スカボロー・フェア
映画『卒業』(ダスティン・ホフマン主演、マイク・ニコルズ監督、1967年)でサイモンとガーファンクルの歌がいくつか使われました。「サウンド・オブ・サイレンス」が主題歌のようでした。「ミセズ・ロビンソン」も出てきたような記憶があります(どころではない。恋人の母親の名前が Mrs. Robinson ですから、この人を歌った曲なので、この映画のために作曲されたのですね、きっと)。「スカボロー・フェア」も聞こえました。英語の発音に従えば、「スカバラ・フェア」となりそうなところですが、慣用では「スカボロー」ですね。
英語の歌詞はこんなだった。
Are you going to Scarborough Fair?
Parsley, sage, rosemary and thyme,
Remember me to one who lives there,
She once was a true love of mine.
スカボローの市(いち)に行くの?
パセリ、セイジ、ローズマリー、タイム
そこに住んでいる人によろしく
彼女はかつて僕のいい人だった。
この2行目の「パセリ、セイジ、ローズマリー、タイム」というのは、何なのでしょうね。ハーブの名前を並べてあるだけのようです。何かの呪文かおまじないなのでしょう。
イギリスに古くから伝わるバラードなのだそうです。それを、サイモンが新しい曲に仕立てたようです。ウィキペディアに古曲の楽譜が出ていますが、まるで違うメロディーでした。
アサリのスパゲッティ
ボンゴレ・ビアンコという、アサリのスパゲッティの私のやり方を紹介します。と言っても、丸元淑生『システム料理学』(文春文庫)の受け売りですが。
ともかく、アサリをたくさん買ってくる。スーパーでは、250グラムくらいで1パックにしてあるはず。3人前なら1キロくらい、どーんと用意します。多いかな、と思ったら、さらに、それにもうひとパック足すくらいの分量。
砂を吐かせるのをお忘れなく。アサリを塩水(濃さは適当に。海水のように濃くする必要はない)につけておく。1時間くらいを目安に。砂が出つくす、ということはないので、これも適当に。貝殻についたゴミを、こすり合わせてよく洗い落とす。
熱くしたなべに貝を全部入れます(このとき、にんにくを3かけか4かけ一緒に入れる)。しばらくするとアサリが口を開けますからそこでふたをする。ほんの何秒かでよい。全部の口が開いたら火を止める。貝だけ別の器(なべでも皿でも)に取り出す。
貝から出た白い汁がなべに残る。これが味の決め手です。
底に砂が混じっているはずなので、それをはずすようにして、汁を取り出す。本当は漉したほうがいいのですが、面倒なので、なべを傾けて上澄みだけ取り出せばよい。にんにくはここで役目を終えます。
アサリの身を、貝殻からとりはずす。ここがこの料理で一番面倒なところ。でも、殻つきのままだと、わっせわっせとほうばる楽しみがなくなるので、我慢してはずしましょう。
オリーブオイルがあればそれ、なければサラダ油を引いたなべで、剥き身の貝をさっといためる。【この段階で初めてにんにくのみじん切りを加える人が多いようです。それもうまそう】
くれぐれも火を通しすぎないように。
さっきの汁に塩・胡椒をして剥き身と混ぜ合わせ、ゆでたスパゲッティを入れてまぜる。パセリのミジン切りをかけて召し上がれ。(汁が足りないときは、スパゲッティのゆで汁を加える。目分量でかまわない。)
アサリを調理する間に、麺をゆでるわけですが、たっぷりの湯を沸かし、塩を一つかみいれます。沸点を高くするため。ゆで加減はお好みに。スパゲッティの袋に表示してある時間を最初は守ったほうがおいしくできるはずです。
パセリはにんにくの臭みを中和するので、にんにくを使う料理のときは、セットで用意します。
写真的記憶力
ジェフリー・アーチャーの最近作『ゴッホは欺く』(上下、新潮文庫)は、ゴッホの「耳を切った自画像」をめぐって、だましたりだまされたり、何人もが殺されたりする物語。舞台も、ロンドン郊外(だったか?)、ニューヨーク、ブカレスト、東京、と、めまぐるしく移り、いつもながら手に汗にぎる展開を見せます。女の殺し屋が登場しますが、武器にするナイフは現地調達です。東京の包丁屋で包丁を買うシーンもあります。この殺し屋が、日本の職人技を尊敬していたりする。
主人公のアンナ・ペトレスクは、9.11当日の8時にノースタワーの事務室で解雇を言い渡され、悄然としてエレベーターに乗ろうとしたところに爆発が起きます。必死で非常階段を降りて命は助かる。
アンナは、視覚の記憶力がものすごく良い女という設定です。「写真的記憶力」と訳されて、「フォトグラフィック・メモリー」とルビが振ってありました。見たものが頭の中に写真のように保存されてしまうのですね。ために、しばしば、落ち延びたときの階段の記憶がまざまざとよみがえって苦しむ場面が出てきます。
イディオ・サヴァンという人びとがいます。いわゆる知能指数の値は低いのに、あんまり実用的ではない知識がむやみに豊富にある。たとえば、過去の日付を聞くと、ただちに何曜日か答えたり、全国の駅名を覚えていたりする。このタイプの人々も、写真的記憶力の(それも強力な)持ち主なのだそうです。
岩城宏之の文章で、最初に勉強した楽譜(スコア)でないと、指揮がスムーズにできない、と書いてあるのを読んだこともあります。頭の中のスコア(オーケストラのそれですから、複雑)を、写真のように1ページづつめくるのだそうです。これも分かるような気がします。
写真的記憶力は、身につけたい能力ではありますが、よいことばかりでもないのですね。
とは言え、会った人の髪型とか服装とか、ほとんど何も覚えていない、そのことで、「バカか」という表情を始終返されている者としては、いくらかうらやましくもあるのです。
有吉佐和子
有吉佐和子に『不信のとき』という小説があります。去年、米倉涼子主演でテレビドラマになったようですね。私は見ていませんが。アマゾンをのぞいてみたら、ドラマを見た若い人が、小説を読んで、長いけど、ドラマよりずっと面白かった、と感想を書きこんでいました。話に説得力があるから、今でもテレビ・ドラマになるのでしょうね。原作の舞台は昭和40年代でした。
昔、この小説を読んだとき感心したのは、こんなところです。
サラリーマンが、バーのホステスを送ることになって、結局、部屋に招じ入れられることになります。(その先はお定まりの展開)
部屋に入るとすぐに、ガス・ストーブに火をつけます。こうするとすぐ部屋が暖まるから、と(マチ子という名前の)ホステスが言う。同時に(?)電気ストーブにもスイッチを入れるのだったか。暖まったら、ガスの臭いはさせたくない、と、気遣いをみせるのです。はあ、こういうふうにするもんか、と思いました。もちろん、その後、こういう気づかいをする機会もされる機会もなかったけれど。なくてよかった。
『華岡青洲の妻』もよくできた小説でした。青洲の妻になったのが、加恵(かえ)。姑の名が於継(おつぎ)。麻酔薬の実験台にどちらの女がなるか、丁々発止のかけひきをするのでした。
文学座が舞台に載せたのも見ました。青洲が北村和夫(このあいだ亡くなりましたね)、母親が杉村春子、加恵が小川真由美でした。母と嫁とが、息子をめぐって静かに火花を散らす様子がよく分かる舞台でした。演出も作者がやったのだと思います。
今でも文学座は舞台でやっているのでしょうか。
有吉佐和子は、問題作『複合汚染』や『恍惚の人』で、時代を先取りした達者な作家でした。1931年生まれ、亡くなったのが1984年ですから、わずか53年の生涯だったのですね。なくなる年にテレビに出て大はしゃぎしていた(それで顰蹙を買った)のをよく覚えています。作品に力がありますから、ずっと読まれていくものと思います。
新潮社から出た第1期の選集全13巻(ペーパーバックでした)は、しばらく前まで私の書棚にあったのですが、増える本に押されて別の場所に行ってしまいました。
大乃国 対 小錦
勤めた会社が国技館に桟敷席を持っていたおかげで、本場所の相撲を何度か見物することができました。なんという幸運でありましょうか。今でも感謝しております。
全盛時代の千代の富士や、貴乃花が目の前で相撲をとるのを見たのですから、孫にもひ孫にも自慢したいのですが、自慢する相手がいつのことになるやら。
力士が立ち会ってぶつかるときの、バシッという肉弾相打つ音が聞こえるのですからこたえられない。しかも、当時の桟敷席では飲食のみならず、タバコも吸えたのです。あんなに旨い酒と煙草の味は、この先、ほかで味わえるとも思えません。
たまたま、横綱・大乃国と大関・小錦が当たる日の取り組みを見たことがあります。二人合わせると400キロを越していたんじゃないでしょうか。体の大きい力持ちが真っ向勝負する、大相撲の醍醐味です。どっちが勝ったかも忘れましたが、ここ何年もない大男同士の立会いを見ただけでもまんぞくの限りです。
大乃国(芝田山親方)は、今では、スイーツ(甘いもの)界のスターなのですね。