良識
デカルトの『方法序説』という、パンフレットほどの規模の本の冒頭に、
良識はもっとも公平に分配されている
Le bon sens est le mieux partagee
とあります。「ボン・サンス bon sens」が「良識」にあたり、岩波文庫の翻訳でもそうなっています。
日本語で「良識」と言えば、「社会的に認められた健全な判断力」のことをさしますね。「良識ある行動」「良識ある社会人」など。それが欠如していると見なすと、「良識を疑う」などと言います。
デカルトは、日本語の意味で言う「良識」が、誰にでも備わっている、と言ったのでしょうか? フランス人にだって、「良識を疑われる」人間はいくらでもいるはずです。そこで、「ボン・サンス」はどうやら「良識」と違うものではないか、と考えついた方がいらっしゃいます。哲学者の木田元先生です。
何十年か考え続けて、やっと分かったと書いた(対談でお話しになった)のが、今から10年ほど前のことでした。
ひとくちで言えば、人間一人一人(の感性や頭脳)は、神様の出張所のようなものだ、ということのようです。誰でも、神の子であるから、よい判断力の芽を備えているのだ、というのです。それなら、私にも分かったような気がします。
若いころにこの一節を読んで、ホントかなあと思った記憶があります。私にしてみても、何十年かたって、ようやく腑に落ちる解釈を教えてもらって、ひと安心というところでした。
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レル敬語
電車で見かけた週刊誌の吊り広告に、こんな見出しがありました。
天皇陛下と雅子さま、傷つかれたのはどっち?
「傷つく」を敬語で言おうとすればこれ以外に言いようがないでしょうが、一見してヘンだと感じました。
一般には「レル敬語」というものですが、最近これが多用されていて、私などには違和感があります。
走る:走られる お走りになる
歩く:歩かれる お歩きになる
書く:書かれる お書きになる
読む:読まれる お読みになる
「お~になる」という敬語の形式のほうが、敬度が高いと感じる人が多いはずです。それが高いと、敬語を使ったことによって一種のよそよそしさが伴います。おそらくそれを嫌って「ラレル・レル」で親近感と敬意とを一緒に表現しようとしたものでしょう。
ただ、なんでも「レル敬語」で済ましていいか、と言えばそうではないと言わざるをえません。
今年はどちらにご旅行に行かれたんですか?
と聞かれると、反射的に「俺はイカレてなんかいない」と思ってしまいます。
天皇陛下と雅子さまについて表現する場合の敬語は、敬意の度合いが高くてもかまわないはずですが、さっきの表現を、
*お傷つきになったのはどっち?
とは言えませんね。私が編集デスクなら「傷ついたのはどっち?」と敬語なしで表記しそうな気がします。
レル敬語は、受身と同じ形になるので、誤解のもとになります。
その話を彼女にしたの? 泣かれたでしょう。
などは、泣いたのはたしかに彼女でしょうが、尊敬よりも「迷惑の受身」の意味のほうが強いように感じます。
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今年のミステリ
年々ミステリ小説を読むことが少なくなりました。今年も、読んだと言えるのはわずかに2冊です。
フレデリック・フォーサイス『アフガンの男』(上・下、角川書店)、トム・ロブ スミス『チャイルド44』(上・下、新潮文庫)。どちらも面白いことはおもしろかった。
『アフガンの男』は、ニューヨークからロンドンへ向かう「クイーンエリザベス」号で、G8だかの会議が予定されている、その客船をそっくり爆破してしまう計画をアルカイダのような組織が立てていて、それを、どうやって阻止するか、がポイントになっていました。パシュトゥーン語(だと思う。アフガニスタンの言語)を自由にあやつり、顔色もアフガン人によく似たイギリス人が大活躍します。船を目標にするための武器は、別の船を使います。自爆船。このカモフラージュの工夫が世界中の港や航路を使って展開されます。
生まれた村の住民が、一人残らず殺されてしまって、たまたま村を離れていて命が助かったアフガン人の若者が重要な役目をにないます。
『チャイルド44』は、旧ソ連の、飢餓状況におちいった寒村で食糧をどうやって調達するか、というところから話が始まります。雪の平原を猫が1匹走り去る。その猫を(捉えて食うために!)少年が追いかける。ところが、その少年が逆に袋をかぶせられてつかまってしまいます。人間も「食糧として」つかまることもあるような状況がプロローグとして出てきました。
戦後になって、何人かの少年・少女たちが奇妙な殺され方をする、その捜査にたずさわる警官が、気まずくなった妻と協力せざるをえない状況に追い込まれて事件の解決にあたろうとします。ちょっと陰惨な話の連続ですが、ストーリーとしては、プロローグの話にきれいにつながって終わります。ものすごく手のこんだ小説でしたが、作者の年齢が29歳だと聞いて、びっくりしました。よっぽどたくさんの先行ミステリーを読み込んだ、40代後半くらいの「新人」かと思っていましたから。おそるべき才筆の登場です。
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デュエット
井上陽水と玉置浩二の『夏の終わりのハーモニー』というのは、すばらしく上手な歌い手が、きれいにハモって盛り上がる、Jポップの名曲というものですが、これは素人が歌うには難しすぎる歌でした。
和音を作るのでないとデュエットの気分がでないので、自分で歌うときは、3度音程の簡単な曲『白いブランコ』や『ちいさい秋見つけた』などをよく歌ったものです。
安田祥子・由紀さおり姉妹が、童謡を中心にした、ハモるデュエットを聞かせますね。
最近のカラオケのデュエット・レパートリーを見ると、私のしらない歌ばかりですが(パフィとか)、数はずいぶん増えているようです。
オペラのデュエットは、数知れぬほど名曲があります。バリトンとソプラノ(リゴレット、魔笛、ドン・ジョヴァンニ、など)、バリトンとバス(ルチア、など)、組み合わせはいろいろです。ヒロインとヒーローを演じる、ソプラノとテナーの組み合わせがどうしたって多くなります(椿姫、ドン・パスクワーレなど)。
デュエットの極めつけといえば、私にとっては、『フィガロの結婚』のソプラノとソプラノの「手紙の二重唱」ということになります。それこそ素人でも歌える旋律が重なるだけなのに、ハーモニーの美しいことといったらありません。
回文
言葉遊びの一ジャンルに「回文」というものがあります。子どものころにどなたも一度はやったことがあるのではないでしょうか。
しんぶんし(新聞紙)
たけやぶやけた(竹やぶ焼けた)
なんていうのから始めたものでした。
1980年代に回文作家として活躍したのが土屋耕一という人です。『軽い機敏な仔猫何匹いるか』という、タイトルも回文(かるい きびんな こねこ なんびき いるか)の回文集を出しました。角川文庫に入ったけれど、いまは絶版のようです。アマゾンで見たら、この文庫本がなんと1900円からになっています。予想通り、ネット上の回文サイトもいくつかあるようです。
日本では古くから、この遊びがあったようです。次のものが長さでは有名な歌です。多少、無理がありますが。
長き夜の遠の眠りの皆目覚め 波乗り船の音の良きかな
(なかきよの とおのねふりの みなめさめ
なみのりふねの おとのよきかな)
英語にももちろんありますね。 pallindrome (パリンドローム)という。フランス語(palindrome)から入った単語ですから、無論フランス語にもある。
Madam, I'm Adam. (マダム、私はアダムです。)
Able was I, ere I saw Elba.
(エルバ島を見る前は私はなんでもできた。)
2番目は、ナポレオンのことを揶揄したもの。
フランス語もひとつ。
Esope repose. (イソップが休んでいる。)
【付記】IIZUKA T さんからコメントをいただきました。こちら
もどうぞごらんください。
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