大聖堂―果てしなき世界
ケン・フォレットの新刊『大聖堂―果てしなき世界』(上中下3巻、ソフトバンク文庫)を先週末に読み終わりました。3冊とも600ページ以上ありましたから、読みでがあった。イングランドのロンドン近郊、キングズブリッジという架空の街の物語です。時は14世紀。腕のいい大工マーティンと、その弟ラルフ(長じて伯爵に叙される)、働き者の農民娘グウェンダ、金持ち商人の家に生まれ独立心の強い美少女カリス、この4人が中心になってキングズブリッジの、ほぼ40年間の出来事が語られます。
橋が流されて大勢の人が死ぬ、教会の屋根が落ちてそこでも死者や怪我人が出る、ペストが蔓延して、街の半数近くが死んでしまう、というような大事件が、次々と起こります。修道院・女子修道院が一つの建物になっていて、その一部が施療所になっている。ケンブリッジで医学を学んだ修道士が診療の方針を示し、修道女が実際の手当てをする、という仕組みのようでした。
カリスは、経験知を駆使して、さまざまな病気の治療に成功し、人々から絶大な信頼をかちえていきます。アカデミー仕込みの硬直した治療法には目もくれず、街の女薬剤師の手伝いをしながら薬草・薬石の効能を覚えていきます。このあたり、ケン・フォレットは、かの韓国ドラマ、『チャングムの誓い』をヒントにしたかと思わせます。
物語の主な筋は、しかし、修道院長や司教をめぐる駆け引き、陰謀、イングランド王家の権力争奪、などなど、なまぐさい(ときに、血なまぐさい)政治的策謀です。
寝床に本を持ち込んだのは何年ぶりだったか。読み出したら止められない面白さでした。
ケン・フォレットは、13年ほど前にも『大聖堂』という物語(文庫版上中下3巻)を書いています。前作は12世紀のキングズブリッジが舞台。今度のは、200年後の話というわけです。こちらもソフトバンク文庫。かつては、彼の本は、新潮文庫で出たのが多かったのですが、おそらく版権料(率)の関係でしょう、今は、新潮文庫の新刊ではどれも入手できません。
アマゾンなどで手に入ると思いますが、以下のフォレット作品は、「面白かった」という記憶の鮮明なものです。『針の眼』『レベッカへの鍵』『飛行艇クリッパーの客』(新潮文庫)、『鷲の翼に乗って』『ペテルブルグから来た男』(集英社文庫)。
![]()
濫觴(らんしょう)
「濫觴(らんしょう)」とは、「物事の初め、起源」を意味する熟語です。「觴」は「さかずき」、「濫」は「あふれる」あるいは「浮かべる」という意味なのだそうです。「アルピニズムの濫觴」「南部藩蘭学の濫觴」などと使われる。「鉄板焼きの濫觴」というのもグーグルでは見つかりますが、これは適切かどうか。
もともとは、揚子江のような大河も、その初めは「盃からこぼれる程度の水量であった」あるいは「盃を浮かべる程度の水量であった」ということを、これもやはり孔子様がおっしゃったのだそうです。偉い人なんですね。弟子が正装に威儀を正して孔子の前に出てきたのをいさめた言葉なんだそうです。初めは質素にしなさいね、という教えなんですね。外見ではなく中身で人を感心させる人間になりなさい、ということでしょう。いやな先生ですね。
そういう故事から離れて、「濫觴」は、一般に「物事の始原」を指す言葉として使われてきました。
「始まりはどうだったのか」という興味は誰にでもあります。それが分かると、物事の理解が深まったような気になるからでしょうね。
ただし、実際の河川の水源を指して「濫觴」とは言わないようです。
![]()
消されたヘッドライン
ラッセル・クロウが敏腕の新聞記者、彼のかつてのルームメイトで今は下院議員がベン・アフレック、記者の上司がヘレン・ミレン、オスカー俳優勢ぞろいの予告編を見ただけでも、面白そうな映画なので、封切になってすぐに見物してきました。
ワシントン・ポストがモデルになったらしい新聞社内部の風景が珍しいものです。若い、野心家の女記者をレイチェル・マクアダムズという初めて見る女優が演じます。
薬物中毒の黒人少年がワシントンの裏通りでピストルで殺されます。通りかかったピザ配達の白人の青年が、目撃者を消す目的で撃たれますが、命は取りとめる。さらに、次の朝、若い美女が地下鉄のホームから線路に落ちて死ぬ、という事故が起きます。地下鉄で死んだのが、下院議員スティーヴン・コリンズ(ベン・アフレック)の事務所で頭角をあらわした調査員デラ・フライだった。コリンズ下院議員は、戦争請負事業で巨額の利益を挙げるポイント・コープ社を調査する公聴会の議長。
こういうドラマの定石のようになっていますが、スティーヴンとデラは愛人関係にあった。それが、彼女が死んだことを伝えるテレビ・ニュースで各局が報じる画面でほのめかされます。
新聞記者たちが、真相究明の取材を慎重に進めます。編集長(という肩書を映画サイトでは使っています)ヘレン・ミレンは、取材はほどほどにして売れる紙面を作るのが先だ、と部下を叱咤する。
それぞれの事件・事故が、複雑に絡み合って、話は二転三転するように展開します。もとはテレビの連続ドラマを映画化したものらしい。そのせいなのか、もっと説明がないと、ドンデン返しはよく理解できないところがありました。
今や、アメリカの新聞社は、紙の新聞に代わって、電子新聞(インターネット)が主力(少なくとも半分)になりつつあるらしいのがよく分かります。
原題は State of Play。プレイは「トランプのゲーム」などの「ゲーム」のような意味らしい。State of Play で「現状・情勢」という訳語もついています。今、どっちがどういう「持ちカードの状態か」というような含意だと理解すると、タイトルに選ばれた理由も納得できます。邦題は、苦しまぎれでしょうが、原題の直訳よりはなじみやすい。
![]()
蕪村俳句集
本棚で別の本を探していたら、奥から『蕪村俳句集』(岩波文庫、尾形仂〔つとむ〕校注、1989年)が出てきました。学生の頃に読んだ文庫本も、岩波だったと思いますが、注をつけた先生は別だったかもしれません。
若い頃に読んだ記憶では、蕪村というのは絵を描くように句を作る人だ、という印象でした。俳画をよくした人だということをどこかで読んで、それに影響されてそんなことを思ったのでしょう。
この新しい文庫が出たころ、同僚から俳句の面白さを教えられて、それで購入したのだったか。いつかも引用しましたが、
斧入れて香(か)におどろくや冬こだち
の凛然たる句柄にしびれました。
久しぶりに目にした蕪村は、古典(漢文)を本歌どりした句もたくさん作っているのでした。脚注に知らない典籍の名前がたくさん出てきます。夏の句から、いくつか拾っておきます。
夕風や水青鷺の脛(はぎ)を打つ
不二ひとつうづみ残してわかばかな
さみだれや大河を前に家二軒
学問は尻からぬけるほたる哉
最後の句は、今まで蕪村の作品だと知らずにきました。「蛍雪之功」という熟語の元になった話が典拠になっているんですって。秀才の車胤(しゃいん)という若者が、貧しくて灯油が買えないので、蛍を集めてその光で読書したという故事を踏まえた一句なのだそうです。「雪」の明かりで本を読んだのは孫康という人。
「尻から抜ける」は「すぐ忘れる」ということのようですから、この一句は、勉学に励む人(蕪村自身を指すのかな)への、いましめの言葉のようです。「一書生の閑窓に書す」という「詞書き」が添えてあります。
ドヴォルザークのメロディー
私が、もっともたくさん聞いたのは「チェロ協奏曲」です。ピエール・フルニエ、ロストロポーヴィッチ、ヨーヨーマなど。最近は、ジャクリーヌ・デュプレ(指揮はバレンボイム)のCDばかり聞いています。
ケルテスのもデュプレのも、『クラシックCDの名盤』という文春新書のシリーズ(132番《演奏家篇》、646番《新版、元版は69番》)で教わったものです。このガイドブックは、宇野功芳・中野雄・福島章恭の3人が、同じ曲について推薦するCDをあげ、推薦理由を書いたものです。激しく意見が違ったりするのがおもしろい。
こういう大作もいいのですが、この作曲家は、小品において(も、と言うべきですが)メロディー・メーカーの本領を発揮します。
ヴァイオリンの「ユーモレスク」とか、「ロマンティック・ピース」とか。「わが母が教え給いし歌」という、大仰な訳のついた歌もあります。「母が教えてくれた歌」でいいところでした。クライスラーがヴァイオリンに編曲したものもよく聞くことがあります。