パパ・パパゲーノ -17ページ目

言うなかれ、君よ、わかれを

 人の別れを歌う詩や曲には、心を打つものが多い。徳岡孝夫『完本 紳士と淑女』(文春新書)は、長く雑誌『諸君!』の巻頭に掲載されたコラム集を選抜・編集して1冊にまとめたものです。毎号愛読していましたが、この6月号で休刊になりました。最終回の最後を大木惇夫の「戦友別盃の歌」を引用してしめくくりました。この詩は、戦中を過ごした人々には特に好ましいもののようで、いろいろな文章に引用されたのを読んだことがあります。


 言うなかれ、君よ、わかれを、
 世の常を、また生き死にを、
 海ばらのはるけき果てに
 今や、はた何をか言わん、
 熱き血を捧ぐる者の
 大いなる胸を叩けよ、
 満月を盃(はい)にくだきて
 暫(しば)し、ただ酔いて勢(きお)えよ、
 わが征(ゆ)くはバタビヤの街(まち)
 君はよくバンドンを突け、
 この夕べ相離(あいさか)るとも
 かがやかし南十字を
 いつの夜(よ)か、また共に見ん、
 言うなかれ、君よ、わかれを、
 見よ、空と水うつところ
 黙々と雲は行き雲はゆけるを。


 バタビヤは、インドネシアのジャカルタのこと。オランダ占領時代の呼び名。バンドンは今でもその名前で、ジャカルタの東南の都市。攻め入る前の別れの一献をうたったものですが、惜別の感情吐露が素直に心に響いてくるので、長く読み継がれたものかと思います。


 井伏鱒二が漢詩を訳して、原詩(于武陵「勧酒」)よりもよくなった、少なくとも日本では原詩よりもはるかに有名な、訳詩。


 コノサカヅキヲ受ケテクレ
 ドウゾナミナミツガシテオクレ
 ハナニアラシノタトヘモアルゾ
 「サヨナラ」ダケガ人生ダ


 君(きみ)に勧(すす)む 金屈卮(きんくつし)
 満酌(まんしゃく) 辞(じ)するを須(もち)いず
 花(はな)(ひら)いて 風雨(ふうう)(おお)

 人生(じんせい) 別離(べつり)(た)






小布施町

 10日前になりますが、長野県の小布施町 に行ってきました。「おぶせミュージアム中島千波館」という美術館で開かれた「池田学展」を見るのが主たる目的でした。


 池田学画伯のことは以前、このブログ でも触れました。卒業制作から最新作まで12、3点ほどが展示されていました。「予兆」という3×2メートルの大作の迫力が圧倒的でした。


 中島千波という画家は、この小布施の出身だそうで、現在、東京藝術大学教授です。64歳くらい。池田さんは、おそらくこの中島門下だろうと思います。中島記念館という美術館ですから、常設展の絵は中島千波作品がたくさんありました。上品な花の絵が多かった。純然たる日本画のようです。


 長野電鉄「小布施」駅で降りて、徒歩15分ほどのところに、ミュージアムがありました。広々とした敷地に、一部2階建ての平屋の建物。庭に二棟の土蔵があって、祭に使う(使った?)山車が、5台飾ってあります。


 街並みが清潔で落ち着いていることに感動しました。今や地方都市は軒並み、シャッター商店街が多くなっているように伝えられますが、たしかに、私の故郷の街もその傾向が著しいのですが、小布施の街のたたずまいは、いかにも「もの生(な)りがよい」土地柄だと感じさせます。電車から見る光景は、赤いリンゴが鈴なりになっていましたし、名物の栗の実もたくさんありました。街中の歩道は、半分がタイルで、半分が10センチ四方ほどの木材が小口を上にして敷きつめてあります。まことに歩きやすい。町の財政がよほど豊かなのだろうと思いました。



パパ・パパゲーノ
おぶせミュージアム中島千波館


パパ・パパゲーノ

街で見かけた赤い実(名前失念)






シャーリーズ・セロン

 『バベル』(ブラッド・ピット、ケイト・ブランシェット、役所広司、菊池凛子などが出たオムニバス風映画)の脚本を書いたギレルモ・アリアガが初めて監督をした映画『あの日、欲望の大地で』という映画を見ました。しかし、この邦訳はなんとかならなかったものでしょうか。原題は The Burning Plain(燃える平原)」ですからね。実際、荒涼たる平原でトレーラー・ハウスが爆発炎上するところから映画が始まります。


 この、燃え尽きたトレーラー・ハウスから男女の死体が発見され、現場を見に行った兄弟(死んだ男の子どもたち)とその友だちが、死んだのが親父と、隣町の主婦だったことを語ります。死体が出てくるわけではありません。科白だけで、死んだ二人が二つの街の真ん中でデートしていたことを明らかにします。あとではっきりしますが、この二人を演じるのが、キム・ベイシンガー(『LAコンフィデンシャル』の娼婦役)とヨアキム・デ・アルメイダ(顔を見れば、ああ、あの人とわかる、スペイン系の脇役男優、実際はポルトガル出身だそうです)です。


 それとは別に、海岸のレストランの有能なチーフ・マネジャーをしているシャーリーズ・セロンが、複雑な過去を持った女として登場します。いきなりヌード姿をスクリーンにさらすのでびっくりします。コックのひとりと浮気した、その朝の光景から、もう一つの物語がつむがれていきます。


 ふたりの女の物語が、どういうふうに交錯するかが、この映画の見どころですが、平行に進んでいるように見える、ふたりの人生が、時間差のある平行線だと分かるのは、始まって30分くらいです。


 キム・ベイシンガーの長女マリアーナを演じたのがジェニファ・ローレンスという、まだ20歳そこそこの女優です。この娘が物語全体のキーになるので、相当な演技力を要求されますが、見事に演じました。この役で、ヴェネツィア映画祭の「マルチェロ・マストロヤンニ賞」に輝いています。


 テッサ・イアというラテン系の美少女(12歳くらい)も上手な役者でした。


 この、4人の女の人生がからみあって、複雑な物語が展開した映画と見ることもできます。シャーリーズ・セロンが、最後にテッサに見せる表情が、科白はないのに、雄弁に希望を表現していました。

















男のポケット

 丸谷才一に『男のポケット』というエッセイ集(新潮文庫)があります。背広のポケットのことを含意していたはずで、男はそこにいろいろな、まあ、ガラクタを入れてあり、それを取り出してご覧に供する、とご自分の作品を謙遜してつけたタイトルでしょう。実際は、いつものように、博覧強記の文章が並んでいました。ドラえもんの「どこでもドア」というのは子ども(とくに男の子)の夢を上手に視覚化したものだと思いますが、丸谷先生における「ポケット」は、歴史上と地球上とを変幻自在に飛び回ることのできる入り口、いわば「大人のどこでもドア」みたいなもんです。


 小学校高学年からだったか、いわゆる「学ラン」という制服のような黒い服を着るのでした。中学生になると詰襟になる。セルロイドのカラーにヒビが入って、首筋に傷をつけたりしたものです。セーラー服はどうだったか覚えていませんが、この、「学生服」には、上着にたしか5カ所のポケットが付いていたはずです。胸と、両脇と、左右の内ポケット。ズボンにも4つ。


 背広を着るようになってからも、上下の揃いでなくとも、たいてい、ポケットがたくさん付いていました。タバコを吸いはじめてからは、左の内ポケットがライターとタバコの箱の専用になった。ポケットチーフの入るべき胸ポケットは定期入れの場所。右脇のポケットには鍵とか一時的に買った切符とか。左にはティッシュとか、その時その時の備忘用メモ。ズボンのポケットにもそれぞれ役割がありました。


 ジャケットを買いに行って、うっかり見た目のデザインだけで選んでしまい、ポケットが2つ足りない仕立てだったりすることがあります。右の内ポケットが付いていないのが大いに困る。


 軍用ズボン仕立てというのか、厚手の生地でできたダップリしたズボンを履いている若者を見かけることがあります。大ぶりのポケットがたくさん付いていて、見るともなく見ていると、じつにさまざまなものを取り出していますね。一度でいいからああいうズボンを履いてみたい。といっても、文庫本くらいしか入れるものはありませんけれど。


男の子       男の子        男の子        男の子        男の子

 東京には、「谷」の付く地名がいくつかありますが、「たに」と読んだり「や」と読んだりする。


 茗荷谷(みょうがだに) 鶯谷(うぐいすだに)


 世田谷(せたがや) 千駄ヶ谷(せんだがや)  市谷(いちがや)


 ずっと以前、「たに」と読むほうの地形が、「や」に比べて深い、と書いたものを目にしたことがあるような気がしています。ご存じの方教えてください。


 たしかに、茗荷谷は、たとえば、昔の東京教育大学の脇の坂道(名前失念)は、いかにも谷底に降りていくようなおもむきがあります。ゆるやかな坂ですけれど。


 それに比べれば、市谷も千駄ヶ谷も、深い谷という感じがしません。世田谷は区の名前ですから範囲が広すぎて見当もつきません。どこかに峡谷のようなものがあるかもしれません。鶯谷は、谷中の墓地の崖下のように狭い地形(そこを山手線が通っている)なので、先の説も一理あるように思います。全部、素人のあてずっぽうにすぎませんが。


 英語で谷のことをヴァレー(valley)というと思いますが、「たに」という日本語とパラレルではないのではあるまいか。両側あるいは周囲に高めの丘があって、それに比較して低い土地(くぼみ)は、みんなヴァレーと呼ぶような気がします。「谷」と言うと両側に崖が切り立っていて、狭い場所を思い浮かべませんか?


 グランド・キャニオンのように、キャニオンという言い方もするようですが、その場合は、「狭い」という意味合いは消えてしまいますね。


おひつじ座        おひつじ座        おひつじ座        おひつじ座        おひつじ座