マダム・バタフライ
ようやく初めて『蝶々夫人』の生の舞台を見てきました。1月18日、新国立劇場。何度もDVDなどで見ているのに、目の前で進行する舞台の臨場感というのは格別です。
舞台の両脇に字幕が縦書きで出てくるのも、ひと目で歌詞の内容が把握できるので便利この上ない。日本語が読める観客にとっては思いがけない利点です。あとは、美しい歌声が切ない悲劇を盛り上げていくのに身をゆだねていればよろしい。
しかも、この公演で蝶々さんを歌った、カリーネ・ババジャニアン(Karine Babajanyan)の表現力の比類のなさは、この先長く語り継がれるだろうと、大げさに言ってみたくなるほどの出来栄えでした。
「ある晴れた日に」というアリアは、全オペラの中でも、人口に膾炙した(じんこうにかいしゃした;広く知れわたった)点では一、二をあらそう超有名曲です。長丁場を歌い続けて、ここぞという聞かせどころにこのアリアが登場します。それを、いとも切々と、情感のみずみずしさをそこなわずに歌いきりました。このアリアの終わったときにだけ、観客が途中で拍手することができるのでした。ふつうは、「ショーストッパー」(観客の拍手が自然に湧くために、ショーを途中で止めさせてしまうほどの歌い手のこと)と呼ばれるのでしょうが、なにしろ、その先の運命を、見ている客がみんな知っているわけですから、万雷の拍手でショーがストップすることはなく、「気を落とさずに、希望を捨てないでね」というような、歌手にではなくマダム・バタフライに向けられた激励の拍手のようでした。(ババジャニアンのホームページにアリアの音源
があったのでリンクしておきます。)
ピンカートンを歌ったマッシミリアーノ・ピサピア(Massimiliano Pisapia:イタリア人)の、声量の豊かさも聞きものです。劇場全体が震えるかと思えるほどのヴォリュームでした。
育てた男の子を手離す決意をして自刃の前に歌う、「子別れ」のアリアにいたって不覚にも涙が溢れ出しました。プッチーニの仕掛けに引っかかったわけですが、心地のよい涙でありました。
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池田学
残念ながら今日(1月17日)でおしまいのようですが、暮れに中目黒のギャラリーまで出かけて、池田学「予兆」という大作を見てきました。制作に2年かかったそうです。したがって、展覧会も2年ぶり。上の絵(「景色」)はネットで探してきたものですが、絵のタッチをしのぶよすがになるだけです(クリックすると別のウィンドウが開いて大きな絵になります)。実際の絵は、これは、実物を見るに如くものはありません。
「予兆」は、ギャラリーのサイト
にリンクしておきますので、そこで見てみてください。「部分」とあるとおり、見てきた私でも、巨大な原画のどの部分だったか思い出せません。横3メートルくらい、縦2メートルくらいの大きな絵でした。絵は大きいけれど、アクリル・インクというインクを細いペンにのせて、こまかい図柄が描きこまれていました。
先ごろ、朝日新聞の文化面で、他の画家2名と一緒に「現代の伊藤若冲」というふうな紹介がなされていましたが、久しぶりに「わが神は細部に宿る」という(ワールブルク研究所の)スローガンを思い出しました。
1枚の巨大な絵の中に、たくさんの物語が書き込まれているようで、おそらく、見るたびに、見る部分ごとに、違う物語を読むことになるような、そんな絵です。
池田学氏は、東京藝術大学を卒業した、今や衆目を集める期待の画家です。じつは、知人のお嬢さんが、池田氏と最近結婚しました。そのご縁もあって絵を見物に出かけたのですが、グラビアページや、グーグル・イメージで見たものとは段違いの迫力でした。これからどんな活躍をすることになるのか、おそるべき可能性を秘めた、しかし、お会いしてみると、ごくシャイな感じの、若者でした。
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観光案内としての映画
映画『ダヴィンチ・コード』は(小説もそうでしたが)、パリのルーブル博物館の地階で夜ふけに美術館長の死体が発見されるところから始まります。当日の午後、美術史の講演をしたアメリカ人ラングドン教授(トム・ハンクス)が、知らせを聞いて現場に駆けつけますが、すでに容疑者と見なされていました。警察の目をかいくぐって、車で逃走する。フランスの捜査官に扮したのがジャン・レノ。
いろいろな展開の末、大団円はロンドンのセント・ジェームズ・パーク(バッキンガム宮殿を背にして前方の、だだっ広い公園)です。
ルーブルも、セント・ジェームズも、現場撮影でしたから、行ったことのある人は、おお、あそこだあそこだ、と言いながら映画を見て、スクリーンの中にいるような錯覚を持つことができます。映画を見てから、現地におもむく人も、あのシーンはここだったのか、と確認することになります。
それの、もっとも成功した例が、『ローマの休日』でしょう。「真実の口」に、グレゴリー・ペックが手を突っ込んで、抜き出したらゲンコに握っていて、びっくりしたオードリー・ヘップバーンがペックの胸を軽く打つシーンの印象は、何十年前に見たのに、いまだに新鮮です。現地に行って見ると、どうということもないほこらみたいなところでした。それでも、この場所にあのオードリーもいたのだ、という共有感覚を味わうのは、いい気持ちのものでした。トレビの泉もスペイン階段も、この映画がなければ、今ほど観光客でごったがえすということはなかったのではないかしら。
日本映画で、観光案内を大がかりにやったのは、なんと言っても『男はつらいよ』のシリーズでしょうね。寅さんとリリーがしみじみ語った海辺の岩をテレビで見たことがありますが、近くへ行ったら、ちょっと寄ってみたくなりますものね。
東京も、見どころいっぱいの観光地という側面があります。アン王女とまで行かなくとも、素敵な美女が恋に落ちて、皇居の東御苑あたりでデートするシーン(我ながら発想が陳腐でいやになるけど)を含む、面白い映画を、どなたか作ってくれませんかね。
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玄之又玄
小学生のころ、習字を習いに近所の先生のところに通っていました。学校でも習字の時間があったと思います。自分で硯に墨を磨って、筆で字を書く。漢字から始めるのでした。かなは、ついに毛筆では書いたことがありません。【訂正:これは言いすぎ。最初は「はる・なつ・やま・かわ」などのかな文字を書いていたのを思い出しました。】
どこで買ってもらったものかは忘れましたが、長さ10センチくらい、幅3センチ、厚み1センチほどの墨の、表面に「玄之又玄」と金色で文字が彫ってあるものが、ちょっと上等だった記憶があります。「げんのまたげん」というのは、だから、墨の銘柄だと長いこと思いこんでいました。
どんな文字を書いたか、もう忘れていますが、「千字文(せんじもん)」から、適当に選んだ4文字が、書道雑誌の手本として掲載されていて、それを見習って半紙に書いて先生に提出し、先生がまとめて、雑誌に送っていたもののようです。隣の町に有名な書家がいらして、その方が顔真卿(がんしんけい)そっくりの文字を書いた。看板や、酒のラベルの文字は、その書家に依頼したらしく、当時はその街中、顔真卿だらけでした。
「玄」という字は、「黒い」という意味なんですね。「玄之又玄」というのは「黒いが上にも黒い」ということでしょう。墨の名前にはぴったりです。というようなことは、ずっと後になって知ったことです。青春・朱夏・白秋・玄冬、という四季と色との組み合わせも、あとで知りました。
「千字文」というのは、ずいぶん昔(6世紀)からある、文字の稽古のための詩文なのだそうです。日本にも早くに伝わり、8世紀にはあったことが確実なのだそうです。「天地玄黄 宇宙洪荒(てんちげんこう うちゅうこうこう)」と始まる。「天は黒く、地は黄色、宇宙はものすごく大きい」というほどの意味らしい。
『老子』という本を読んだことがなかったので、渡部昇一・谷沢永一『老子の読み方』(PHP)というのを買ってきました。そうしたら、「玄之又玄」という字句は、「老子」の第一章にあるんですね。墨の名前はそれから採ったものでした。
玄之又玄 衆妙之門
(それは玄の又さらに玄なるものである
それはあらゆる妙の門である)
万物の生ずるところを「門」と言っているようです。
ネットで調べてみたら、「玄之又玄」という名前の墨は1000円くらいで買えるようです。本格的な墨になるとすぐ1万円、ものによっては3万円以上もします。
カラヤンのオペラ
前にも書いたことがありますが、プッチーニの『蝶々夫人』というオペラは、よく言えば東西文化交流のはざまに起きた悲話ですが、主人公が日本人であることで、日本人として見ていると、アメリカ人ピンカートンの身勝手と勘違いに腹が立ってくるのは避けられません。筋はそうですが、音楽として耳だけで聞いていると、その美しさに感嘆せずにいられません。「ある晴れた日に」ばかりでなく、蝶々さんの歌う数々のアリア、ことに自刃直前のそれの感動的な美しさは比べようがない。もちろん他のピンカートン、シャープレス、スズキの歌うアリアもそれぞれに聞きどころがいっぱいあります。
以前は、テバルディの歌う「マダマ・バタフライ」一本槍でしたが、去年から、ミレッラ・フレーニの歌が素敵なのでそちらを聞くことが多くなりました。
指揮はヘルベルト・フォン・カラヤン、ピンカートンにパヴァロッティ、スズキはクリスタ・ルートヴィッヒ、シャープレスにロバート・カーンズという豪華陣。ウィーン・フィル、1974年の録音です。レーベルはロンドン。序曲が鳴り出すと、「ウンッ」とか「オッ」という気合いを入れるような声が聞こえます。4、5回聞こえるかな。指揮者カラヤンの声だと思います。今となれば珍しい録音かもしれません。
カラヤンという指揮者は、生前から毀誉褒貶にさらされたようですが(中川右介『カラヤンとフルトヴェングラー』幻冬舎新書に詳しい)、オペラの指揮は群を抜いていると思います。レオンティーン・プライスがタイトル・ロールを歌う『カルメン』(この盤でミカエラを歌うのがミレッラ・フレーニ)の流暢さ、さらに極めつけ、リヒヤルト・シュトラウスの『薔薇の騎士』(シュワルツコプフのマルシャリン)の自在さ、CDもDVDもたくさん残してくれたのが、遅れてオペラ・ファンになったものにとってはありがたいかぎりです。
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