良識
デカルトの『方法序説』という、パンフレットほどの規模の本の冒頭に、
良識はもっとも公平に分配されている
Le bon sens est le mieux partagee
とあります。「ボン・サンス bon sens」が「良識」にあたり、岩波文庫の翻訳でもそうなっています。
日本語で「良識」と言えば、「社会的に認められた健全な判断力」のことをさしますね。「良識ある行動」「良識ある社会人」など。それが欠如していると見なすと、「良識を疑う」などと言います。
デカルトは、日本語の意味で言う「良識」が、誰にでも備わっている、と言ったのでしょうか? フランス人にだって、「良識を疑われる」人間はいくらでもいるはずです。そこで、「ボン・サンス」はどうやら「良識」と違うものではないか、と考えついた方がいらっしゃいます。哲学者の木田元先生です。
何十年か考え続けて、やっと分かったと書いた(対談でお話しになった)のが、今から10年ほど前のことでした。
ひとくちで言えば、人間一人一人(の感性や頭脳)は、神様の出張所のようなものだ、ということのようです。誰でも、神の子であるから、よい判断力の芽を備えているのだ、というのです。それなら、私にも分かったような気がします。
若いころにこの一節を読んで、ホントかなあと思った記憶があります。私にしてみても、何十年かたって、ようやく腑に落ちる解釈を教えてもらって、ひと安心というところでした。
![]()