弥三郎節
「弥三郎節(やさぶろうぶし)」は津軽の民謡です。一種の数え歌。嫁いびりの歌として知られる。間違っても結婚式で歌ってはいけないとされているそうです。
一つぁーえー
木造(きづくり)新田(しんでん)の下相野(しもあいの)
村の外(はんず)れこの 弥三郎(やしゃぶら)エー
ありゃ やしゃぶらえー《繰り返し》
二つぁーえー
二人と三人と 人(ひと)頼(ん)で
大開(おびらき)の万九郎(まんくろ)から嫁貰(もら)た
ありゃ やしゃぶらえー
三つぁーえー
三つもの揃えて貰(もら)た嫁
貰(もら)て見たども気にあわね
ありゃ やしゃぶらえー
四つぁーえー
夜草(よくさ)朝草(あさくさ)欠かねども
家(えー)さ戻ればいびられる
ありゃ やしゃぶらえー
五つァエー いびられはじかれ
にらめられ 日に三度の口つもる
六つァエー 無理な親衆に
使われて 十の指コから血コ流す
七つァエー なんぼ稼いでも
働れでも つける油コもつけさせぬ
八つァエー 弥三郎ア家コばかり日コア照らね
藻川の林コさも 日コア照らね
九つぁーえー
ここの親たちみな鬼だ
こごさ来る嫁 みな馬鹿だ
ありゃ やしゃぶらえー
十ァエー 隣知らずの牡丹の餅コ
嫁さ喰せねで 皆かくす
全部で15番まであるそうですが、途中を省いてここまで。
歌詞は、さまざまなヴァリエーションがあるようです。ネットで見ることもできます。いつもの通り、YouTube を探しましたが、加藤登紀子の歌う、上品な(しかも、ちょっと悲しげな)歌しか出てきません。他の音源をダウンロードできる仕掛けも捜せばみつかるかもしれません。
木造新田という村のはずれに住む、弥三郎さんが、大開村の万九郎の家からお嫁さんを迎えた。貰ってはみたものの、(親が)その嫁が気にいらなかった。朝から夜まで草刈をして働いたのに、家に帰ればいびられてばかり。ここの親は鬼だ、ここに来る嫁は馬鹿だ、と、いつの間にか、嫁さん側からの恨み節になっています。
今から40年ほど前、弘前出身のヒロシくんに教わりました。今でも歌えます。メロディーはそんなに湿っぽいものではありません。むしろカラリとしています。テンポも早めに歌うと、聞き手が手拍子を叩くほどのものです。機会があったらお聞きになってみてください。
【2014.2.3追記】五つから十までの歌詞を見つけたのでコピペして追加しておきます。赤字で示したのがそれ。最後のリフレインは省略。
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グラン・トリノ
もとフォードの生産ラインで働き、今は引退してデトロイト近郊の町に暮らしているウォルト・コワルスキーという老人をクリント・イーストウッド自らが演じます。名前を聞くとアメリカ人ならすぐ分かるようですが、ポーランド系移民の子孫です。朝鮮戦争に従軍して、無意味な殺人をしてしまった、そのことを思い出さない日はないとつぶやくシーンがあります。
1972年の大型スポーツ車「グラン・トリノ」が彼の宝物で、ピカピカに磨き上げて、いつでも走れるようになっています。このエンジンの部分あたりを俺が作ったと言っていました。
隣に住んでいるのは、ラオスから移住してきたモン族の家族です。中国にもいる少数民族なのだそうです。中国での民族名はミャオ(苗)族と言うようです。隣の家の、スーという賢そうな姉と、タオという(畑仕事が好きでモン族の不良たちから女みたいだと軽蔑される)弟、の二人と、ウォルトが、その意に反して、深く付き合うことになります。
いつも行く床屋がイタリア人、タオに仕事を紹介してもらう建設現場の親方がアイルランド人で、住んでいる街はカトリックの信者が多いのですね。ウォルトの妻の葬式の場面から映画は始まりますが、若い神父が司式しています。この神父も重要な役回りを演じます。
モン族のギャングたち(そのうちの一人はタオの従兄弟)に散々悪さをされ、あげく姉のスーはレイプまでされる。復讐の段取りをウォルトが慎重に考えてやります。思いがけない終幕が用意されていました。
必要最小限のエピソードだけを積み重ね、それらがすべて一つの結末に収斂していくストーリーテリングのうまさは、この映画でも躍如としていました。クリント・イーストウッドは、監督としても映画殿堂の最上席に坐るべき人です。
折しも、リー・アイアコッカの自伝『アイアコッカ』がゴマ文庫から再刊されました。最盛期のフォード社の社長を務め、フォード2世にクビにされ、(競争相手の)クライスラーの社長になって復讐を果たした、という人です。これもおすすめの一冊です。それこそ、この人の伝記を映画にしたら面白いと思いますが、そういう企ては聞いたことがありません。
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レシピとレセピ
料理やお菓子の、作り方の手順を示したものを「レシピ」と言い出したのはいつごろからでしょうか。そんなに昔のことではないような気がします。英語で recipe と綴るので、見た目はフランス語から入った語のようですが、フランス語ではこういう単語はないようです。receive (受け取る)という単語の同類です。英語では、薬の「処方箋」のことも指すようです。
カタカナで「レシピ」とあって「レ」にアクセントがある場合、日本語の話し手なら、まず例外なく真ん中の「シ」が無声化します。「ピ」の p に同化するからです。もし「レセピ」と書いてあったら、セは無声にならない。じっさい、アメリカで長く暮らした日本人の奥さんが、アメリカ人に聞いた料理法を大学ノートに記録したものをテレビで見たことがあります。表紙に「レセピ」と書いてありました。
無声化というのを文字で理解してもらうのは難しいですが、「シ」の発音の構えをしながら、母音を出さないやり方です。シが無声化するケースをいくつか(左側に)あげます。対して右側は、同じような環境でも、k が g の場合、無声化は起きません。
シカケ(sikake:仕掛け) シガイセン(sigaisen:紫外線)
コシカケ(kosikake:腰掛け) ホシガル(hosigaru:欲しがる)
ヒッコシ(hikkosi:引っ越し) ワガシ(wagasi:和菓子)
「レシピ」のように、シとピが並ぶ単語は日本語にはまずありません。というか「ピ」で終わる語も数えるほどしかない。出費、突飛、安否、猿臂、など。
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デジャヴュ
デジャヴュというのは、記憶に関する用語で、「既視感」と訳されます。もとはフランス語、「デジャ」が「すでに」、「ヴュ」が「動詞見る(voir)の過去分詞形:見た」、合わせて「既に見たことがある」という意味。
昔からある表現のように思っていましたが、この意味では20世紀になってから使われたもののようです。
初めて見たり、聞いたり、感じたり、訪問したり、したのに、「あれ? 前にこれと同じことがあったよなあ」というのは、たいていの人に覚えがあるはずです。たとえば、ジェットコースターに初めて乗ったのに、前にも乗ったことがあったと感じるとか、長岡市という街の中を歩くのは初めてなのに、商店に見覚えがあるとか、そんな経験です。
「記憶錯誤」という病名もあるそうですから、今経験していることを過去の記憶として想起する、という「錯誤」を指すもののようです。しかし、経験した人(70%くらいらしい)なら、お分かりのとおり、間違いなく「過去の」こととして思い出しますね。記憶のことは難しすぎてよくは分かりませんが、「タイムマシーンのようなもので過去へ旅行してきた経験をいま思い出している」としておくほうが面白いと思います。
デジャヴュは、見ることのみならず、「耳の記憶」も含みます。初めて聞いた音楽なのに、ものすごくなつかしい、と感じることもありますしね。
フランス語の普通の熟語としての「デジャヴュ」には、そういう含みはないようです。「もう知っている(ので新味がない)」というほどの意味です。
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皆殺しの歌、から
管楽器の嫋々(じょうじょう)たる調べを堪能できるのは、マーラーの交響曲第3番の第3楽章です。「ポストホルン」という名前の楽器が使われます。郵便馬車の時代に到着を知らせる合図のホルンというのでこの名前があるそうです。これも、やっと見つけた動画を貼り付けておきます。楽器自体は画面に出てきません。5分50秒あたりから美しい旋律が鳴り響きます。マーラーの3番は演奏時間が長すぎるので、演奏会ではめったにやらないものらしい。
もうひとつ、こちらはトランペット。ドニゼッティのオペラ『ドン・パスクワーレ』の、エルネストのアリア「かわいそうなエルネスト」のイントロで流れるメロディーも切なくて大好きです。