パパ・パパゲーノ -36ページ目

記憶

 池谷裕二(いけがやゆうじ)・糸井重里対談『海馬』(新潮文庫)は、記憶をつかさどる脳の中の器官「海馬」をめぐって、池谷先生(と言ってもまだおそらく30代)から、糸井おじさんが講義を受けるかたちで進行します。糸井さんの生徒役が上手なので、先生も乗って話している様子が伝わります。


 海馬が駄目になると、記憶が取り出せなくなるのだそうです。アルツハイマー病が一番多く発見される部位でもあるという。ところが、海馬はたしかに記憶を差配する器官ではあるが、記憶の貯蔵庫ではないらしい。脳の他のいろいろな場所に記憶の入れものがあって、そこにしまったり、そこから取り出したりする役目を海馬が担っているのだという。銀行の窓口のようなものかと理解しました。倉庫はそばになくてもいいし、同じ建物(この場合は部位)に備えつけてなくてもいいということのようです。つまり、記憶が、実際はどこにどんなふうに貯蔵されているかは、まだまだ分からないということです。


 ここからは私の思いつきです。


 自分が思い出せる最初の出来事は何であるか、という、よくある質問があります。三島由紀夫は、産湯をつかったタライのふちを覚えていると書いたことがあったと思います。そういう人もいるでしょうが、たいていは、4歳くらいに怪我をしたとか、熱を出したとか、というあたりから記憶が始まるのではないでしょうか。


 私はいま64歳ですから、濃淡の差はあれ、ほぼ60年分の記憶が、脳のどこかに納まっていることになります。当り前のことですが、大部分はあとかたもなく忘れています。おととい昼飯に何を食べたかさえ最早忘れる年になりました。


 しかし、鮮明に思い出せる記憶は、50年前のものであれ、10年前のものであれ、場所・光景・音・匂いなど、ほぼ同じ強さでよみがえります。だから恥ずかしい記憶が、前触れもなくよみがえった時など「ワッ」と叫びだしたくなるのです。脳の中のどこだかは分かりませんが、1ヶ所にまとまって折りたたみ状になっているのではあるまいか。あるいは、平べったいソロバン玉のようなものが何個も1本の棒に重なっているような感じです。記憶の倉庫からその玉がはじけ飛んで出てくるようなイメージです。


ガーン        ガーン        ガーン        ガーン        ガーン

シャドー81

 1977年に、単行本ではなく、いきなり新潮文庫で刊行されて、その年の『週刊文春』ミステリ1位に輝いた、ルシアン・ネイハム『シャドー81』(81は英語読みにしてエイティー・ワンと呼んでいた)が、去年秋に、ハヤカワ文庫(NV1180)から復刊されました。訳者は新潮文庫のときと同じ中野圭二という人。もう30年も前に読んだので、細部はみんな忘れていました。再読してみて、うなるしかない傑作であることを再認識しました。


 ロサンゼルスからハワイへ向けて飛び立ったボーイング747がハイジャックされる。ハイジャッカーは機内にはいない。なんとジェット戦闘機で、ジャンボのすぐ後方を飛んでいるのです。法外な要求(2千万ドル相当の金の延べ棒を指定した場所に運べ)を突きつけて、聞かなければ、200人以上の乗員・乗客もろともジャンボを爆撃すると脅します。


 管制塔、軍、FBI、ホワイトハウスあげて、てんやわんやの対応を迫られます。時代は、パリでベトナム戦争の和平会議がまとまりそうになってまとまらず、何度目かの北爆(北ベトナム爆撃)が繰り返されたころ。


 戦闘機をどこでどうやって奪い、それをカリフォルニアの近くまで、レーダーにとらえられることなく飛ばすにはどうするか、知恵をしぼって計画したらしい下手人は一人か二人か、もっと多いか。480ページほどの訳書の先を読むのが待ちきれなくなる面白さです。こういう本を英語で page turner (ページ・ターナー:ページをめくらせるようなしろもの)と呼ぶようです。


 ネイハムはこの1作を残しただけで、1983年に亡くなったそうです。ケン・フォレットやブライアン・フリーマントルやジャック・ヒギンズにもヒケをとらない書き手だと、次作を期待して待っていたのですが残念なことでした。


グッド!        グッド!        グッド!        グッド!        グッド!


 


 

西江雅之

 西江雅之先生(1937-)は、長く早稲田大学で文化人類学を教えていらっしゃいました。アフリカの言語(たしか「スワヒリ語辞典」を独力で作ったはず)にくわしい方ですが、何語であれ短時間に習得してしまうという、伝説的な才能の持ち主として知られています。
 
 エッセイ集『花のある遠景』(初版、せりか書房、1975、その後福武文庫、旺文社文庫など)で示したみずみずしい、透明感のある文章が強く印象に残っています。去年も新刊のエッセイ集が出ました。
 
 吉行淳之介を聞き手にした『サルの檻、ヒトの檻―文化人類学講義』(朝日出版社、1980)も忘れがたい本でした。
 
 2冊とも、先年亡くなった
中野幹隆 さんの編集です。
 
 『サルの檻』の冒頭、西江先生はこういう話をします。「食べられるものと食べ物とは違いますね。」吉行さんが身を乗り出すと、「まず、吉行さんも食べれば食べられるけれど食べ物ではありません。ここに同席している速記者も食べられるけれど食べ物ではありません」と、いきなり、人肉は食える、と言って驚かします。そして、何十年か前に、エチオピアで起きた飢饉の話に移る。当時の(今でもそうなのかもしれませんが)エチオピア人にとって、魚は食べ物ではなかったらしい。池や沼に、魚がウジャウジャ泳いでいるのに、池のほとりで何人もの餓死者が出たのだそうです。この本どこかで文庫にしないかしら。
 
 『マチョ・イネのアフリカ日記』(新潮文庫)は、アフリカ(サハラ砂漠?)を、売春婦ふたりと旅行する話でした。頼もしい用心棒役に徹したようで、イロケ方面のことは何ひとつ出て来なかったと思います。


 『ヒトかサルかと問われても』(読売新聞社、1998)というのは、自伝的な作品。お会いして話をしたことが何度かありますが、ごく穏やかな話し方をする、ものすごく物知りのおじさんでしたが、この自伝を読むと、東京に生まれた人とは思えないほど野生的な人生を歩んできたことが分かります。
 
 私は中学1年のとき、NHKの「基礎英語」を聞いて勉強したのですが、そのときの講師・西江定(さだむ)先生は、雅之先生の父上です。


パンダ        パンダ        パンダ        パンダ        パンダ

リテラシー

 最近は「コンピュータ・リテラシー」とか「情報リテラシー」とか、という組み合わせを目にすることが多くなりました。「リテラシー(literacy)」は、「読み書きする能力」のことを指します。「識字率」は英語で言えばリテラシー・レイトということになる。この能力を欠く人を、昔の言い方では「文盲(もんもう)」と呼びました。今では、使ってはいけない言葉になってしまったらしい。読めないケースの場合にこう言いました。読めなければ書くことはまずできません。もっとも今や日本では、文字の読み書きができないという人は、まず、いませんから、文盲という語もいずれは消えていくのでしょう。


 コンピュータを使って、メールのやりとりをしたり、インターネットにアクセスして情報を得たり、音楽をダウンロードできたりする能力のことを、おおざっぱに「コンピュータ・リテラシー」と言うようです。


 もの心ついたときから、コンピュータにふれている今の子どもたちのその能力が、親の世代よりはるかに高いのは当然です。電車の中で、一列になった全員が、ケータイ(やテレビゲーム)に没頭している光景は一種異様なものに映りますけれど。


 麻生太郎首相が漢字の読み間違いをしたといってずいぶんからかわれていましたが、こちらは「読字障害」(「失読症」とも:ディスレクシア)というものではあるまいか、という指摘を読みました。他の知的能力は正常なのに、読み違えをしばしばする病気なのだそうです。アインシュタインがそうだったらしい。もうひとり歴史上の大物もそれだった、とあったはずですが、名前を失念しました。もっとも、「文盲」というのも、覚える機会がなかったためにそうなっただけで、他の知的能力に欠陥があったわけではなさそうですから、この二つの概念のどこに違いがあるのか、それはよく分かりません。


付記:まったく偶然ですが、トム・クルーズ も失読症を克服したのは、何とかいう宗教のおかげだったということを自身が明らかにしたそうです。


宇宙人        宇宙人        宇宙人        宇宙人        宇宙人

行あけ

 ワープロで、ページ設定をする際、何字何行、行間何ポという指定をしますね。どういうわけか、ワード(というワープロソフト)は、文字の大きさがポイント指定になっています。昔の文庫本の本文活字はたいていの場合8ポイントの大きさでした。


 写真植字という方式が一般的になって、今では、本を印刷するときの、文字の大きさの指定は、級数というものでやります。1級の長さが0.25ミリ、4級で1ミリ、8ポイントに相当するのが12級です。タテ・ヨコ3ミリの四角のマスに1文字が収まる大きさです。


 ついでにポイントは、大きさが一定していないらしいのですが、ざっと0.35ミリくらいが1ポイントです。印刷用語は、フランス語から入ったものが多く、活字の寸法もフランスにならったもののようです。


 さて、こうやって、1段落ごとに1行空けて書く書き方が、ブログなどでは多い。最初の字を1字下げにしない人も多い。普通の本を作るときに、行をあけるのは、前の段落と続く段落とのあいだに、断絶(論理的に、あるいは感覚的に)があることを示すための約束事のようなものです。


 ネットで拝見する、ブログやそれに対するコメントなどで、1行どころか3行も5行も開けて文を綴る人がすくなくありません。無意味な行あけは、私などには読みにくくてしょうがない。若い人たちは平気のようです。余情を感じているのかもしれません。マンガの吹き出しのようなものなのかしら。


バナナ        バナナ        バナナ        バナナ        バナナ