味噌汁雲
今日は外にいると汗ばむほど気温が上がりましたが、朝夕のさわやかさが気持ちがいい。昨日(か、おととい)天気予報を見ていたら、「味噌汁雲」という雲のニックネームの一つを紹介していました。
秋の晴れた空にあらわれる雲は、地球に近いほうから、積雲、巻積雲、絹雲、という説明だったと記憶しています。巻積雲が「うろこ雲」で、そのさらに上空にできるのが「鰯雲」と呼ぶようでした。気象用語と普通名詞とがきれいに対応しているのでもないらしい。
「うろこ雲」ができるときには、上昇する水蒸気に対して、さらに上空から寒気が蓋をしているのだそうです。蓋の下で、対流が起きて、対流の数が多くなると、うろこ状の雲が発生する。下から見る「うろこ」のひとつひとつは、絶えず回転しているのだそうです。
おわんに入れた味噌汁も、溶けた味噌が、下からむっくり起き上がるようにして回転しているのがわかりますね。それがいくつも見えます。これも、おわんの中が熱いのに、室温が蓋をしている状態なのだそうです。
流体の運動としては、うろこ雲と味噌汁とで同じことが起きているという説明でした。
寺田寅彦に「茶わんの湯気」というエッセイがあります。茶わんから立つ湯気と、海水が蒸発して雲ができる状況とを同列に考えようとすすめる、子供向けの一文でしたが、それを思い出しました。
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訓読
このあいだ紹介した『孤高』という本に、訓読(くんどく)と訓読みとを混同したような記述があって、ちょっと気になっていました。
いつも引く『明鏡国語辞典』ではこうなっています。
くんどく【訓読】①漢字をその意味に当てた日本語の読み方で読むこと。「春」を「はる」、「夏」を「なつ」と読むなど。訓読み。⇔音読 ②漢文に訓点をつけ、日本語の文法に従って読み下すこと。
私の語感では、①と②の記述が逆になります。「訓読」と言えば、「漢文の訓読」が思い浮かぶ。
学びて時にこれを習う、またよろこば(説)しからずや。
と読むのを、訓読というのではないかなあ。
『論語』には、
学而時習之、不亦説乎
とあるだけですから、訓点(返り点や、一、二、上、下など)をつけて、日本語として読めるように、昔から工夫してきたと教わりました。これを、音読みにして、
がくじじしゅうし、ふえきせつこ
と読むことはありません。対語として「音読」が出ていますが、「音読み」のことを「音読」というのは初めて知りました。「おんどく」というのは「黙読」に対するもので、「声に出して文章を読むこと」が普通の用法です。
大野晋先生が編纂した『角川必携国語辞典』という辞書では、漢文訓読のことが先に出てきます。次に「訓読み」のことも出てきますから、「訓読」にはその意味もあるようです。今日調べた5種類ほどの辞書のどれにも出てきます。狐につままれたような思いがしています。
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記者クラブ開放
民主党の内閣ができることになって、私が一番注目したのは、「記者クラブ開放」ということでした。記者クラブというのは、内閣府や、各省庁、地方自治体に常駐するマスコミ各社で構成される組織で、クラブというくらいだから、入会資格があって、会員以外は、その省庁での取材を自由に行なうことができないらしい。なかんずく、記者会見は、記者クラブ主催という建前になっていて、昨日の、鳩山由紀夫総理以下の会見には、一部会員社以外(『週刊朝日』『週刊新潮』、ブルームバーグなど)が参加を認められただけで、これまでの自民党政権下での記者会見と、まず、似たようなことになったようです。
「記者クラブ解放」というのは、誰であれ、取材申請をして、身元調査や取材歴などの審査に合格すれば、記者証が発行され、自由に質問や録画ができることをさします。
田中康夫が長野県知事になったときに、記者クラブ制をやめました。東国原英夫も宮崎県知事になって同じことをこころみています。野党であったときの民主党も、オープンな記者会見を開いていました。上杉隆というフリージャーナリストが、前の民主党代表、小沢一郎に、政権をとったら、同じようにオープンにするかと質問し、「どなたが来てくれてもかまいません」という言質をとりました。小沢に代わって鳩山由紀夫が民主党代表になったときも、同じ質問をし、「上杉さんでもどなたでもいらしてください」と、これも了解したものと受け取られました。民主党のふたりの代表が、「開放」を認めたのですから、そうなるかと思いきや、前述のような結果になりました。ネット上では、こんなことで民主党大丈夫か、という意見が飛びかっています。
この件は、新聞には出ないし、テレビでも報道されません。みんな記者クラブに所属しているからだそうです。勝谷誠彦(まさひこ)さんだけ(だと思いますが)、テレビで、発言ができるときには、「記者クラブ廃止」ということを広言しています。
そう遠くないうちに、事態は変わるだろうと予想しています。大新聞社の記者の中でも、もうやめたほうがいいと考えている人がいるそうですから。
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孤高―国語学者大野晋の生涯
川村二郎著『孤高――国語学者大野晋の生涯』(東京書籍、四六判、1,785円)を読みました。大筋は、大野先生の自著『日本語と私』(新潮文庫)の記述によりながら、88歳まで長命し、去年7月に亡くなった、この碩学の風貌をよく伝えています。
本居宣長が、友人の妹、民(たみ)を妻に迎えるエピソードはこの本にも出てきます。民さんはいったん、別の男のもとに嫁したのですが、ほどなく死別します。宣長は、それを知ると、すでに結納を交わしていた美可さんとの婚約を破棄して、民さんと一緒になります。これを、大野先生は、宣長ゆかりのお寺の過去帳を徹底調査して調べあげたのだそうです。『日本語と私』では、調査の過程については書いていなかったと思います。それよりも、再婚という事態についての言及に、先生ご自身の体験が反映されているような、微妙な筆使いだったのが印象的でした。本書では、その体験には、ほんの少し触れているだけでした。
大野先生の評伝ですから、日本語の古典がたくさん出てきます。「日本書紀」の書名があちこちで「日本書記」と誤記されて(書紀となっているところもある)いるのが、目ざわりでした。他にも、「教育漢字」とあるべきところが「教育漢学」となっていたり、よほど急いで作ったものでしょうか、校正に徹底を欠いているところが見受けられます。「瞬間湯沸かし器」と恐れられた大野先生の、カミナリが落ちるのではないかと心配しました。
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紀尾井ホール
昨日(13日)「前田幸市郎メモリアル演奏会」が終わりました。プログラムは、順に、ケルビーニ「レクイエム ニ短調」、フォーレ「レクイエム ニ短調」、シューベルト「ミサ曲 ト長調」の3曲。
最初のケルビーニが一番長くて40分くらい、私はこれだけに参加し、2曲目からは客席で聞きました。フォーレは2階の右サイド、最後のは、1階の2列目。フォーレのソプラノ・ソロの平松英子さんの声が感動的でした。
午前中のステージ・リハーサルでは、1階後方の席で聞いていましたが、澄んだ美声がホール中に響きました。高い音がピアニッシモになったときの響きがとくにすばらしい。
シューベルトのソプラノ・ソロも、何曲かありました。すぐ近くで聞いていると、意外に野太い声なのに驚きます。からだ全体が共鳴しているということでしょう。
いつも合唱の練習をしているのは、比較的狭い空間なので、他の声部の歌っているのがよく聞こえるし、ハーモニーも確かめながら歌うことができます。ところが、このステージでは、ほぼ一列に整列するので(扇形にはならないので)、ほかのメンバーたちの声が聞こえにくいのです。80人も並んでいるのに、自分ひとりでオーケストラの合奏に張り合っているような錯覚におちいりました。あと何回か、ステージのリハーサルがあったらよかったのにと思いました。
この紀尾井ホールというのは、客席数が800席と、比較的小さなホールです。シューボックス型と呼ばれるコンサート・ホールで、「靴箱」の端っこがオープン・ステージになっています。音響効果にすぐれている作り方なのだそうです。ステージの上からは、自分たちの声が客席に届いているのかどうか不安でしたが、客席で聞いていると、オーケストラのうしろに並ぶ合唱団の声が、ちゃんと「ハモって」いるので、安堵しました。よい演奏だったと言ってくださる方が多かったので、成功した演奏会だった、と思うことにします。
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