつながりをかすかに記憶していますが、いまネットで調べたら、それは「キオスクにランボオ」という語句で、富永太郎の詩の書き出しでした。詩全体も出てきますが、読んだ覚えのないものでした。誰かに聞いて、その響きだけ記憶に残ったらしい。
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太宰治
来年(2009)は太宰治生誕100年にあたり、またもや太宰ブームが到来しているのだそうです。「まるで自分のことが書いてあるようです」と、大学生の男子がテレビのインタビューでこたえていました。五所川原市金木町の「斜陽館 」も、観光客が増えているらしい。
国語の教科書で「走れメロス」を読んだ人は多いはずです。今も高校の教科書に採用されているかしら。私はたしか中学校の国語の教科書で教わった記憶があります。58歳くらいのとき、必要があって「走れメロス」を読んだのですが、少年のころの感激はなにもよみがえってきませんでした。彼の作品のなかでは、めずらしく文章が雑なのです。
太宰の作品は私も若い頃たくさん読みました。「ヴィヨンの妻」「駆け込み訴え」「女生徒」「人間失格」「斜陽」などなど。「如是我聞(にょぜがもん)」というエッセイ集のようなものもありました。芥川賞が欲しくて、取れなくて、その恨みつらみをメンメンと掻き口説いていたはずです。
一番すきな作品は「津軽」です。一種の紀行文。津島修治(が本名)さんが、久しぶりに故郷に帰る。子どものころ世話をしてもらった、タケさんという女中さんに何年ぶりかで再会するシーンは、静かな感動を与えます。このタケさんは、「坊ちゃん」の清(きよ)さんと並ぶ、日本文学史上の代表的「女中さん」と言うべきものです。新潮文庫ほかで読むことができます。
猪瀬直樹『ピカレスク―太宰治伝』(文春文庫)を読むと、なんてイヤな奴だろうとあきれますが、 作家は作品が面白ければいいわけです。「津軽」はおととしだかに再読しましたが、やっぱり面白かった。爆笑するほかない、津軽風過剰接待のシーンが出てきます。
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