千の風になって
「千の風になって」という歌は、秋川雅史というテナーが歌っていま大ヒット中のようですね。新星堂へCDをさがしに行ったら、入り口のラジカセから繰り返しこれが流れていました。
この歌を最初に聞いたのは、「ハッピーたいむ」というアマチュア女声コーラスの二部合唱でした。2005年の夏のことです。そのときはきれいなメロディーだなあと思っただけでした。
最近になって、ラジオやテレビでさかんに流れるのでいやでも耳に付きます。耳に付くついでに気になることを書いておきたくなりました。
それは、歌詞(訳詩)のイントネーションとメロディー・ラインとが合わないところがある、ということです。いま、盛んに歌っている方々も気がついておられると思いますが。
上は、詩の抑揚、下はメロディーをなぞったものです。
かな
私のお墓の前で な いでください
でくだ
私のお墓の前で なかない さい
「て」という接続助詞のところにメロディーのピークが来るのが気になるのです。
もう1ヶ所、
になーー
かーぜ って
も同様な違和感を覚えます。
もっとも、江間章子作詞・團伊玖磨作曲の名作「花のまち」(1947年)でも、
をー
七色の谷 越えて
となっていますから、目くじらを立てるようなことではないのかも知れません。
けれども、こういうことに特別うるさかった山田耕筰なら、これはいけないとおっしゃったはずです。
印象派
昨日(4日)の正午からWOWOWで「印象派 若き日のモネと巨匠たち」という3回連続の番組が一挙に放映されました。途中何分かの休憩をはさんで、3時過ぎまで。BBCの制作です。タイトルにあるように、モネを中心とした、印象派の画家たちの若い時代の交流を描いていました。
出てきた絵描きたちを生年順に並べてみます。
エドゥアール・マネ(1832-1883)
エドガール・ドガ(1834-1917)
ポール・セザンヌ(1839-1906)
クロード・モネ(1840-1926)
オーギュスト・ルノワール(1841-1919)
今から見ると目もくらむような大家たちが、時代に受け入れられなくて苦しんでいました。
とくに、マネは、あの名作、『草上の昼食』が、サロン展で手ひどい酷評を浴び、深く傷ついたのですね。
昨日のドラマ(ではあるが、最初に「これは実話です」と断りがながれます)では、セザンヌが可哀想に描かれています。40歳を過ぎても芽が出ず、親から仕送りを受けて暮らしています。「お前には絵の才能がないんじゃないか」と父親に言われてしまう。「いや、ありすぎるんです」と言い返すシーンが切なかった。
ドガは狷介な性格の人だったようです。50歳くらいで、ほとんど失明状態におちいってしまいます。晩年は彫刻作品を多く作りました。パサデナのノートン・サイモン美術館に、作品がたくさん展示されています。
セザンヌとエミール・ゾラが大学の同級生だったとか、ほかにも、面白いエピソードがたくさん出てきます。
こういう作品を見せられると、さすがはBBCと拍手を送りたくなる。見逃した方は、多分再放送があるでしょうから、そのときはぜひごらんになってみてください。
野球特待生
少年のころ、スポーツは「やる」ものでした。野球、水泳(川で)、スキー、卓球、なんでもやった。上手ではなかったけれど。
野球にはとりわけ熱中しました。昭和30年代の少年たちは、ひとり残らずと言ってもいいくらい野球に夢中でした。
ラジオにかじりついて高校野球の実況放送も聴きました。板東英二・村椿輝雄(ウィキペディアで「輝雄」であったと知りました)両投手が18回投げ合って引き分けた、歴史的一戦も、最後まで聞いていました。中学2年だった。いつか甲子園というところで試合をしてみたい、と、身の程知らずの夢をみていました。
いまでは、テレビで野球を観戦しています。大リーグに、たくさんの日本選手が出場し、毎日その試合が見られるなんて、昔なら思いもよらなかったことです。楽しみが広がってまことにいい気分です。
高校野球の選手たちの多くが、授業料免除だったということで問題になっていますが、いまさら何を言っているのだろうと思います。
400校近くが特待生の扱いをしている、と報道されました。タバコを吸ったり、酒を呑んだり、そのほかのワルサもしたりすると、出場辞退をするのだから、野球憲章に反しているのなら、授業料を免除されている生徒だけはずすのではなく、野球部全体を出場停止にするべきだと思います。5000校からの高校があるのですから、試合は十分に成り立つ。
特待生というのは、むかしは、勉強が格別よくできる、しかし、家が貧しくてアルバイトをしないと学業が続かない、そういう学生に与えられる、名誉ある資格でした。運動選手にそれが適用されていけない理由はなんにもない。
大学の選手がプロ野球チームから「食料費」名目で金をもらっていたのもとがめられましたね。貰った選手は「家計を助けるためだった」と釈明していましたが、よく分かります。所得税を払っていたのだろうか、という疑問は残りますが。
横浜高校には16人だかの野球特待生がいたという。それなら、松坂大輔はどうだったのだろう、と、野球ファンならだれでも思います。そういうところを、新聞は報道してもらいたい。
ジェルモン比べ
4月28日に「魔笛というタイトル」を書きましたが、オペラのタイトルの邦訳はときどき不思議なものがある、という話でした。
今日の日記は、『椿姫』についてです。もともと、原作のデュマ・フィスの La Dame aux Camelias が「椿姫」と訳されていましたから、オペラのタイトルもそれを踏襲したものらしい。オペラの原題は La Traviata (道を踏みはずした女)ですね。
カメリアが椿で、ダームが婦人ですが、この主人公ヴィオレッタ・ヴァレリーは、上流階級相手の白拍子のような女です。「椿姫」と訳したのは森鴎外だそうです。「姫」という語がアヤシイ。白雪姫の姫とは響きが違います。
ヴィオレッタに恋こがれる若者が、アルフレード・ジェルモン。ヴァレリーもアルフレードの求愛に応え、苦界(?)から足を洗って、パリ郊外でふたりの生活を始めます。これが第2幕。そこへ、アルフレードの父親、ジョルジョ・ジェルモンが訪ねてきます。
このオペラを語るときは、息子をアルフレード、父をジェルモンと呼びならわすので、以下それに従います。
息子はテナー、親父はバリトンが歌う。ジェルモンは、婚約が決まった娘(アルフレードの妹)のために、ヴィオレッタに、アルフレードと別れてくれと言いにきたのでした。世間体をはばかったのですね。
ここから、ソプラノのヴィオレッタとバリトンのジェルモン、の、アリアおよび二重唱の歌くらべになっていきます。美しい旋律に乗せて心理戦が展開します。イタリア・オペラの中で、(おそらく)もっとも多く演じられる理由は、この第2幕にあると思っています。
これまで聞いた二人の組み合わせ。
イレアナ・コトルバシュ――シェリル・ミルンズ(カルロス・クライバー指揮、グラモフォン)
アンジェラ・ゲオルギウ――レオ・ヌッチ(ゲオルク・ショルティ指揮、デッカ)
エディタ・グルベローヴァ――ジョルジョ・ザンカナーロ(カルロ・リッツィ指揮、小学館DVD)
マリア・カラス――エットーレ・バスティアニーニ(カルロ・マリア・ジュリーニ指揮、EMI)
どのバリトンも甲乙つけがたいけれど、しいて好みをあげれば、シェリル・ミルンズが1番、レオ・ヌッチが2番か。
ミルンズは、品のある美声の持ち主です。メトロポリタンがやった『シモン・ボッカネグラ』(指揮、ジェームズ・レヴァイン)のヴィデオで見た、堂々たる統領振りも印象に残ります。
このオペラの初演はヴェネツィアのフェニーチェ劇場なのだそうです。グルベローヴァのやった『椿姫』は、1992年のフェニーチェ劇場でのライヴです。序曲を聞きながら、運河を舟で劇場に近づいていく、そういう趣向になっていました。『夏の嵐』(アリダ・ヴァッリ主演の映画)の冒頭に出てくるのも、この歌劇場。96年に火事で焼失。04年にリニューアル・オープン。
春の小川
昭和26年(1951)に小学校に入学しました。
「春の小川」は、3年生くらいに習ったのかなあ。
私どもの歌った歌詞は次のようだった。
春の小川はさらさら行くよ
岸のすみれやれんげの花に
すがたやさしく 色うつくしく
咲いているよと ささやきながら
ところが、高野辰之が作詞した原曲は、
春の小川はさらさら流る
岸のすみれやれんげの花に
にほひめでたく 色うつくしく
咲けよ咲けよと ささやく如く
なのですね。明治・大正時代の小学校ではこっちの歌詞を歌っていた。昭和19年だかに一部歌詞が変わり(青)、僕らが歌ったときには、さらに少し変わっていた(赤)ようです。「咲いているよ」のところは、こうだったか、ちょっと記憶がアイマイです。どなたかコメントしてくださるとありがたい。文部省の教科書だから、変えてもいいのでしょうね。
作曲者は岡野貞一という人だそうです。
この唱歌のヒントになった小川は、なんと、渋谷の川なのだそうです。びっくりしますが、当時はきれいな水が流れていたのですね。