ズボン役
『フィガロの結婚』の登場人物の一人ケルビーノは、アルマビーヴァ侯爵の小姓ですから、もちろん男なのに、オペラではその役は、メゾ・ソプラノ(ときにソプラノ)が歌いますね。こういうのを「ズボン役」(trouser role, breeches role)と言うのだそうです。「ブリーチズ」は、ひざのところで締めた、礼服の半ズボン。モーツァルトの肖像画で見たことがあります。
こういうズボン役は、その後もいろいろ出てきます。有名なのは、リヒャルト・シュトラウスの『薔薇の騎士』のオクタヴィアン。
オッフェンバックの『ホフマン物語』のニクラウス(メゾ・ソプラノ)もそうですし、ヨハン・シュトラウスの『こうもり』のオルロフスキー公爵もメゾ・ソプラノが演じます。
ご存じの方も多いでしょうが、『薔薇の騎士』のオクタヴィアンは、元帥夫人の若いツバメですから、女が演じている男の役なのに、元帥夫人の機転によって、「女装」させられるのですね。観客はその趣向を面白がって観るわけです。じっさい、ちょっとアブナイ世界を垣間見る気にさせます。このツバメが、あろうことか(いや、当然のことに)、ゾフィーという娘に一目ぼれすることになります。
最後に、この3人で歌う三重唱が出ます。恋人を若い娘にゆずった年増のかなしみ、前途を喜ぶカップルの幸福感がないまぜになりながら、聞こえてくるのは女声によるおそろしくきれいなハーモニーです。去年なくなった、エリザベート・シュワルツコプフが、この元帥夫人を得意にしていました。カラヤン指揮、EMI クラシックス盤をよく聞いています。
Am I looking at Mount Fuji?
小西友七先生は、新幹線が静岡県を通過中、富士山が見えたときに、隣り合わせたアメリカ人(?)にこう聞かれたことがあるそうです。
Am I looking at Mount Fuji?
先生にとっても印象深い表現だったらしい。この話は T さんが教えてくれました。
Yes, you are. とお答えになったのでしょうね。
一度は使ってみたいと思って、あるとき、バスで空港に行くとき、一緒に乗ったアメリカ人の高校生の少女に、
Are we going to the airport?
と聞いたら、ヘンなおじさん、みたいな無言の表情が帰ってきただけでした。慣れない」ことはするものではありませんね。
小西先生は、神戸市外国語大学名誉教授でした。去年亡くなられました。『ジーニアス英和辞典』の編集主幹だった方です。
毛利可信という英語学の大家がいらっしゃいました。「もうり よしのぶ」とお読みします。大阪大学名誉教授でした。この先生も2001年になくなりました。
十何年か前の英語学会か言語学会の講演でお話しになったエピソードが面白かった。
最初の赴任先は九州大学だった。主任教授に伴われて、同僚になる先生方に挨拶回りをします。
一心にタイプライターをたたいていた、イギリス人の先生に、主任教授は毛利講師をこんなふうに紹介されたのだそうです。
「彼は将来有望な言語学者(linguist)ですよ」
恐縮しかけた若い講師の顔も見ないで、そのイギリス人は、タイプの手を止めずに、
, which I'm sure I'm not. (「私はまったくそうじゃない」という意味でしょうね。)
関係代名詞の非限定(継続)用法の見事な例だった、とおっしゃっていました。こっちの表現は使ってみたいと思っても、私には無理ですが。
向田邦子
山本夏彦が「突然あらわれてほとんど名人」と激賞した向田邦子の『週刊文春』の見開きコラムは毎週楽しみにしていました。
『無名仮名人名簿』(いま文春文庫)ほかの単行本にまとめられています。いつも、「これは長女が書いた文章だなあ」と思っていた。もちろん、彼女が長女であることは、大評判をとった『父の詫び状』(文春文庫)で知っていましたたから、とくに発見ということでもありませんが。いまでもよく覚えている、エピソード(どこに出ているかは忘れてしまった)。
お茶の水から駿河台下に下る坂道の途中で、見知らぬ女から、切羽つまった声で「靴下貸してくれない?」と言われる。主婦の友社のトイレだかで貸してあげるのです。伝線してしまう靴下が多いころの話。同じ回だったと思うけれど、かわいがっていた年下の女のホテルでの結婚式の手伝いに行く。婿になる人は、向田がにくからず思っていた男なのですね。準備室というのか、支度をしているうちに、後輩に「あっ、口紅忘れてきちゃった。買ってきてくれない?」と言われる。薬局へ降りる階段の途中で思わず涙があふれ出た、と結ぶ。
なくなったときに、山口瞳が、『週刊新潮』のコラム「男性自身」で8週にわたって追悼文をつづりました。好きだった人を失った男の気持が痛いほど伝わってきます。『木槿の花』(新潮文庫)で、読むことができます。
映画音楽の作曲家
日垣隆の功績のひとつに、『使えるレファ本150選』(ちくま新書)という本も出しているように、文章を書くときに参照している辞書・年鑑などを惜しみなく公開していることがあげられます。彼の本では『そして殺人者は野に放たれる』(新潮文庫)がおすすめです。刑法の不備がもたらす戦慄すべき事態を告発する迫力は抜群です。
彼にならって、私がよく見にいくサイトを紹介します。もちろんご存じの方も多いはずですが。
がそれ。internet movie database の名前で知られているもの。以下の文も、いくつかはここを見てから書きました。
『サユリ』という、渡辺謙・桃井かおり・工藤夕貴たちが出たハリウッド映画は、映画としてはもうひとつのような気がしましたが、音楽が素敵でした。作曲者はジョン・ウィリアムズという非常に有名な人なのですね。『ミュンヘン』の音楽も彼です。私は見ていませんが『ハリーポッター』の音楽もこの人の作曲になるものらしい。
古くは、ニーノ・ロータ。『太陽がいっぱい』『ゴッドファーザー』など。
日本の映画音楽にも素敵なものがたくさんあります。
木下忠司は、『喜びも悲しみも幾年月』の作曲担当でした。「おいら岬の燈台守は」で始まる主題歌は私どもが若い頃はやった歌です。
『七人の侍』の音楽は早坂文雄です。土まんじゅうの墓(?)がうつるシーン、土ぼこりが立つ景色に重ねて奏でられた、トランペットの旋律が忘れられない。クリント・イーストウッドの『硫黄島からの手紙』で、よく似たシーンがあって、やっぱり、主題の旋律をトランペットのソロが奏でていました。
そう。クリント・イーストウッドは映画音楽も自分で書いてしまう才人なのですね。『ミスティック・リバー』でもそうでした。
フルートとハープのための協奏曲
モーツァルトのフルート嫌いは有名な話です。この曲はパリに出たモーツァルトが、フルート好きの貴族とその娘のために作ったものとのことですが、「比類のない傑作」というのはこの曲のためにあるような形容です。とくに第2楽章のアンダンテ、
ミミミ レーシド ファーソラソ ミーミ ファソシラソファミーレ
ミファラソファミレード レミファソラファミーレ
と、くり返し流れるメロディー。音階を行ったり来たりするだけ(のように聞こえる)なのに、天上の響きがありますね。吉田秀和の『モーツァルトを求めて』(白水社)に再録された文章の中に、「音階の作曲家」というエッセイがありました。いかにも、天才アマデウスは、単純な旋律を強い表現に変える魔法使いみたいな人です。
映画『アマデウス』の1シーンで、コンスタンツェが内緒でサリエリに持っていった楽譜がちらばって、それをサリエリが拾い集めるときに、この旋律が流れました。
モーツァルトの作品について、何から書こうかなと思いあぐねて、まずこの曲が浮かびました。
「私にとって死とは、モーツアルトが聴けなくなることだ」と言った人がいますね。アルバート・アインシュタインだったでしょうか。大いに共感をおぼえました。