言うなかれ、君よ、わかれを
人の別れを歌う詩や曲には、心を打つものが多い。徳岡孝夫『完本 紳士と淑女』(文春新書)は、長く雑誌『諸君!』の巻頭に掲載されたコラム集を選抜・編集して1冊にまとめたものです。毎号愛読していましたが、この6月号で休刊になりました。最終回の最後を大木惇夫の「戦友別盃の歌」を引用してしめくくりました。この詩は、戦中を過ごした人々には特に好ましいもののようで、いろいろな文章に引用されたのを読んだことがあります。
言うなかれ、君よ、わかれを、
世の常を、また生き死にを、
海ばらのはるけき果てに
今や、はた何をか言わん、
熱き血を捧ぐる者の
大いなる胸を叩けよ、
満月を盃(はい)にくだきて
暫(しば)し、ただ酔いて勢(きお)えよ、
わが征(ゆ)くはバタビヤの街(まち)、
君はよくバンドンを突け、
この夕べ相離(あいさか)るとも
かがやかし南十字を
いつの夜(よ)か、また共に見ん、
言うなかれ、君よ、わかれを、
見よ、空と水うつところ
黙々と雲は行き雲はゆけるを。
バタビヤは、インドネシアのジャカルタのこと。オランダ占領時代の呼び名。バンドンは今でもその名前で、ジャカルタの東南の都市。攻め入る前の別れの一献をうたったものですが、惜別の感情吐露が素直に心に響いてくるので、長く読み継がれたものかと思います。
井伏鱒二が漢詩を訳して、原詩(于武陵「勧酒」)よりもよくなった、少なくとも日本では原詩よりもはるかに有名な、訳詩。
コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ
君(きみ)に勧(すす)む 金屈卮(きんくつし)
満酌(まんしゃく) 辞(じ)するを須(もち)いず
花(はな)発(ひら)いて 風雨(ふうう)多(おお)し
人生(じんせい) 別離(べつり)足(た)る