パパ・パパゲーノ -138ページ目

著作権

 新刊の『女性のためのブログ講座』(藤森香衣著・高陵社書店、1200円)はよくできています。もちろん男性にもおすすめです。ブログをやってみたいけど、どうすればいいか分からない。そういう人はぜひ。


 感心したのは、肖像権・著作権について、守るべきことにきちんと言及してあることです。


 「次のどれが著作権の侵害にあたるか、考えてみてください。」というところを、要約して引用してみます。


 ①ひいきのミュージシャンの歌を知ってもらいたくて、歌詞を自分のブログに載せた。

 ②グラビアアイドルの写真を出版社のホームページからコピーして自分のブログに載せた。

 ③読んだ小説が素敵だったので、数ページを自分のブログに載せた。


 これは全部著作権の侵害ですね。著作権には、人格権と財産権の二つがあると、若い頃教わりました。

 人格権:著作者が望まないかたちで引用してはいけない。引用の仕方次第では、著者の主張と正反対の意見になってしまうこともある。

 財産権:人の著作物を無断で利用して、金儲けにつながる使い方をしてはいけない。


 人が作ったものを、不用意に使ってはいけない、というだけのこと、と言えばそれまでですが、案外守られていないもののようです。


 本の著作権の年限を、50年から70年に延ばそう、という法案がありますね。賛否が渦巻いていて、法改正が成るにしても、すぐに、とはいかないようです。この件に関しては、池田信夫という方のブログ、


 http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/


がわかりやすい。



海ゆかば

 「海ゆかば」の歌詞はご存じでしょうか。引用しても著作権には抵触しないと思うので、引きます。


 海ゆかば 水(み)(づ)く屍(かばね)

 山ゆかば 草むす屍

 大君の 辺(へ)にこそ死なめ

 かえりみはせじ


 この古歌に、信時潔(のぶとき・きよし)という作曲家が曲をつけました。昭和13年のことだという。


 戦時中、儀式、遺骨送迎、玉砕の放送時などに歌われたのだそうです。もちろん、私は聞いていません。


 はたちを過ぎてから覚えたと思う。

『日本の詩歌』別巻「日本の歌唱集」(中央公論社、いま中公文庫)を参考にこれを書いています。ミ・ソ・ラ・シ・レ・ミの日本民謡音階で書かれているのだそうです。


 丈が高くて、荘重で、名曲の条件をすべて備えたような曲ですが、いま公共の場で歌われることはまずありえない。わずかに、カラオケ店で、年配者が歌うくらいではないでしょうか。言うまでもなく、戦中の記憶のある人にはつらい歌なのですね。戦後民主主義の盛んだったころは、国を誤った歌である、というような批判もあったのです。


 この曲を作った信時先生は、戦後すぐは、活動停止状態に追い込まれたということを、いつか読んだことがあります。


 楽譜の読める方は、(小さな声ででも)歌ってみてください。しみじみと、いい曲だということがわかるはずです。


 「藍より青き 大空に 大空に」で始まる、梅木三郎作詞・高木東六作曲『空の神兵』も、軍歌として作られたので、今でも敬遠する人が多いでしょうが、じつに元気の出るマーチです。これも、上記の本に出ています。

四つの最後の歌

  「四つの最後の歌」は、リヒャルト・シュトラウス最晩年(1948)のオーケストラ伴奏の歌曲ですね。初演は1950年だそうです。フルトヴェングラー指揮、ソプラノ、キルステン・フラグスタート。私が生まれてからできたのです。それなのに押しも押されもせぬ古典的名曲です。複雑な心境です。

  最初の3曲がヘッセの詩、1つがアイヒェンドルフの詩、に作曲したもの。

 

  レコードになった歌手の数も10人を下らない。いずれも当代の人気ソプラノが録音しています。


  私が聞いたのは、聞いた順に次の4人。


  ジェシー・ノーマン

  エリザベート・シュワルツコプフ

  ルチア・ポップ

  フェリシティー・ロット


  グンドラ・ヤノヴィッツのものは、聞きたいと思いながらまだです。ルネ・フレミングのもまだ。

 

  聞き比べたくなる曲なのですね。

  作曲者は初演を聞かずになくなっています。 

  流れる曲は、静謐な、生の賛歌というべきものなのに、ふちどりに死のかげが寄り添っているおもむきがあります。

そう思うせいか、録音の半年後に亡くなったという、ルチア・ポップの歌声が心に残ります。シュワルツコプフも素晴らしい。ジェシー・ノーマンの地響きをたてるような重厚さも捨てがたい。フェリシティー・ロットの声は優しさにあふれています。


 


 

 



 


フェルメール

 トマス・ハリスの、レクター博士を主人公にした連作小説の一つ『ハンニバル』(上下、新潮文庫)の中に、レクターに全身の皮膚を剥ぎ取られ、復讐に燃える敵役が出てきます。全身包帯でグルグル巻きになっている。大金持ちで、有能な、男の召使いがいます。復讐がほぼ成功したので、忠実に仕えた子分に望みの褒美をあげる、という。では、と、召使いが出したのは、恋人と一緒に世界中のフェルメールを訪ねたい、という望み。これがかなえられることになった。(結局、この復讐劇はうまくいかないのですが。)

 これも映画になりましたが、映画では、このエピソードは省かれていました。(じつは、もう一つの復讐話も省かれています。)


 レクターは、偽名を使って、フィレンツェで成功した美術史家になっている。そういう設定ですから、フェルメールの名前は、じつに気のきいた小道具に思えました。


 ヨハンネス・フェルメール(1632-75)はオランダの画家ですが、残っている作品が32点とも35点とも言われるように、非常に少ない。世界中の有名美術館がその作品を1点でも欲しいとねらっているはずです。


 『真珠の耳飾りの少女』という絵は、見れば、ああ、あれかとすぐ分かります。(うまくいくかどうか自信はないけどここに貼り付けてみますね。)同名の映画にもなりました。(スカーレット・ヨハンソンがこの絵の通りの格好をします。本当に「絵から抜け出たような」印象でしたね。)




 これは、ハーグのマウリッツハウス(Mauritshuis)美術館所蔵です。この絵の向かい側に、『デルフトの風景』が掛かっていました。『デルフト』の絵は、画集で見るのと印象がはっきり違います。日のあたっている、遠くの家並みの美しさが感動的でした。(気がついていらっしゃるでしょうが、右のプロフィールに貼り付けてあるのがそれです。)


 去年出た、朽木ゆり子『フェルメール全点踏破の旅』(集英社)は未見ですが、踏破に挑戦してみたくなる画家であるのは確かですね。サンパウロにもある、と『ハンニバル』には出ていたと思う。


 ニューヨークにも5,6点あるのではないでしょうか。フリック・コレクションにある『女と召使い』(Mistress and Maid)なんて、出口にいったん向かったのを、戻って見直したくらいです。


「…する人」を示す造語成分

 「造語成分」という術語は「複合語の材料になる語」のことをさしますね。実例を見たほうが分かりやすい。


 「…する人」「…の職業に従事する人」を指す接尾語は、次のようにたくさんあります。番号は参照のために仮につけたもの。


 ①~者(しゃ・じゃ):学者・忍者・役者・患者・作者・読者、など。

 ②~人(じん・にん):詩人・才人・商人・後見人・被告人、など。

 ③~師(し・じ):看護師・手配師・詐欺師・薬師(くすし)・陰陽師、など。

 ④~手(て・しゅ):働き手・読み手・話し手、歌手・運転手・三塁手、など。

 ⑤~家(か):音楽家・政治家・落語家・作家・専門家、など。

 ⑥~屋(や):気取り屋・凝り屋・周旋屋・両替屋・古道具屋、など。

 ⑦~夫(ふ):鉱夫・車夫・水夫、など。

 ⑧~婦(ふ・ぷ):保健婦・助産婦、など。 [「看護婦」は、今では、ご承知の通り、使いません]

 ⑨~士(し):栄養士・会計士・税理士、など


 複数の成分が使えて、ほぼ同じ意味になることもあります。


 医者―医師/弁護士―弁護人/犯罪者―犯罪人、など。


 同じようなのに、意味が違ってしまうものもある。


 芸者―芸人/死者―死人、など。


 何か法則があるか、ときどき考えるのですが、あるようなないような。どなたか、解明してくださいませんか。


 なお、ここにあげた例は、主として、北原保雄編『日本語逆引き辞典』(大修館書店)から拾ったものです。ながめているだけでワクワクしてくる辞書ですよ。